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ココロに触れて
3 / 3 「ただいま!」 「おかえりなさいませ、梨子様」 その日、帰宅した梨子は自邸の扉を開けた先に立っていた着物を着た初老の女性に出迎えられた。 「ただいまカオルさん」 矢野カオルは宮川邸の使用人頭である。梨子と修司の父親である智也が幼い頃から宮川家に仕えており、智也が生まれ育った本邸を出てこの邸宅を構える際に一緒にこちらに移ってきた。 宮川一家が海外移住をしている間はカオルがこの宮川邸を守り、主人である智也が不在の現在、この宮川邸の全てを任されているカオルがこの家の主だと言っても過言ではない。 「お兄ちゃん帰ってますか?」 「修司様はアトリエにいら」 「ありがとう!」 「あっ、お嬢様!お屋敷の中は走ってはいけません」 「はーい!」 「そうおっしゃいながら走っておりますよ梨子様!」 元気よく返事をしつつも注意を完全に受け流して走り去った梨子を見てカオルは深いため息を吐いた。 梨子はまず二階の自分の部屋に寄って鞄と大事なヴァイオリンを机に置いた。そして制服のまますぐさま部屋を出た。目指は三階に作られた修司のアトリエ。修司がデサインや縫製などをするときの作業場である。 「おにいちゃーん?」 そう問い掛けながら梨子はアトリエの扉をノックした。するとすぐに扉が開き、中から修司が出てきて優しい笑顔で梨子を迎えた。 「おかえり梨子」 「ただいまお兄ちゃん!」 そっと中へ招き入れられた梨子は嬉しそうに修司に抱き着き、修司も梨子を包み込むようにして抱きしめた。 「あのねお兄ちゃん」 「ん?」 修司に抱きしめられたまま顔を上げた梨子があまりに嬉しそうに笑っているため、修司は思わず頬が緩む。 「今日ね、新しいお友達ができたの!」 「そっか。よかったな」 梨子が嬉しそうだと無条件に修司まで嬉しくなるのだ。しかし次の瞬間、 「うん、遥くんっていうの」 梨子の発言を聞いた修司の表情は一気に歪んだ。 楽しそうに話す梨子だが修司はそれどころではなかった。いつもであれば可愛い妹の話ならどんなに忙しくても一字一句聞き逃さない修司が、今に限っては右から左へと完全につつぬけ状態だ。 梨子が話す“遥くん”とやらは一体何者なのか。こんなに梨子が楽しそうに誰かのことを話すなんて。しかも知らない男のことを。修司は内心穏やかではなかったが、出来る限り冷静を装いながら梨子に尋ねた。 「梨子、遥くんて?」 「あのね、遥くんはね、一緒に学内オケに出る人なの。同じ一年生でね、一年生で定期演奏会に出るのは私と遥くんだけなんだよ」 「あぁ、オケ関係か」 なるほど理解できた。が、しかし随分と早く梨子はその遥くんと仲良くなったもんだと修司は思った。 「チェロの子なんだよ」 「そうなんだ。……あ、オケといえば梨子に見てもらいたいものがあるんだ」 「なあに?」 「梨子の衣装デザイン。せっかくのソリストなんだから新しいの作ろうと思って」 「本当?!嬉しい!」 オーケストラでソリストが女性の場合、その衣装の華やかさもオケを楽しむ要素となる。修司は梨子のソリスト決定直後からずっとデザインを考えていたのだ。 「いくつかデザイン考えたから好きなの選んでいいよ」 「うん!」 修司に手を引かれて梨子はアトリエの奥へと進む。 アトリエの真ん中には大きな作業台があり、そこにはミシンをはじめ様々な道具が整理されて置かれている。その作業台の周りにはトルソー(上半身だけのマネキン)や本棚などがある。さらに窓際にはデザイン画を描くときに使用するデスクがあり、二人はその前へとやってきた。 デスクの付属チェアに座った修司は梨子を抱き上げて自らの膝の上に横向きに乗せる。そして右手を梨子の腰あたりに回して身体を支えた。 「どれがいい?」 「わあ、可愛い!」 目の前の数枚のデザイン画を前に梨子の目は輝いた。修司は空いている方の手でその中から一枚のデザイン画を手に取る。 「俺のオススメはコレ。ポイントは腰の黒いリボン」 「か、可愛い!……けど、こんな可愛い衣装私に似合うのかな?」 「梨子が着るから可愛いんだよ。そういう風に作ってるんだから」 修司の作る洋服は、色、形、サイズ、生地に至るまで全ての要素において梨子が最も可愛く見えるように計算され作られている。 可愛い妹の梨子に可愛い洋服を着せたい。それが修司がデザイナーを目指すに至った理由であり、いついかなる場合でも常に念頭に置いていることである。 「私もコレがいい!色も形も一番好きだもん」 「うん、わかったよ」 「楽しみにしてるね!お兄ちゃん大好き!」 「兄ちゃんも梨子が大好きだよ」 ぎゅっと抱き合って愛を確かめ合う兄と妹。そこへ聞こえたドアをノックする音。 「はい、どうぞー」 修司の返事から一呼吸置いて扉を開けたのはカオルだった。そんな彼女の目に飛び込んできた普通の人なら多少は驚くような光景に対して特に反応することもなく、 「修司様、梨子様。仲良く愛を確かめ合っていらっしゃるところお邪魔して大変申し訳ございませんが、お夕食の準備が整っております」 「すぐ行くよ。梨子、ご飯」 「んー、お腹すいたぁ」 修司の膝から降りた梨子はお腹を手で押さえる。 「梨子様はお着替えが済んで」 「はい、行ってきます!」 「あ!梨子様!走ってはなりませんとあれほど!」 「はあい!」 「ですからお返事ではなく、梨子様!」 慌ただしくアトリエを出て行った二人を見て修司は苦笑いを浮かべながらつぶやいた。 「ほんと、平和だな」 君が笑う至福の時間。 いつまでも、こんな心穏やかな日々が続けばいいと思った。 ココロに触れて さばききる自信がない (2010/05/20-2010/06/22) |
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