8.I know you
そんな彼が、眼鏡をとってからあぐらをかいて背中を向けた。顎に手をやって、ゆっくりと、薄い皮が剥がれていく。徐々にそれは分厚さを増して、その内側は月明かりに照らされて皮よりも不健康な白色であることがよくわかった。丁寧に剥がれていく隙間から黒くて少し癖のある髪の毛が現れた。そのうなじは何度も何度も見てきたもので、現実になった途端に視界が滲む。けれどわたしは彼を決して遠くへやってしまいたくなかった。
「赤井……」
まだ剥がれきっていないその顔を拝めなくても、それでもあなたがあなたであることをわたしはよくわかっている。だから、早く。
「赤井、」
ずるりととれた瞬間にわたしは彼の肩を持ってこちらに向かせた。そこには待ち望んでいた本物の彼の姿があって、間近で顔を確認しているのに視界は滲んだままだった。急に視界が開けた途端に頬に暖かい筋を感じた。それはすぐに空気に触れて冷たくなって、そこでやっと泣いてしまったのだと気づく。
ただ眺めるわたしの背に、彼の手が回った。
「待たせてしまったな」
やはりわたしは間違ってなどいなかった。死んでいるなんて信じない。赤井の痕跡を探すように、だけど周りに気をつかっていた結果がこれ。わたしは間違っていなかったのだ。
「赤井!」
わたしは彼に熱いハグを送る。彼は優しく抱きしめ返してくれた。アメリカでさえも、彼は日本人みたいなもんだからとこういったことはしたことがなかった。初めて感じる赤井の温かさに酔いしれながら、次第に嗚咽が漏れて、そして悲鳴のような声に変わっていった。彼はそれに戸惑いもせず、ただひたすらに受け止めてくれる。
「すまない」
「待ってた、ずっと、ずっと、ずっとずっと待ってた!」
「ああ」
「死んだって言われてた場所にいっても、信じられなかった!」
「……ああ」
「信じなくて、……よかった」
自分勝手に、自分のことを、そして赤井を信じていた。あんなことで死ぬほどこの男はやわじゃない。そんなことは誰でも知っていることなのに、皆が皆、彼は死んだと口を揃えていた。その現実に、どれほど悩み、苦しんだことか。
「ツラいを思いを、させたみたいだな」
待ちに待った彼の空気、隙間。
「それでも、存在してくれたから」
ごめんなさい、よこしまなことを考えていて。
「翔子」
一度、お互いの表情を確認する。赤井は眉間に皺を寄せてこちらを見つめていた。
「な、に……?」
まだ続く嗚咽。汚い姿を見せてごめんなさい。
「支えてくれて、ありがとう」
ただひたすらに、あなたを待っていてごめんなさい。
苦しいぐらいに赤井はわたしを抱きしめた。もっともっとあなたを感じたくて、わたしもキツくキツく抱きしめた。
あなたの甘い香り、あなたのかさついた手、あなたの痺れる声、あなたの緩やかな温もり。全て全て、いまは手の届く距離にある。ずっとずっと感じたかった。いま、感じている。
「沖矢さんが、赤井で、よかった」
驚くほどの執着に、きっと赤井も驚いたことだろう。でもそれはなんとなくわかっていたのではないだろうか。なんと言ってもあなたのことだもの。わたしのことぐらい、簡単にわかったはずだ。いや、彼でなかったとしてもわかったか。ジョディも気づいていたくらいだ。
「きみとここで、日本で、出会えてよかった」
わたしたちは至近距離で見つめ合った。わたしは吸い込まれそうな瞳に見とれてしまっていた。
「お願い、いなくならないで」
前にもしたお願い。彼は少し笑んで、ゆっくりと頷いた。
「沖矢がいなくなるとき、それはきみの幸福が訪れるときと、言っただろう」
だからわたしもゆっくりとほほ笑んだ。彼が過去に言っていたことばを、噛み締めるように。
「沖矢昴の、赤井秀一の、女になってくれないか」
なんだか臭いセリフに、ちょっと笑ってしまった。しかしいたって真面目な顔をしたままなものだから、わたしは頷いてから自分の顔を隠すようにそのまま俯く。しかし赤井の手が顎を捉え、目が合ってすぐに顔が近づく。ゆっくりと、確かめるように触れた唇に心地よさを感じて目をつむる。
柔らかくて、温かい。触れている手よりも熱くて、滑らかで、しっとりと潤んでいる。ついばむようにふたりで膨らみを味わい、酒に酔いしれるように痺れていく頭が洗脳される。
ただあなたを求めていた。せめて自分の元にこなくてもいいから、ただただ生きていてほしかった。死を覚悟するべき仕事をしているとわかっていても、彼の面影はうっすらとどこかに存在していて、だからこそ、いつまでもわたしはただひたすらに追っていたのだ。ただ一筋の糸、沖矢昴に全てを託して可能性を自分のなかでゼロにしなかった。
彼の手がわたしの頭を掴んだ。引き寄せるように抱きしめて、からだ全体を支えながら、唇を押し付けあいながら倒れる。ギシリと音を立てたベッドがふたりの重さを知らせてきて、やっぱりわたしたちは生きているのだとわからせてくれる。
そして、わたしたちは。
月明かりの灯るその部屋のベッドのうえで、ひとつ、またひとつとお互いの正体を明かし合うように服のボタンを外した。