2-1ヶ月目

「……」
 これ、思ったよりハードだわ。
 そう思い始めたのは六都道府県目の講習をやり終えたころだった。現状、ITリテラシー教育の旅は、東京都から試験的に開始し、予定が合った新潟、福島、栃木、鹿児島の県警巡りをすでに終えていた。現在は愛媛からの帰りである。赤から黒に変わり行く空に向かって飛行機が飛び立ってからいくらか経ち、寝ぼけ眼の自身の瞳にはうっすらと夜景の光りが入った。
 手元に置いていた機内モードに設定済みの個人の携帯電話を触る。Wi-fiさえ繋げられれば松田との連絡も可能なのだが、今乗っている飛行機はそんな現代的な物が備わっていないらしい。繋がったとしても、おそらく既読にしか私はできないだろうが、既読にしたことさえ彼が確認してくれれば、私が生きていることはわかってくれる。
『本機はただいまより着陸態勢に入ります』
 休憩時間も、もう終わりのようだ。
 私は脳内で、残っているタスクを並べた。あまりの仕事量の多さに目眩がする。キャパシティオーバーとはまさにこれだ。もういまは誰にも会いたくない。誰にも。



 空港から直行した本庁はとっくに薄暗くなっていた。冷たい風に凍えつつ、キャリーバッグを転がす。冬へと季節の移り変わる際の、なんとなく独特な香りが鼻をかすめた。なんだかちょっと寂しい香りだ。そういえば、プラーミャの件で忙しかったからか、今年は金木犀の香りを嗅いだ記憶がない。
 世間はすっかりクリスマスの色をしているようだが、赤い色をしたもみじの葉っぱもじっくりとは見ていない。私に季節を教えてくれるのは、体感温度と事務的に知らせてくる液晶画面の日付表示ぐらいだ。
 普段なら使ってこなかった本庁内のエレベーターに乗って、サイバー犯罪対策課の部屋に向かう。
 ああ。キャリーバッグって、こんなに重かっただろうか。
 扉を開けると、当直勤務の職員が「お疲れ様です」と声をかけてくれた。私も、できる限り元気良く、おつかれ、と返した。
 キャリーバッグを自分のデスクの真横に滑らせ、出張用にと購入したリュックの中からパソコンを取り出した。さっそく無線でネットワークに接続させる。パチパチと、ここ数日の報告書を作成し始めた。
 えーと。愛媛県警、ITリテラシーの認知度はあまり高くなく、特に地域性からして個人事業主が多いからか、民間への周知も警察庁等のホームページからだけでなく、地域に密着して警告した方が詐欺対策になるため推奨する。と。
 何が大変って、これだ。
 さすが警察組織、といったところだろうか。そこら辺の一般企業なら、リモートワークとやらで外部ネットワークから企業、もしくは社内のネットワークへ接続できるようにするのかもしれないが、私たちはそう簡単にアクセスできるような環境を信頼できるほどの組織ではなく、そういった環境は一切構築していない。即ち、ITリテラシーに関する教育をしに行っているのに、報告書等の提出が少々原始的なのだ。外での資料作成や提出はリスクが高いから原則禁止で、業務用パソコンへのデータ保存も禁止されている。しかし私はひとりしかいない。作業量が割に合っていないのだ。
「警部。昨日にメールした詐欺の件なんですが、報告書あがりましたんで押印お願いします」
「明日までに確認する。押印したらデスク置いておけば良い?」
「はい、お願いします」
 課内の共有サーバーには、大量の押印待ちファイルが入っていた。今からこれらを見るとなると骨が折れる。せめてもの救いは自分の家が本庁から遠くないことだろうか。何時であっても家に帰れるのだ。……それとも今からもう帰ってしまって、この押印を全て明日以降に回してしまうか。急ぎの物については、地方の県警にいる際にメールでやりとりしていたし、それはそれであり、か。いや、でも明日は朝一から捜査会議にくるように依頼があったし、その後も課内での近況報告会が入っていて、公安からもたしかなんか、うん、……なんかあった。あった。
 働かない脳が、適当に言葉を並べて報告書を作っていく。強めにEnterキーを叩いて、上から下まで間違いがないかを確認した。
 問題がなかったので、とりあえずひと息ついてデスク上に置いてあるガムを一粒口に放り投げた。
 ……あ、マズい。
 それは口に含んだガムの話ではない。私は急いで個人携帯を取り出した。機内モードを解除して、メッセージを受信させる。通知音は鳴らないが、画面には次々とメッセージが表示されていく。
 頭を抱えるより先に、急いで通知の主へ通話を開始するボタンを押した。機械的な音が、発信していることを知らせてはくれるが、電話の相手は全く出ない。
 やっとのことで頭を抱えた私は、彼の居場所を考える。あり得るとしたら、彼が住む寮か、萩原のところか、私の家か、本庁か。
 どうか本庁であることを願いながら、私は立ち上がった。

 刑事部に顔を出すと、そこには伊達と一緒に松田も話し込んでいた。特に立て込んでいるといった様子はなく、何やら仲良さげに談笑しているようだった。彼の機嫌が悪くないならまあ良いだろう。私は刑事部の部屋へと足を踏み出し、気配がしたからか顔を向けてくれた伊達と目を合わせた。その次に、松田も一瞬だけ私を見た。
「話し中だったか?」
「いんや。問題ねーよ。っと、それより大丈夫か?」
「ん? ああ、大丈夫」
 心配の声を出した伊達に笑みを作って挨拶をしてみたが、松田は一切こちらを向かない。あー、これは、……二の舞だ。
 実は前にも一度あったのだ。そのときはまだ出張には出向いていなかったが、準備やなんやらでバタついていたときだった。その時にせめてでも生存確認のためにメッセージを既読にすると約束したのだ。
「あー、その、松田。悪かった。携帯の機内モードを解除し忘れてて……」
「……」
「わかってはくれてるだろうが、悪気はないんだ、悪気は。ただちょっと、言い訳だけど忙しくて最近ぼーっとしてることが多くて。あー、と。慣れるまではこんなことももう少し続くんじゃ、ないかと」
 言い訳に言い訳を並べ、謝罪の内容を語る。しかし彼は私と目を合わせるどころか、視線を逸らして、その言葉を聞くだけだ。彼がマメで、私がマメじゃない。それが原因なのは一目瞭然である。
「既読にはしろって言っただろうが」
「あ、はい、すみません……」
 彼は大きなため息を吐いた。それは私に聞かせるものだった。その音に肩を揺らしてから反省の声色を出す。
「気をつけてるん、だが……」
「できてなきゃ意味ねぇだろうが」
「う。そう、……そうだな」
 眉間に皺を寄せたままの彼とは、まだ一度も目が合っていない。私はこんなにも見つめているのに。
「ま、いーけど。そんなに仕事が好きならもっとやりゃいいんじゃねーの」
 脳内には彼への愚痴が生まれ始めていた。そんな風に、言わなくても。
「第一おかしいんじゃねーの。メッセージの確認もできねぇってどんな業務量なんだよ」
 小憎たらしく、彼は鼻で笑った。
 負の感情を心のうちでグッと潰す。松田の言う通りだ。メッセージなんて見ようと思えばすぐ見れるはずなのに、いつも業務を優先してしまい、つい後回しにしてしまう私が悪いのだ。
「悪い」
 ポツ、といつの間にか呟いていた。意図して出てきた言葉ではなかった。本当に、自然と、零れていた。会いたくないと思ったバチが当たったんだ、きっと。
 本日初めてこちらを向いた瞳は、私と目を合わせたかと思うとギョッとした表情をした。滅多としない顔だったが、今はそれに反応できるほどの気力もない。もうなんでも良い。全部全部私が悪い。
 今度は私から視線を逸らし、もう一度「悪い」と呟いた。今度は自分の意志で謝った。
「まだ、ちょっと、いっぱいいっぱいで、私の容量も悪いみたいなんだ。顔も見れたし、今日はもう、帰るよ」
「え、ちょ」
「悪い」
 念押しでさらに謝罪を乗せた。急いで踵を返すと、松田に腕を掴まれる。また目が合いそうになって、その前に視線をズラした。軽蔑されるような視線を向けられていたとしたら、私はきっと耐えられず潰れてしまう。最悪の状況を考えて、彼と顔を合わせない選択をしたのだ。つまり、自己防衛だった。
 掴まれた腕を軽く振り払い、「悪い」とまたもや口にする。彼の手が離れたのを良いことに、私は急いで自分の部署に向けて引き返した。
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