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 彼女が目を覚めしたのは、白い天井の部屋だった。
それはいくらか前にみたものとほとんど同じで、記憶はそこまで古くなかった。
そう人生で何度も体験するようなことではない。

 体を起こしてカーテンも締まりきった真っ白な病室を見回した。

「え、岸本さん」

 看護師が部屋にはいってきた。
しかしそれもつかの間で、慌てた様子ですぐに部屋を出ていった。

 倒れたことを思い出した彼女は、ため息をついてからベッドに体を預ける。

 どうやらいつの間にか弱くなっていたようだ。

 共にしていた零が救急車でも呼んだのだろう。
大方そのように愛菜は予想をつけていた。

 扉の叩く音に少し肩を揺らす。
返事をせずとも勝手に開き、白衣を着た男性が直ぐさま愛菜に近づいた。

 頭がまだ働かずどこか微睡みが残る脳内に、すっきりしない体。
倦怠感に思考を苛まれながら、聞こえてくる質問になんとなしにだけ彼女は答え続ける。
その答えが正解であるかは定かではない。

 どうでもよかったのである。

「捕まった男性は、あなたを恋人だと言い張っているのですが」

――捕まった、男性。

「え、と。ごめんなさい。よくわかりません……」

 そう医師に返答をすると、「記憶障害か? 検査の必要がありそうだな」と色々と準備を始めた。

 それから言われていた通り、検査に進んだ。
どうやら、今回は前回と違って記憶障害があるとして進められているようだ。

 たまたま倒れただけだと言うのに、なぜこんなにも仰々しく検査をされているのかが彼女にはわからなかった。
それに、捕まった男性、というのもなんのことか全くもって不明なのである。
それって前にすでに終わった話だったのでは? と。

 病室に戻り、閉まっていたカーテンを開けて窓の外を見やった。

「え……」

 私は窓に手をつけて外を眺めた。

「え、え? どうして?」

 茂りのある木々は、いまの季節を彷彿と、させたのである。
だがそれは、彼女が過去に生きた世界を彷彿とさせたのだった。

 急いで窓を開けて、手を外に出す。
生ぬるくて、体にまとわりつくような湿気が彼女の腕に張り付いた。
それは夏を示す鬱陶しさだった。
そもそも、病院内の空調が整っているとはいえ、温かいではなく、涼しいと体が感じていた時点で気づくべきだったのだ。
しかし、夢だったにしてもリアルすぎたあちらの世界ですごした三か月間は、いったいなんだったのか。

 無意味にも彼女は自身の頬を抓る。
ありきたりのことをやって見せたが、その頬はやはり、痛かった。

 つまり捕まった男、というのは。

 病室に入ってきた看護師が窓の外を眺める私に「岸本さん?」と尋ねる。

「すみません。今日って、"七月"何日なんでしょうか」
「今日は三日ですよ。岸本さんが運ばれてきてから、丸三、四日意識不明だったんですから」
「そうですか、ありがとうございます」

 看護師は、このあとのスケジュールを軽くだけ伝え、すぐに出ていった。
愛菜は窓際に置かれた質素な椅子に腰をかけ、先程よりも覇気のないまま外を眺める。

 日付を考えると、つまり、全ては長い長い夢だった、と。

「……やってらんないわ。男運、なさすぎ」

 元彼はヒモ、クズ、ろくでなし、ストーカーと続き、最後は夢の中。

 あの冷たいコーヒーも、ドライブで浴びた潮風も、温かい肌も、くすぐったい声も、全て夢だったのだ。
長い、長い、夢。

 じわりと涙が滲み、つい昨日に触れた気がした大きな手は、もう彼女の頬に流れた雫を拭ってはくれない。

「レイ」

 声に出して呼んでも、彼が返事をするわけなどない。

「零」

 彼女は流した涙を自分の指で拭い、彼の名前を何度も何度も、呟くのであった。





 父のいない息子のために、仕事は過去と同様、いや、過去以上に彼女はやらねばならなくなった。

 未婚の母となった彼女は、今も昔と変わらずショップの店員、ではなく、本社での勤務を言い渡されていた。
元々そうなってほしいと踏んで入社したため、特に問題はなく、女性の多い会社なだけあって、子育てに関していえば協力的だった。

 彼女が腹に、息子を身ごもったと知ったのは、目が覚めてから数ヶ月後のことだった。
ちょうど、夢の中の話を都合よく忘れられそうなときだった。

 彼女はとある悩みで病院に出向いていた。

しかしその悩みはあっさり、「妊娠されてますねぇ」との医者の発言で覆され、目を丸くさせ、思わず薄っぺらい腹を無意味にさすったりしたことは、驚きのあまり記憶に新しく感じるほどだ。

 彼女が病院に足を運んだのは生理不順という名の体調不良の可能性が浮上したからである。
本人としてはそれなりにピンピンしているつもりだったのだが、ただひとつ、生理不順を除いては、であった。
だがそれは、精神的ストレスが重なった結果、不調となっていただけと信じて疑わなかったわけで、例え彼女が降谷零といたしていたとしても、それは夢の中だけの話のはずだから、まず妊娠の可能性は排除していたわけだ。

 ストーカーの元彼氏とは一年以上前から縁を切ろうと奮闘していたわけで、自分自身の意識がない間にでも襲われていない限りは身ごもるはずがない。
この現実世界で、無抵抗な彼女へいたそうとするほどのイカれた野郎は、今回の全ての元凶の男ぐらいだろうし、まして彼はやらかしにやらかして、留置所にあの日から、そしていまもいるのである。

 まだ身動きもできない我が子は、一体どんな姿かたちをしているのか?

 晴れない気持ちはそのままに、けれど彼女は人を殺すほど強くもなかったのである。
だから息子という存在を育てることになったのだ。

 そんな彼女は今日も今日とて、息子を迎えに保育園へと足を伸ばす。

「こんばんは、岸本です。一(はじめ)を迎えにきました」
「一くんママ、こんばんは! 一くん、ママがお迎えにきたよー」

 先生の声を聞いて、五歳になったばかりの彼は足音を立ててから私の足にしがみついた。
子供特有のサラサラの髪が、金色に輝いている。

「ママおそい!」
「ごめんごめん。ちょっと長引いちゃった」
「ぼく、おしたしたべたい」
「うんうん、ほうれん草のおひたしおいしいもんねぇ」

 先生に頭を下げ、彼の手を取った。
最近ではきちんと自分のリュックは疲れていても自ら持つようになり、手間が減ったのやら、逆にかかるようになったのやら。
母と会えたことが嬉しいのか、今日の帰り道も彼女の息子はルンルンである。
しかしそれは一瞬で失われる。
我慢のできない彼はすぐに口に出す。

「ママぁ」
「なあに」
「またパパのこときかれたぁ」
「なんて言ってやったの?」
「ぼくににてイケメン」
「そうそう、それでいいの」

 息子に笑いかけてやると、唇を突き出してむくれ始めた。

「パパ、ほんとにぼくににてる?」
「うん、それはもー、そっくり」
「パパとぼくどっちがかっこいい?」
「えー、ママ選べないよ」

 どうやら息子はその返答が気に食わない様子だった。
より一層むくれ上がり、彼女の言うパパには似ても似つかない顔へ変化させた。
なにせ父はこんな表情を絶対にしないのだ。

 降谷零。
それは彼の父の名前で、この世に存在し得ない遺伝子の男だ。
テレビアニメでは大層ちやほやされており、彼は今日も元気にどこかの画面で笑顔を振りまいているに違いない。

 街に出かけると、たまに彼を見かけるのだった。
テレビ、漫画、ポスター、広告、イベント。
どれもこれも、安室で、降谷で、透で、零で、彼を思い出す機会は多すぎた。
それに何より、彼女には、今はまだ小さき宝物がいるのである。
だからこそ、彼女は日頃、この世界にはいない彼に祈るのである。

 レイ、零。
私はそちらの世界からはいなくなりましたか。
だとしたらどんな風にいなくなりましたか。
跡形もなく?
それとも、跡を残して?
私はどうやら、彼しか連れて帰ってこられなかったようです。
あなたは私のことなんて、もしかしたら忘れているかもしれないけれど、私の存在があなたを苦しめる存在だなんて自惚れも大概な想像をしたりして……。
もしもそんな存在になれていたとしたら、私のことなどなかったことにしてはくれませんか。
あなたと私の片割れと、共に生き、忘れません。

新しい命をわたしに────
その言葉の続きは、想像にお任せいたします。

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