2−3
ここから見える海はとてもきれいだった。水面に太陽光が反射してきらきらとしている。これ以上、文章で伝えるには難しいほどありきたりな美しい景色だった。
潮風にあたりながら彼女は地平線を眺めていた。
どこかに自分の世界はあるのだろうか。
答えなど誰か知っている人間がいないことぐらい彼女はわかっていた。それでも元に戻りたいからこその疑問だった。
「きれいですね」
隣から彼が話しかけた。声色は落ち着いていて、やはりどこかキザっぽい。
「そうですね」
彼女が彼のほうを向くと、後ろに白いスポーツカーが視界にはいった。その車は真実を突きつけてくるアイテムのひとつで、安室透という存在もまた主人公と同様に彼女にとって残酷な人間だった。
どこからが別の存在であるのか、どこからが現実なのか、それとも全てが嘘なのか。この地平線でさえも偽物なのか。
どこかから返事が貰えるわけでもなく、彼女はひっそりとため息をついた。
「浮かない顔をされていますね」
わざわざ安室は彼女の顔を覗き込んだ。
「そうですか? そんなつもりはなかったんですけど」
そして彼女お得意の薄ら笑いがつくられる。それを見た安室は仕方なさそうにため息を吐いた。
「仕事の息抜き、にはなりませんか?」
どうやら彼女がため息をついたのは、仕事で行き詰まっていると思ったかららしい。
「なってますよ、ありがとうございます」
そしてまた、彼女は地平線を眺めた。
「あなたは不思議なひとですね」
安室は参りました、と言わんばかりの顔をした。多少笑みを含めているのは自虐も含んでいるからだった。
「わたしからするとあなたのほうが不思議なひとですよ」
「そんなことありませんよ。ぼくはただの男ですから」
あえて男と言ったのは前科があるからこそだった。さらに、彼女に惚れている体だからこそ性別的違いをわからせるつもりで言っていた。
「そういうひとは普通じゃないんですよ」
はたして愛菜はなにを思って眺めているのか。安室にはそれがわからず、直線上の水平線の先になにかを見据えているとしか思えなかった。
ひとしきりその場を堪能すると、愛菜は立ち上がって「どこか別の場所にでも行きましょうか」と微笑んだ。しかし安室とは一切目を合わせない。さっさと俯きがちになって車へ歩を進めてしまう。
「愛菜さん」
安室は彼女の手を掴んで止めた。彼女は掴まれた腕を眺め、目を細めながら顔をあげた。けれど安室とは目が合わない。
なんて、残酷な顔をするのだろうか。
そしてまた彼女は俯きがちに目を伏せて、「なんでしょうか」と問う。そこで始めて安室は気づいたのである。彼女は自ら視線を逸らしていることを。
「どうして目を合わせてくれないのです」
本来であれば、彼女ぐらいの女ならすぐに落とせると踏んでいた。それがひょいっと一度かわされたのだから、もう少し、もう少しと安室は本気をだしたわけだ。だが愛菜は好意を抱くどころか、むしろ行動はその逆を示しているかのようだ。
「少し、恥ずかしいので」
落ち着いた様子で言っているところからして、安室はそれを嘘と断定した。理由はわからないまま、彼女は安室の腕を払って背中を見せる。
負けた気がした。羞恥心が湧き上がった。
「なぜあなたは、」
彼は彼女を無理矢理に振り向かせた。
「逃げるんですか」
目と目が合うと、彼女の顔が引きつったように安室には見えた。
「そんなに、ぼくがいやですか」
なにも言わない愛菜に、ただ淡々と尋ねることしかできなかった。
少し安室が息を荒くしたことに驚いた彼女は軽くだけ笑ってみせた。
「世のなかは」
彼の質問を『淡々と』と表現するのであれば、彼女の答えはどういった表現が合うだろうか。
「全て想像なのよ」
滅多と崩れない彼女のことば。それは愛菜を落とそうとしている人間としては喜ばしいものであるはずなのに、彼女の表情はなにひとつ喜ばしいものではない。
「どうしてそんなことを言うんですか」
いまの彼女は全てを見透かしたような目をしていた。安室にとって、それは苦手なものでしかなかった。
「わたし、うそは苦手なんです」
脈絡のない話に安室はついていけなかった。ただ彼女のことばに対抗するようにして質問をするだけだった。
「ぼくにうそを吐いていたということですか? それはひどいですね」
「うそなんて吐いていませんでしたよ」
「……どうして、過去形なんです」
「きょう、わかったので」
安室はただ内心で不思議に思うことしかできなかった。
「きょう? またどうして突然」
だって。彼女の口がそう動いた。
「あなたが、迎えにきてくれたから」
彼女の声が震え出した。彼女は必死に隠そうとしているのか、薄い笑いを顔面に貼り付けて一生懸命に微笑もうとしている。
目を伏せ、呼吸をゆっくりする彼女に、なぜこんなにもなにかを負い目を感じているのか、やはり安室にはわからなかった。
「すみません、ぼくにはどうしてあなたがそんな風に思うのかがわかりません。なにかしたなら、原因を教えてください」
「だからそれは、あなたが迎えに、きたから」
「それのなにがダメだったんですか。ああいった車に乗った男はいやでしたか? でも元々ぼくはスポーツカーに乗っていると話していましたよね?」
安室は愛菜の肩を掴んだ。
「ぼくの、なにがいけなかったんでしょうか……?」
再度、ふたりの目が合った。彼女は眉間に皺を寄せ、瞳の色は絶望を示していた。
「どうしてわたしを追い詰めるの」
少なからずショックだった。
安室は彼女と似た目をした。だがそれはどちらかと言えば悲しみの目で、そこまでして彼女が自分を否定していることがわからなかったからだ。
「追い詰めただなんて」
「ごめんなさい、全部わたしの問題なんです」
彼女は言い改めて、彼から目を逸らした。その行動がどれだけ自分勝手であるのかわかりもしないまま。もしくはわかっていながらも、逃げることを優先してしまい、周りに構っていられるほど余裕がなかったのかもしれない。
「あなたはズルいひとだ」
安室はそっと手を離した。
「ズルさでもしないと、気が狂いそうなの」
自分に言い聞かせようとして彼女は笑った。瞳には涙が溜まっているように見えた。溢れんばかりのそれをぐっと顔に力をこめて抑えているようにも見えた。目線は安室にはもちろん向いてなどおらず、虚ろな瞳は彼を捕らえることを拒否しているように見えた。
「どうすれば、あなたを傷つけずにいられますか」
「わたしが死ぬか、この世界がなくなるか」
彼女は空白の時間をつくってから、もう一度ゆっくりと、ことばを発する。
「あなたや、あの子たちがいなくなるか」
最後に、口だけがごめんなさい、と動いていた。