柑橘の香りと絆創膏 (2/4)

 入浴を終えたスザクは、ベッドに座って教科書を読んでいた。ガウン姿の首筋に、濡れた襟足が貼り付いているのが、妙に艶めかしい。スザクはジノの髪は手ずからドライヤーで乾かしてくれるのに、自分のことには無頓着だ。
 ジノは風呂上がりの体に香水を振りながら、視線はスザクを見つめている。その眼は獲物を前にした獣の眼だった。
 「君って寝る前も香水つけるよね。貴族ってそういうものなの?」
「私のつけてる香りは、ムスクって言うんだ」
「へぇ」
若干ズレた応答だったが、スザクは気のない相槌を打っただけだ。元々それほど関心があったわけではないのだろう。
「ムスクは麝香鹿の睾丸から取れる香料なんだ」
「ふぅん」
相変わらず教科書に目を向けたまま、素気ない反応のスザク。ジノは香水の瓶を化粧台に置いて、スザクに歩み寄った。
「つまり、雄の香りってこと」
ジノがスザクの手から教科書を取り上げると、やっとスザクの瞳がジノに向けられる。その翠の瞳は、勉強を邪魔されて不機嫌そうな色を帯びていた。
「だからスザクが欲情するように付けてるんだ」
ジノはスザクの不機嫌など歯牙にもかけない様子で取り上げた教科書を床に放り出し、スザクをベッドに押し倒す。
「んっ…君は大事なことを忘れてるよ」
スザクは相変わらず不機嫌そうな表情のまま、それでも大人しくジノに組み敷かれた。
「大事なこと?」
ジノはスザクのガウンに手を入れて滑らかな肌の感触を堪能しながら、スザクの耳に囁く。熱を帯びたその声にスザクの頬は鮮やかに色付いた。
「はぁ…ん、僕は…男だ」
だから雄の匂いに欲情したりしない。そう言いたいのだろう。だが、実際にスザクの瞳は欲情に濡れていた。
 ジノがスザクに話した香水の理由は嘘だ。本当はキスマークを付けるのを嫌がるスザクに、別の形で施すマーキングだ。自分の香りをスザクに刻みつけ、自分のものだと主張するため。それを知ったら、きっとスザクはジノの匂いを律儀に洗い流してしまうだろう。だからスザクには言わない。ただ強く掻き抱き、雄の匂いを刻みつける。溢れる愛情と共に。


 翌朝ジノが目を覚ました頃には、スザクはベッドの中に居なかった。隣にあるはずの温もりがないのに気付き、ジノは慌てて飛び起きる。
 「おはよう、ジノ。朝ご飯テーブルに置いてあるから」
スザクは既に服を着て出かける用意を済ませていた。まだ羽織られていない学ランの上着がかかったハンガーを手にして、ジノの方を振り返る。
 ハンガーを持つ指先に小さな傷が出来ているのにジノは気付いた。歩み寄ってその手を掴み寄せ口付ける。スザクは顔を赤くしながら苦笑した。
「朝ご飯をあげる時に、アーサーにね…」
言いながらスザクは手を引こうとする。ジノはそれを逆に引き寄せた。スザクはハンガーを取り落として、ジノの腕の中に収まる。
「ちょっ…ジノ?」
「アーサーには、許すんだな」
低い声でジノが口にした言葉に、スザクは不可解そうに眉を寄せる。
「許すって、何が…」
「痕」
スザクの頭越しに、件の猫が涼しい顔で餌を食べているのが目に入る。ジノはそれを睨み付けた。アーサーはそんなことは気にもせずに、欠伸を一つ。その姿が、ジノには余計に憎らしかった。
「痕って、ただの噛み痕じゃないか」
「噛み痕だったらいいのか?」
告げたのが早いか、ジノはスザクの首筋に顔を埋める。筋の通った項の辺りに唇を押し当て、ゆっくりと歯を立てた。
「たっ、…ジノ…?」
プツリと皮膚の切れる感触。それと同時にジノの口の中に鉄の味が広がる。鉄の味のはずなのに、妙に甘い気がした。
「噛み痕だったらいいんだろ?」
ジノは血の滲んだ首筋から顔を上げ、スザクと目線を合わせる。スザクは、ジノの目線の先で溜め息をついて、ジノに微笑を向けた。
「こんな大きな犬、拾ってきたつもりはなかったんだけど…犬に噛まれたんじゃ、仕方がないね」
スザクは可笑しそうに笑いながら、首筋の血を指先で拭った。ジノはスザクの反応に拍子抜けして、瞬きをする。もっと怒るかと思っていた。お陰で犬扱いされたことすら気にならなかった。
 「じゃあ、いってきます」
スザクがいつもの少し照れたようなぎこちない挨拶を口にして、拾い上げた学ランを着る。ジノが付けた噛み痕は学ランの下に見えなくなってしまった。
 「スザク、待てよ…」
ジノは背を向けたスザクに追いすがって抱き締める。スザクの体から、仄かにムスクが香る。それに安心して、ジノはスザクの旋毛にキスを落として手を離した。
「いってらっしゃい。寄り道せずに帰って来いよ」
一抹の不安を抱えつつも、ジノはスザクを見送る。彼が帰ってきた時に、ムスクの香りがすることを祈って。
 そんなジノの気持ちを知ってか知らずか、スザクはジノに笑顔を向けただけで何も答えずに出掛けて行った。


[*prev]  [next#]
[目次へ] [しおりを挟む]

  



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -