唇が紡ぐ幸福の欠片 (1/2)

 後ろから、肩に慣れた重みが伸し掛かるのを感じて、スザクは足を止めた。だが、慣れてしまったことは、スザクにとっては不本意なことだ。ほんの一週間の間に、その重みが何なのか、振り返らなくても判るようになってしまった。いちいち動揺もしない。ただ、歩きにくいから立ち止まっただけだ。
 「ヴァインベルグ卿、放してください」
どれだけ慣れても、スザクはこの一週間、反応を変えなかった。変わったのは、内心の動きのみ。外に向かって発せられるのは、一貫して、煩わしげに低くした声と僅かに眉を顰めた仏頂面。言葉も、一字一句変わらない。
「ジ・ノだって。何度言わせるんだよ、スザク」
そして、スザクの抗議に対する返答も、いつも同じものだった。肩に預けられた体重と、捕まえるように肩から胸元へと回された腕が素直に離れたことは、一度もない。そればかりか、抗議すればより一層その腕に力が込められることを、スザクはこの一週間で学んでいた。
 何度言わせるんだとは、こちらの科白だ。
と、内心の呆れの声を頭の中だけで響かせる。尤も、よくよく考えてみれば、スザクがこの重みを初めて与えられるより以前から、ヴァインベルグ卿は執拗に名で呼ぶことを求めていた。そう思考を進めて、その科白は、やはり自分よりも彼にこそ相応しいと思い直す。だからとて、彼の要求に応える理由にはならないが。
 この後は、どう続けるのだったか。既にスザクには考える必要すらなくなっている。最初は意識して同じことを繰り返していた。彼が少しでも善進しているなどと、思わぬように。今ではもう、反射に近い。
 回された彼の長く逞しい腕を、徐に掴む。そのまま背を屈め、肩に預けられた体重を支点に彼の大きな図体を引っ繰り返す。
 日本の柔道で言うところの“一本背負い”応用だとは、生粋のブリタニア人である彼の知る由もないことだろう。
 最初は無防備に背を床に打ち付けていた彼は、最近では受け身を取って衝撃を和らげるようになった。進歩と言えば、そのぐらいだろうか。もっとも、ナイト・オブ・ラウンズの第3席ともあろう者が、最初からその位出来なくてどうするのかと、スザクは思う。彼にしてみれば、“仲間同士”の気の緩みだったのかもしれないが。
 「失礼します」
床に倒れた彼に一礼して、やっと元の歩行に戻る…筈だった。少なくとも、今まではそうだった。それは彼が無謀な望を諦めるまで、変わらず繰り返されるものなのだと、信じ切っていた。
 だが、あろうことか彼は床に仰向けになったまま、後ろからスザクの蒼い外套の裾を掴んで、勢いよく引っ張った。不意打ちに呆気なく床に引き倒されたスザクは、咄嗟に受け身を取ってすら、背中に響いた痛みと、外套が支えた胸部への圧迫で、一瞬息を詰める。その一瞬の間に、ヴァインベルグ卿の身体がスザクを床に押し付けるように、覆い被さっていた。
 睨んで見上げた先には、鮮やかな快晴の空の色をした、一対の宝玉。それに差し込む陽光を象徴するかのような金糸の髪が、スザクの頬にかかる。
 見上げた彼の瞳が、酷く澄んでいることに、スザクは純粋に驚いて目が離せなかった。こんな至近距離はもとより、彼の眼をまともに見るのは初めてだった。だから、彼の瞳の色を“青”というデータとしてしか認識していなかった。
 人と目を合わさずに話す程、非礼ではなかったが、それでもスザクの目に彼は映っていなかったのだ。映す必要がなかった。職務上必要最低限のコミュニケーションを取るには、それで差し支えがなかったから。同じ様に、彼を名前で呼ぶ必要も感じない。馴れ合わなければ、共同の任務がこなせない程、お互いに幼いわけでもない。ならば、スザクにとって“同僚”とは、親しむ振りすら必要のない間柄だ。
 「やっと私を見てくれたな」
スザクの視線の先で、空色の瞳が満足げに細められた。
「…退いてください」
茫然と見上げていた目元に、ぎゅっと力を入れて、スザクは彼を睨み付ける。
「スザクが私をジノって呼んでくれたら、退いてやるよ」
他人を引き倒して床に押し付けているとは思えぬ闊達さで、ヴァインベルグ卿は告げた。眩しいばかりの笑顔と共に。一体何がそんなに欣快なのか、理解に苦しむ。
 スザクは不愉快そうに身動ぎして、起き上がろうと身体に力を入れた。だが、この体格差で不利な体勢から自力で脱すのは、困難だ。
 「場所を弁えてください。妙な噂が立っては困ります」
仕方がないので、脅しにかかる。だが、実際のところ、既に“妙な噂”は宮廷の中を自由に羽ばたき、飛び回っていた。
 曰く、「今度はヴァインベルグ卿がイレブンの雌猫に骨抜きにされた」、「ナイト・オブ・スリーは、そのうちセブンにその座を盗み取られるんじゃないか」などと、スザク本人の耳にすら届いている。
 スザクは「皇族を悉く籠絡している」だの、「躰でのし上がった」だのと色々言われている身だ。そんなスザクを臆面もなく大声で呼び、人目も憚らず抱きつき、剰え「スザクは可愛い」などと誰彼構わず言い回っているのだ。これでは、良からぬ噂が立つのが必定。
 だが、既に煙が立ち上っているからといって、それをわざわざ煽るのは、愚かなことだ。実際火がないのだから、わざわざ新たな煙を生産しさえしなければ、そのうち霞となって消えるだろう。
 「スザクとの噂なら、私は大歓迎だ」
あっさりと言い切ったヴァインベルグ卿に、陰鬱な宮廷の陰口を跳ね返しそうな眩しい笑顔を向けられ、スザクは閉口した。二の句が継げずにいると、何を勘違いしたのか、「やっと大人しくなった」と掌で頬を包まれ、親指で唇を撫でられる。
「スザクの唇は、ちっちゃくて柔らかいな…」
訊いてもいない感想を勝手に述べ立てながら、何度も下唇の上を親指で撫でてくる。
 その親指から、自分と同じKMF操縦者特有の固い膨らみの感触が伝わってくる。同じ胼胝を持つスザクの指は、頻繁に愛猫の小さな牙の犠牲になっていた。
 愛猫を連想すると同時に、スザクは衝動的に唇に触れている親指を口に含んだ。ヴァインベルグ卿の瞳が驚愕に大きく見開かれるのを、どこか喜悦の滲む心持ちで視界の端に入れ、一気に顎に力を入れる。
 「い゛っっ!!!」
彼が痛みに怯み体を起こした隙に、腹部を無遠慮に蹴り上げ、自分の上から排除する。
 “蹴落とす”という表現が似合う気がした。地位の上でも、いつか自分の上に立つ彼を蹴り落とし、その身を踏みつけて上へ昇る日が来るのだろうか。少なくとも、スザクの目的のためには、必要なプロセスだ。
 それは、スザクにとって煩わしい過程の一つに過ぎないはずだ。だが、もしそれが今のように、世界を覆う天井を突き破るかのような爽快感を伴うものであるなら、自分の未来は想像しているよりも、幾らかは明るいものになるかもしれない。そんな根拠の薄い予感を感じながら、スザクは立ち上がった。
 手加減無く蹴り上げた足が鳩尾に入ったらしい。ヴァインベルグ卿は、歯型の残った親指を腹に抱え込むようにして身を折っている。そんな無様な姿を無表情に一瞥してから、乱れた外套を直し歩き出す。
 彼が漸く痛みから立ち直って起き上がる頃には、歩き出したスザクとの間に手の届かぬ距離が挟まっていた。
 スザクは充分な距離を空けてから、肩越しに振り返った。それは、単なる気紛れに過ぎない。
 今の無体で彼のスザクへの奇特な好意は、泡のように弾けて消え去ったかもしれない。だが、スザクにとっては、それも瑣末なことだ。
 だから、決して繋ぎ止めるための媚ではないし、そんな作用があるとも思わない。少なくとも、スザクはそう軽信していた。
 振り返った先には、帝国3番目の騎士に相応しくない、情けない姿。その、年相応と言える仕草と表情に、自然と唇の端が吊り上がる。
 スザクは、唇をゆっくりと開き、二つの音を静寂に乗せた。
 大きく丸く見開かれる空色の瞳。その持ち主が口を開く前に、彼の瞳よりも濃い蒼に染められた外套を翻す。ブーツが大理石を踏む硬い音が、自らが気紛れに零した固有名詞を掻き消すように思えて、スザクは殊更に足音を高くして歩く。
 今度は口の中だけで、同じ音を紡いでみる。擽ったいその心地は、自身には勿体ない綺麗な感触。スザクは二度と味わうことのないであろう感触を、噛み締めるように目を閉じる。そして、閉じた瞳を開くと同時に、唇が紡いだ幸福の欠片を身体の外へと追い出した。


 END


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