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Chapter6-5

それはハロウィンの日だった。

ホグワーツの魔法薬学の教師として無事採用された(それは、もし何か起こった時にも彼がどちらの立場にもつける、最良の案だった)ことを喜びながら、彼が届けてくれた液体の入った小瓶を窓から差し込んでくる光に透かし見ていると、窓の外が慌ただしくなっているのが聞こえて来た。

窓の下を覗き込むと、そこには大勢の死喰い人たちと、そしてその中心にはトムがいて、彼の前にはひとりの薄汚れた服を着た小男が縮み上がっていた。
死喰い人たちに囲まれた恐怖なのか、前にトムがいるからなのか、それとも両方なのかもしれないが、その男はかわいそうなほどに震えていた。

わたしが思わず窓を開けると、彼らの声が小さいながら、風に乗って聞こえてくる。

「貴様を”秘密の守人”にするとは、なんと愚かなことよ…。すでに私の手の者に、みすみすチャンスを与えるとは」

トムは恍惚とした声色で言った。それにすら萎縮したのか、男は小さな体をより縮めている。

秘密の守人ですって?

わたしはほとんど身を乗り出してその話を聞こうとしていた。
ダンブルドアとの会話の中で、彼は「ジェームズに秘密の守人を探すよう伝えるつもりじゃ」と言っていた。わたしはそれを聞いて安堵したのだ。
ジェームズは、シリウスを秘密の守人にするに違いない。シリウスは情に熱い男だった。彼ならどれだけ追い詰められたとしても口を割らなかっただろう。

今、トムが関心があるのは彼を打ち破る者の居場所を見つけること、ただそれだけだ。つまり、あの縮こまっている小男は、ジェームズの秘密の守人に違いない。

しかし、トムの手の者、つまり死喰い人が秘密の守人になっているなんて、どういうこと?

わたしが眉をひそめたその時だった。トムに促されたその男が、顔を上げたのだ。

わたしはあっと声を上げそうになった。

それは、ジェームズたちの後ろに常にひっつき回っていた、ピーター・ペティグリューだったのだ。

「どうして…」と囁き声が口から漏れるのを、わたしは止めることができなかった。どうして彼が。彼は、シリウスほど密接につながっているとは言えないものの、ジェームズの友人であることには変わりないと思っていたからだ。

トムはピーターに杖すら向けていなかった。そんなことをせずとも、彼が秘密を口にするとでも言うように。

わたしは気づかぬうちに両手を合わせて指を組んでいた。まるで、マグルたちが祈りを捧げるように。こんなことをしたのは孤児院にいた頃以来だった。

たとえ死喰い人に、一時の気の迷いでなってしまったのだとしても、あなたのジェームズへの友情は残っているでしょう、ピーター。お願い。彼の秘密を守って。

わたしのそんな願いに反して、ピーターは何一つ呪文をかけられても、脅されてもいないというのに叫んだ。

「ゴドリックの谷!ゴドリックの谷です、我が君…どうか私に寛大なご慈悲を…」

ピーターはまるきり秘密を打ち明けてしまうと、媚びるような薄笑いを浮かべてトムの足にすがりついた。
トムはそれを見下ろすと、「聞いたか、お前たち。ゴドリックの谷だ。私は今日の晩、憎々しい赤ん坊を始末するだろう」と言い残して屋敷に入っていく。死喰い人はそれに群がるようにして、我々はどのように、と指示を仰いでいたけれど、後は何も聞こえなかった。

ピーターはそこにいつまでもうずくまっていた。わたしはそれを見ているのも厭わしくて、窓を音を立てて閉めてしまった。

今日だ。今日の夜。トムはそう言った。

今すぐにダンブルドアやセブルスに伝えれば、彼らがジェームズたちを逃がす手立てを講じてくれるだろう。今はまだ昼になったばかりだ。しかし、フクロウ便では遅いかもしれない。守護霊だったら――わたしがそう考えて杖を取った途端、ドアが勢いよく開いた。

「…!」

わたしが思い切りその彼の名前を素っ頓狂にトム!と叫びそうになった途端、彼が杖を振ってわたしを黙らせた。彼の後ろには連れがいたらしい。
トムがもう一度杖を振ると、わたしはやっと声を出すことができた。トムの後ろに控えていたのは、見覚えのあるプラチナブランドの髪をした青年だ。

「…ルシウス、久し振りね」

トムがわたしの部屋に誰かを連れて来たのは初めてだった。この屋敷に住んでからしばらく経つというのに、わたしはセブルス以外の死喰い人にまともに出くわしたことがなかったせいでルシウスに会うこともなかったのだ。
どうして今彼を連れてくるの、とわたしが混乱していると、トムが口を開いた。

「今日は必ず部屋にいろ。ルシウスを話し相手としてつけてやる」

ああ、なんてこと。わたしはくらくらとめまいまでしてきそうな気分だった。トムがわたしに何も言わずにことを済ませる気なのはわかっていたけれど、ここまで徹底するとは。

わたしは強く焦りを感じていたけれど、それをおくびにも出さなかった。

「うれしいわ、積もる話がたくさんあるもの」

わたしがそう言うと、トムがお得意の”お気に入りのおもちゃを取れられた時の顔”をしたけれど、今日はそんなことに構っている暇もないらしい。夜に出るとは言っていたけれど、何かすることでもあるのかトムは慌ただしくわたしの部屋から出ていった。

「紅茶でもいかがですか」

ルシウスはトムの前ではしおらしく控えていたけれど、トムが出ていくとまるでホグワーツのわたしの部屋に来た時を思い出させるような態度でさっさとソファに座り、杖を振るった。

「あなたがわたしの部屋を自室だと思ってるのはここでも変わらないのね」

「おや。私にはそれを許してくださっていると思っていましたが」

小憎たらしいけど、それは正解だ。ルシウスはわたしにとって、かわいくて憎めない相手だった。この上なく気障ったらしいけれど。

「あなたが本当に、あのお方のものだとは。見てやっと実感しました。父から聞かされてはいましたが」

ルシウスの淹れる紅茶はおいしい。
昔からトムが淹れてくれる紅茶に慣れていたからわからなかったけれど、淹れる人によって味が違う。トムは淹れるのがとても上手らしい。他の人と比べてわかった。しかし、ルシウスもなかなかの腕前だ。もしかしたら、貴族としての嗜みなのかもしれない。

「あなたとわたしの文通も、その縁で始まったのを忘れたの?彼とのことがなかったらわたしのことなんて見向きもしなかったでしょう、あなたは」

「確かに、何も接点がなければあなたのことを気にもとめずに学生活を送っていたであろうことは、否定しませんが」

彼はそう言いながらも、「きっかけはどうであれ、私があなたを慕っていることに変わりはない」とさらりと付け加えるものだから抜かりない。

わたしは紅茶を一口飲み、ルシウスとの再会を喜びながらも気ばかりが急いていた。
まだ太陽が真上にのぼっていた頃は会話に集中できていたけれど、だんだん傾いてきてからはもうだめだった。緊張をほぐすために手を握ったり開いたりしたけれど、何も変わらない。

「先生?先ほどからずっとあなたは上の空だ」

ついにルシウスにまで指摘されてしまい、わたしはどうしようもなく途方にくれた。わたしはしなければいけないことがあるのに。

すると、かちりとわたしのローブの中で瓶の擦れる音がした。

ああ、もうこれしかない。何かをしなければこの状況は打破できない、と、わたしは立ち上がった。

「先生?」

怪訝そうに座ったままルシウスはわたしを見上げる。その手がローブに伸びそうになったのをわたしは見逃さなかった。もしかしたらトムに、わたしがどこかに行こうとしたら杖を使ってでも止めるようにと言い含められているのかもしれない。

「ルシウス、あなたにお願いがあるの」

「なんです」

彼はまだ胡乱な目でわたしを見つめていた。わたしはそんな彼の視線から逃れるように彼の座っているソファの後ろに立つと、彼の肩に手を乗せた。そうして後ろのテーブルにカップを乗せると、小瓶の半分ほどを注ぐ。

「何か困りごとでも?」と彼が振り返った瞬間が、カップの中でちょうど色が薄いライラック色に変化したのと同時だった。わたしは一瞬目を泳がせたけれど、そのカップからシナモンの香りがしたことで、彼への言い訳のヒントが生まれた。

「わたし、たまに彼から珍しいお菓子や茶葉をもらうのだけど」

わたしはそこで言葉を切って、カップの中身をスプーンでかき混ぜた。

「シナモンが苦手なのにたくさんもらっちゃって、困ってるの。飲むのを手伝ってくれる?」

わたしはルシウスの肩に手を置いたまま、彼にそのカップを差し出した。ルシウスはやはり怪訝そうな顔でそのカップを覗き込んだけれど、シナモンの香りに一応は納得したらしい。

わたしの手からそれを受け取って、了承の返事をする代わりに口を近づけたルシウスにわたしは言った。

「一気に飲んでちょうだいね。結構味も個性的だから」

ルシウスは素直にその言葉を受け入れたのか、彼にしては珍しく大きくカップを傾けてそれを飲んだ。彼はそれを飲み込んだものの、後味に眉を寄せ、はっとした顔をした。まるで、しまった!と叫び出すかのように。

みるみるうちに髪の色が変わり、小柄になっていくルシウス。そうしているうちに、まるで鏡に映しているかのようにもう一人のわたしが現れた。

「ごめんなさい、ルシウス」

わたしは杖を抜いてルシウスに向けた。彼も杖を抜いたけれど間に合うはずがない。わたしが彼の、闇に対する防衛術を担当していたのだから。

ぐったりとソファに横たわったわたし――もとい、ルシウスを杖でベッドまで運び、入念に肩まで布団をかける。あなたのそういう、少し抜けたところが好きよ、とルシウスに囁きかけながら。これで、トムがこの部屋を覗き込んでも、わたしが寝ていると思うだろう。

時間がない。窓の外はもう薄暗く、日は落ちかけていた。
ダンブルドアに守護霊を送っても、きっと間に合わないだろう。

わたしは決意を固めた。トムが贈ったネックレス――片時も外したことのないそれを握り込みながら、わたしはゴドリックの谷を強く思い浮かべ、その場から姿くらましした。


――軽い音を立てて、足に地面の感触が戻ってくる。
周りを確かめると、ここは確かにゴドリックの谷らしい。目の前には一軒の家が建っている。

きっとここだ、とわたしは思った。わたしはピーターの秘密の告白を聞いていたから、もうジェームズたちの隠れている家が見えてしまう。ここに違いない。

わたしは周りを見回して万が一にもトムがいないことを確認すると、そっと扉へと続く道を歩いた。そうして、出来るだけ優しく、怖がらせないようにノックする。
しかし、中でバタバタと慌てたような音が聞こえてきた。もしかしたら、ジェームズがリリーと子どもを隠しているのかもしれない。

「ジェームズ、お願い。開けて。わたしよ」

わたしは時間がないことに焦りながらそう呼びかけた。するとバタバタとした音が止み、しばらくの沈黙の後にドアが細く開いた。その間から杖が向けられている。

「本当にナマエなのか?きみが僕に初めてつけたあだ名は?」

彼は注意深くわたしをつま先から頭の先まで見た。変身術で姿を変えていると思ったのかもしれない。

「くしゃくしゃ頭のわんぱく坊や、わたしがわたしだってことは自分でよくわかってるわ。お願い、中に入れて。もう時間がないの」

フリーモントたちがよく話題にして笑っていたあだ名を告げると、ジェームズはわたしの手を掴んで勢いよく中に引き込んだ。そして外の様子を見回すと、ドアを閉めて鍵を閉める。ジェームズは突然姿を消したわたしへの質問をしたくてうずうずしている様子だったけれど、まず一番に聞いたのはこれだった。

「ナマエ、どうしてここがわかったんだい。ダンブルドアでさえ、きみに話すことはできないはずなのに」

そのまま話を続けようとした彼を制すると、わたしはジェームズの腕に手を添えながら必死の思いで言った。

「ジェームズ、お願いだからわたしの話を聞いてちょうだい。護りの呪文は破られたわ。ここに、もうすぐ彼がくる。ヴォルデモート卿よ」

ジェームズの顔がさっと青ざめた。
彼は二階に走る。そこにリリーたちがいるようだ。わたしは彼の後について二階への階段を上った。廊下の奥にはリリーが赤ん坊を抱き、心配げにこちらを見つめていた。けれど、わたしを見つけると目を見開いて驚いている。

ジェームズがリリーに危険を知らせるのを待った後、わたしは間髪入れずに言った。

「リリー、これは重要なことだから聞いて。わたしにあなたの服と、髪を一本渡して欲しいの」

リリーはどうしてこんな時に、という顔をした。けれどわたしの剣幕に思うところがあったのか、押入れから簡単に着られるようなワンピースと、それから彼女の赤毛を切って渡してくれる。

「ナマエ、どういうことなんだ。説明してくれ」

ジェームズが焦りを滲ませながらそう問いかけたけれど、わたしはその言葉に答えずに急いで半分中身が残った小瓶に彼女の髪を入れた。そして、色が変わった瞬間に一気に喉に流し込む。味が緊張でわからないほど、わたしは震えていたけれど頭は冴えていた。

小瓶の中身――ポリジュース薬が、だんだんとわたしの体を自分のものではなくしていくのを感じた。わたしはリリーの美しい赤毛が自分の肩に垂れたのを確認すると、それを唖然とした様子で見つめていたジェームズに言い聞かせる。

「ジェームズ、よく聞いて、わたしがあなたたちが逃げる時間を稼ぐから、あなたは何が起こったとしても構わずに、あなたの家族を守るのよ」

「ダメだ!」

ジェームズは途端に叫んだ。彼はよほど憤りを感じているのか、そんなことはダメだ、と震えながらもう一度繰り返した。
わたしはそれに対しただ首を横に振って答え、リリーの服に着替えながら、ローブに常に入れてあったダンブルドアからの預かりものの包みを解く。そしてそれを広げて彼に渡した。
それを反射的に受け取った腕が途端に透明になってみえなくなった彼は、「透明マントか?」と怪訝そうに確かめた。その通り、それはダンブルドアがジェームズから預かっていた品だ。

「ジェームズ、わたしはあなたに名前をつけた時からあなたのもう一人の母親だと思っているわ。わたしには家族がいないから、あなたにはとても素敵な時間をもらった」

わたしは透明マントから顔だけ出したジェームズの額に唇を押し当てると、くしゃくしゃの髪を撫でる。

「それに、わたしはフリーモントと約束したのよ。あなたが困った時はわたしが一番に駆けつけて助けるって。あなたはまだ赤ん坊だったから聞いてなかったでしょうけど」

そう、あの子みたいにね、と彼の赤ん坊を指して付け加えると、ジェームズはくしゃりと顔を歪めた。昔から泣きそうな時そんな顔をするのだ。

「彼はハリーだ、ナマエに僕たちの息子を、一番に紹介したかった」

なのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう。

わたしはそういって呆然と立ち尽くすジェームズの肩を優しく撫でながら、リリーへと向き直った。彼女は口元に手を当ててわたしを潤んだ瞳で見つめていた。

「リリー、あなたにはお願いがあるの。どうか聞いてちょうだい」

リリーは放心したかのように頷いた。

「わたしに、あなたを、あなたたちを助けてくれって言いに来てくれたのは、他でもないセブルスなの。彼を許してあげてくれる?」

この言葉には、リリーもジェームズもハッとしたような表情を浮かべた。そうしてリリーは小さく、しかしはっきりと頷くと、ちょうど逃げる準備が整ったのか荷物を一つ抱えてハリーをもう一度抱き直した。

その時だった。

かちゃり、と鍵の開く音が、やけに大きく響いて聞こえた。

遅かった、わたしが気付いた時にはトムが足を踏み入れていた。彼からわたしたちは見えないだろうけれど、それは時間の問題だ。

わたしはハリーを抱いた二人に透明マントをかぶせると、無理やり掃除の用具入れのような押入れに押し込んだ。もう二人の姿は見えない。わたしはジェームズが万一にでもトムの前に躍り出てこないように、ロコモーター・モルティスと小さく唱える。全てが終わり、トムが去るまで彼らは出て来てはいけない。

彼らを隠した時の音に気づいたのか、トムはゆっくりと階段を登ってくる。まるで、恐怖を煽らんとしているかのように。ぎし、と木が軋む音だけが響いている。

わたしは一番奥の部屋へと駆け込んだ。そこにはハリーのベビーベッドがあり、ぬいぐるみが並んでいた。わたしはそのぬいぐるみの一つを布団の中に押し込むと、まるでそこで小さなハリーが寝ているかのように寝息で膨らんだり萎んだりするよう魔法をかけた。

そんな子どもだましが通用する相手だとは思わない。
けれど、少しでも彼に、わたしがリリーだと信用させなければならない。

「その赤ん坊の父親は逃げ出したか」

嘲るような声が背後で響いた。ゆっくりと振り返ると、そこにはちょうどフードを脱いでいるトムがいた。
その目は、恐ろしいほどに赤くギラギラと光っている。

トムは、ジェームズが命をかけて二人の前に立ちふさがると思っていたらしい。簡単にここまで追い詰めたことを、退屈げに揶揄した。そして、リリーの姿をしたわたしが何も言わないことに眉を吊り上げて、無理もない、と囁く。

「恐怖で言葉も出ないか。哀れな…。息子を差し出して命乞いすれば、お前の命は助けてやろう」

どこかいたぶるような口調でそう言うと、トムはわたしにどけと言うように杖を向ける。

しかしわたしはそこに立ちふさがってただ両手を広げていた。声を出したらトムに、わたしだと気づかれてしまう。

「悲しきことよ…悲しきことよ。お前はただ無駄死にするのだ。私はお前を難なく殺した後、お前の息子も同じ場所に送ることになる」

トムはわたしにもう一度杖を向けた。

きっと、わたしを殺してハリーがいると信じ込んでいるふくらみに呪文をかければ、トムは満足するだろう。もしかしたら、彼はハリーが死んだか確かめるかもしれない。けれど、彼はきっと怒りのままにここを出て行き、この家族を探すはずだ。今の状況は切り抜けられる。ジェームズたちは、今度こそダンブルドアのもとに身を隠すだろう。そうして、二度とトムの手の届かない場所に隠れ住むことをわたしは願った。

なにより、かわいいジェームズが作ったこのあたたかい家族を、他ならぬトムが手にかけるのはわたしにとってこの上ない――引き裂かれるような悲しみだった。きっとわたしがこの道を選ばず、ただトムがこの家をめちゃくちゃにしてしまうのを黙って見ていたら、わたしは生きながらえても魂は死んだも同然に違いない。

それに、ハリーのような無垢な魂を奪うことが、トムにどれだけの罪深さを与えてしまうのか。わたしはそれを知らないはずがなかった。

わたしはこのために生まれてきたのかもしれない。そんなことが、頭をよぎった。

トムは、「馬鹿な女だ」と吐き捨てるように言うと、無感情に――まるでそれが、彼にとって必然だったかのように唱えた。

「アバダ・ケダブラ」

その時わたしが同時に囁いた言葉が、トムに聞こえていたかどうかはわからない。

わたしが最後に見たのは、赤く燃える彼の瞳だった。彼が常に首にかけていた、赤い血のようなネックレスと同じ色。

わたしは死というものを受け入れるにはあっけなく――あまりにあっけなく、意識を失った。



・・・



何が起こっている。

私は馬鹿らしい装飾にまみれた小さなベッドを見下ろしていた。足元には女の骸が転がっている。
赤ん坊のように見せかけられていたそれはただの人形に過ぎず、子どもの姿はどこにもない。

――先程私がこの家の前に降り立ち、錠に杖を向けて難なく中へと足を踏み入れた時、家の中はまるで人の気配がないかのように静まり返っていた。

まさか、私が来ることを予期し、すでに逃げた後だというのか?

怒りがふつふつと燃え滾った。誰かが、漏らしたに違いない。死喰い人たちに一人一人、磔の呪文の味を教えてやらねばならない。

私がそう考えていた時だった。二階から、慌ただしく何かを倒す音が聞こえた。

――そこにいたか。

私は口元がつり上がるのを感じながら、ゆっくりと階段を上っていく。お前たちに逃げ場はない。

廊下を進み、一番奥の閉じられた部屋のドアを開くまで、私は愉快さを感じていた。奴らは怯えながら、死の前の足掻きを見せることだろう。どんなことをしても、私に抗うことなど出来やしないというのに。

杖を緩く構えながら開けた先にいたのは、こちらに背を向けた女ひとりだけだった。私はいささか拍子抜けする。

赤ん坊の父親は、恐れ戦いて一人で逃げ出したのか。なんという悲劇だろうか。彼女のほっそりとした手は、我が子を寝かしつけるように布団の上に乗せられていた。もしかしたら、最期の時を迎える時にでさえ、自分の赤ん坊を安心させようとしているのかもしれない。

私がその女に言葉をかけると、意外にも女は気丈に私を真っ直ぐ見つめていた。何も言葉を発さないまま、ベッドの前に立ちふさがっている。

命乞いをしろ、と私は言った。
常なら、そう告げた後にその者が醜く命乞いをしたとしても、誰一人として生きたまま帰したことはなかった。けれど、この家に住む者は全て皆殺しにしてやろう、そう考えていたというのに、私はなぜかこの女が息子を差し出せば見逃してやろうという考えが浮かんでいた。

しかし、女が命乞いをすることはなかった。それどころか、押し黙ったままでベッドの前で両手を広げた。

私にはそれが、すこぶる不愉快なことに思われた。このヴォルデモート卿が、情けをかけてやろうとしていたというのに。
親子の愛などという無意味な感傷が、お前を殺すのだ。

私は杖を構えた。そこまで死にたいならば、私がためらうことはない。さみしくはないだろう。すぐにお前の息子と、そして臆病者の夫を探し出して同じ場所に送ってやる。

「アバダ・ケダブラ!」

私はすでに口に馴染んだその呪文を唱えた。馬鹿の一つ覚えのようにそこに立ちふさがっていた女は、あっけなくその場に倒れ伏せた。

――何が起こっている。私はもう一度思考した。

赤ん坊と見せかけるために魔法がかけられていた人形は、女が事切れたのと同じくしてその動きを止めた。
こんな馬鹿げた細工で私を欺くために、この女は命を投げ出したというのか?息子を守るためだけに。

赤ん坊を殺し損ねたという、底知れない苛立ちに加え、女に死の呪文を唱えた時一瞬、まるで女がナマエに重なり、そして、同時に女の唇が到底ありえない言葉を紡いだかのように見えたのだ。ナマエですら口にしたことのない、私が”この世界で一番不要なもの”だととうの昔に切り捨てた感情を伝える言葉を。

馬鹿馬鹿しいことだ。ありえない。私が屋敷を出るときに、ナマエの部屋は確認した。彼女は眠ってしまったのかこちらに背を向けてベッドに横になっていたのだ。声をかけても応えなかったので、そのままにしておいた。

あの屋敷に戻れば、ナマエはいつもの調子で出迎えるに違いない。
赤ん坊を取り逃がしたのは惜しいが、またいつでも機会はあるはずだ。父親が自分の妻を囮に赤ん坊を連れて逃げたのだろう。しかし、幼い子どもに私を凌ぐ力などあるわけがない。

そう考えながら、私は無意識に床に冷たくなって横たわる女を見下ろした。すでに死に屈服した人間になど、全く興味はないというのに。妙な感傷を感じさせる女が煩わしく、私は舌打ちをした。

すると、妙なことに気づいた。女の豊かな赤毛がだんだん色を変えていくのだ。
そう、それはまるでナマエのような色だ。

私は思わずその場に跪き、うつぶせに倒れ事切れていた女を仰向けにしてその細い肩を掴んだ。

ありえない。こんなことは、絶対にありえないはずだ。

みるみるうちに女の骸が姿を変え、そこに現れたのは他でもないナマエだった。変わらないのは、力なく、冷たくなって横たわっていること、ただそれだけだ。

私は呆然とそれを見下ろした。なぜだ、ありえない。口から自然とそんな言葉が虚ろに溢れているのにも気づかなかった。

他でもない、これはナマエだ。まるで眠っているかのように見えるが、それは錯覚なのだとわかっていた。彼女の隣に寄り添って眠ったことがあるのだから。その時の彼女の体温を知っているのだから。

そして、それ以前に自らが彼女に死の呪文をかけたという事実に否が応でも向き合わねばならないのだった。私がその呪文を仕損じることなどありえなかった。間違いなく、ナマエは死の呪文を受けていた。

「ナマエ…」

私は彼女の名前を呼んだ。それは答えのないまま虚しい響きを持って空中に溶けていく。
私がナマエを抱き上げても、その体に温かさが戻ることはない。腕の中でぐったりと――ただの人形のように、体を投げ出している。

唇から、気づかぬうちに慟哭の声が漏れ出していた。自分がこのような声を上げることを、私は初めて知った。

思考が溶けたようだった。
何も考えることが出来ない。自分をコントロールすることもできない。これが、悲しみなのか。これが、喪うということなのか。

「ナマエ、私はきみを失って、どう生きていけばいい」

思わず口をついた言葉に、自分が何もかもの気力を失ったことに気づいた。こんなことは初めてだった。ただ、道が閉ざされたという感覚だけが残っていた。

私はしばらく彼女の胸元に、まるで私自身も息をするのをやめたかのように折り重なって顔を埋めていた。

私は、行かなければならない。ナマエを連れて。

それだけが頭をよぎって、私はナマエを抱き上げ、そしてその場からたちまち消え去った。

おやすみなさいあいしてた

I whispered, ”Tom,I was born to love you.”―No matter how much time goes by, I love you.

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