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Chapter6-3
トムの―トムの、と言っていいのかはわからないけれど―屋敷には、人の気配がひとつもしない。
どんな季節にもひんやりと冷たい雰囲気の流れるこの石壁は、どこか必要の部屋の壁を思わせる。
わたしはてっきり常に死喰い人たちと住んでいるものだと思っていたけれど、彼らは必要な時だけここに集まるらしい。
もしかしたら、わたしがあの時あんな風に言ったからかもしれない。けれど、トムはそのことについてあれ以来何も言わなかった。
トムがこの屋敷にわたしを連れてきてからしばらく経つ。その間、わたしはこの屋敷の外で起こっていることをなに一つ知らずに過ごしてきた。深窓の令嬢とはこういうことね、と自嘲気味に考えたのは数ヶ月前のことだ。
トムはわたしがこの屋敷を出て行くことに敏感で、雪を見ようと少しでも外に出たものなら、いつの間にか後ろに現れてわたしのウエストに手を回し引き戻される。だから、わたしはまるで幼い子どものように、「ちょっと雪を見てくるわ」「あの花を摘みたくて」といちいち報告せねばならない。
そして、大抵の場合お目付役の、というより他ならぬトムがついてくる。
ダンブルドアの、『つらい場所になる』という懸念は、あの死喰い人たちの前に引っ張り出された日だけにのみ感じられただけだった。トムがつとめてそうしているのかもしれない。わたしが死喰い人たちに出くわしそうになろうものなら、トムはどこからともなく現れてわたしを彼の胸に抱いてしまう。そのおかげで、何もかも思い出さずに済んでいる。
彼もつくづく、わたしに甘くなったものだ。
ここで二人きりで過ごしている時以外のことは、わたしもトムも話題にあげなかった。外で誰がどうなったのかわたしは知らないし、トムは外でなにをしているのかをわたしに語らない。話すとしても、トムが遠出した時に見たことのない花を見かけた、だとか、そういう当たり障りのないことだけだ。
まるでなにも起こってはいないかのように。
わたしたち以外、誰もいないかのように。
時折、わたしが出会ったたくさんの生徒たち―特に、わたしにとって最後の年に卒業した、あの子たち―が気がかりだったけれど、元気に過ごしていると思い込むことにした。そうでないと、この生活が成り立たなくなってしまうから。
わたしはトムの書斎に置かれた黒い革張りのソファーに体を預けて、なにか書状のようなものに羽ペンを走らせるトムをぼんやり見つめていた。
「わたし、なにも仕事がないことにまだ慣れないの。なにをしたらいいのかわからないわ」
「本でも読んだらどうだ」
「あなたの本、全部おどろおどろしくて読めたものではないじゃない」
「私の部屋にシンデレラだかラプンツェルだかがあるとでも思っていたのか?」
トムは会わないうちに、横柄な話し方に磨きがかかったらしい。けれど、わたしの前以外だともっと偉そうな話し方をしている。死喰い人がこの屋敷を訪れる時、わたしは決まって与えられた部屋にこもっているけれど、たまに話をしているところに出くわしてしまったりするのだ。
そういう時に、彼がトム・リドルという名前を捨てたことを実感してしまう。
「ねえ、もしかしてわたしもあなたのこと、ヴォルデモート卿だとか我が君だとか、そういうニックネームで呼ばなきゃいけないわけ?」
わたしが不意にそう言うと、彼はまるですでに癖になったかのように眉をひそめて顔を上げた。
「ナマエ…馬鹿にしているだろう」
「わたしは切実に悩んでるのよ。あなた、この前わたしがあの人たちの前でトムって呼びそうになったら、まるでバジリスクのような目でわたしを睨んだわ」
恨みがましく言うわたしに、トムは大きなため息をついた。
「あれは、ナマエが急に部屋に入ってきたからだろう」
「いいえ、ちゃんとノックをしたわ。返事がないからトム!って呼びかけようとしたのよ。そしたらあなたはわたしにシレンシオしたのよ!」
思い出したらなんだかムカムカしてきて、わたしはつい責めるような口調になる。トムはもう一度大げさにため息をつくと、羽ペンを握っていた手を止めてそのまま立ち上がった。
休憩のつもりなのか、ソファの前に置かれたテーブルに二つ分の紅茶を呼び寄せ、向かい合った場所にあるソファもあるというのにわたしの隣に座る。
「トムでいい。ただ、死喰い人たちの前では呼ぶな」
「死喰い人の前ではどうするの。我が君!3時のおやつのじかんよ!って?」
「…勝手にしろ」
彼は呆れたように肩をすくめて紅茶を一口飲んだ。もともと手足の長い彼が足を組むとさまになるのは昔から変わらない。
「あー…わたし、思いついちゃったわ」
わたしがそう言うと、トムはぎょっとしたような顔をしてわたしを見た。失礼ね、と思いつつも、自分の考えに笑ってしまいそうなものだから彼の懸念もそう間違ってはいない。
「my sugar cookie!」
わたしがくすくす笑いながら言うと、トムが思い切り咳き込んだ。pumpkinは少しカウボーイ風味が強すぎるかもしれないから、と付け加えるとより気分が悪くなったようで顔色まで少し青ざめたように見える。
「わたしのことはprincessって呼んでね」
「馬鹿げたことを言うのはやめてくれ。昼食につまんだナマエの水気が多いスコーンがでてきそうだ」
「あなたがろくに食事しないから作ってあげたのよ。それをからかうなんてひどいわ」
そう言い返しながら紅茶をあおると、突然ノックの音が響いた。わたしは驚いてドアを見つめる。誰かが訪れる時に、トムはわたしをこの部屋に呼んだことはなかったのに。
けれど、トムにとってもこの来訪は予期せぬものだったらしい。わたしを一瞥したけれど、トムは結局「入れ」と促した。
すると、全身を真っ黒なマントで包みフードを被った男がドアを開けた。
そして彼の方を見て―わたしを見ると、その男がたじろいだ。よっぽど驚いたのか、トムの方へと踏み出そうとしていた足で後ずさりしてしまっている。
「セブルスか」
トムがそう言った。わたしはその聞き慣れた名前に、思わず口に手を当てて声を上げてしまいそうになるのを無理やり止めた。セブルス?
その場で動かなかった彼は、しばらくするとやっとためらいがちにフードを脱いだ。
そこにいたのは、ホグワーツにいた頃よりよっぽど生気のない土気色の顔色をしたセブルスだった。
「ああ…セブルス、どうして…」
もう目にはその彼しか映らず、震える声でそう言うわたしを、トムは片眉を吊り上げて一瞥した後、セブルスに用件を言うよう促した。
セブルスはわたしから目をそらすとトムの前に跪いて、押し殺したような声色で言う。
「…我が君、私はある予言を聞きました。7月末、我々に3度抗った両親のもとに産まれる赤ん坊が、あなた様を打ち破ると…」
それを聞いた途端、トムはこぶしをテーブルに打ち付けた。
トムの怒りが制御しきれない魔力をほとばしらせ、カップやガラスの戸棚がすべて粉々になってしまう。
わたしは唖然としていた。トムに打ち勝つ?
外の出来事に一切関与してこなかったわたしでも、トムがどの魔法使いより優れていることは知っていた。唯一、ダンブルドアを除いて。正直、それはあり得ないだろうと思った。どれだけ魔力の強い子が生まれようと、今のトムに勝てる者はこれからも現れないだろう。
わたしは妙な確信を持ってそう考えていた。彼が打ち破られると聞いても、それを一蹴してしまえるほどトムを―というより、トムの力を信用していただなんて不思議な気分だった。
しかし、当の本人のトムは怒りに震えていた。死にさえ打ち勝つことが彼の望みだ。そのような予言は、彼にとっては到底許されるものではないのだ。
「出ていけ。…ナマエは、部屋に戻っていろ」
と言ったトムの声は押し殺されていた。それは怒りに支配されながらも、一握り残った彼の理性や気遣いのようなものが言わせたのかもしれない。
ここにいたのが他の誰かだったら、トムは怒りのままに許されざる呪文を放っていたことだろう。
わたしは後ろ髪を引かれながらも、素早く身を翻したセブルスの後に続いて部屋を後にした。今のトムのそばにいるのは、きっと彼自身が望まないだろう。
「セブルス」
わたしの前を、まるで振り返りたくないと言いたげな背中で足早に歩く彼の名前を呼んだ。
「ここで、あなたに会いたくはなかったわ」
ぴたりと彼の歩みが止まる。彼もまた、何かに耐えて震えている一人なのだと気づいた。
「…あなたが、闇の帝王の寵姫だとは知らなかった」
わたしが何を聞きたいのか察しているだろうに、セブルスは振り向かないままそう言った。どこか馬鹿にしているような響きもあるその言葉に、わたしが憤ることはなかった。
「あなたの愛しい主君が打ち破られると、そう予言があったのに冷静なようだ」
セブルスはこぶしを握っている。人を攻撃することで自分を守っている彼が悲しくて、その背中をおさない子にするように抱きしめたくすらなった。彼がわたしより小さかった頃から知っているのに、すでに見上げるほど大きくなったというのに。
けれど、ここにいる手前それをすることはできなかった。そんなところを誰かに見られたら、セブルスの立場が悪くなることはさすがに分かっているからだ。
「セブルス、あなたはこんなところにいてはいけないわ。確かにわたしは彼と一緒にいるけれど、それは彼のやっていることを支持しているわけではないのよ。
ここにいることはあなたにとって、きっと悪いことしか生まないわ」
わたしが必死にそう伝えると、セブルスは耐えきれなくなったかのように振り向いた。その顔は怒りか、それとも他の感情なのか、ひどく歪んでいた。
「あなたに何がわかる」
怒気を孕んだ、しかし押し殺されたその声は、低く廊下に響いた。食いしばられた口元が、彼の苦しみを物語っていた。
「……私は全てを失った。何がどうなろうが、もうどうでもいい」
彼はそう言い残すと、踵を返して振り返ることなく去っていった。その背中があまりにもの悲しいので、わたしはいつの間にか涙をひとすじこぼしてしまったらしい。ぽたりと床に落ちたしずくに気づいて、わたしは情けなさにしゃがみ込んだ。
救おうだなんておこがましいことを思ったことはなかったけれど、わたしは彼が孤独に打ちひしがれる前に、無理矢理にでも手を掴むべきだった。どうしようもない後悔が押し寄せて、次から次へと涙が止まらなくなる。
「なぜ泣いている」
そんなわたしの後ろに、いつの間にかトムが立っていた。振り返ると、彼はまるで幽鬼のような佇まいでそこにいた。相当怒りが深かったのか、彼は自らのローブの裾が破けるのも構わなかったようだ。
「奴が何か言ったのか」
トムはそう続けて、わたしの両腕を掴んで立たせると顔を覗き込んだ。まだ怒りは沈んでないようなのに、わたしの心配をしている。
しかしこのままだとセブルスにまで彼の怒りが飛び火しそうだったので、わたしは正直に言った。
「セブルスが死喰い人になったのが悲しいの。彼はわたしの教え子だし、幸せになって欲しかったから」
「死喰い人になったことが奴の不幸だと?くだらん。ただの感傷で涙を流すな」
彼はそう吐き捨てながらも、手の甲でそっとわたしの頬を拭った。そうして、顔を覗き込んでわたしの目からもう涙が溢れていないことを確認すると、「部屋まで送ろう」とわたしの手を引いた。
「もう予言のことはいいの?」
そんな彼にわたしが思わずそう問いかけると、彼は歩みを止めないまま答えた。
「…ナマエには関係のないことだ。忘れろ」
彼がそう答えたということは、きっとその生まれる子を殺してしまうつもりなのだ。何のためらいもなく、その家族ごと。
残酷だ。なんて残酷なんだろう。わたしはそう思ったけれど、ここに住む時間が長くなるにつれ、わたしの中の何かが麻痺してきていることには気づいていた。昔ほどの憤りは感じなかった。
なぜなら、わたしはこの場所に隔離されているから。彼が、絶対に見せようとはしないから。
屋敷の一番奥にあるわたしの部屋に着くと、彼はそのままわたしの部屋に足を踏み入れた。淑女の部屋に何も言わずに入るなんて、と言うと、「いつからそんなものになったんだ」とにくたらしい答えが返ってくる。
わたしの部屋に置かれた、柔らかい素材のソファにトムは腰掛けて、その前に立ったわたしを抱き寄せた。脇に手を差し込まれたせいで、彼の膝に向き合った形で座らされる羽目になる。
「こんな格好が許されるのはティーンの時だけよ」
「あの時から一つも変わっていないなりをして何を言ってるんだ」
「あなたがそうさせたんでしょう」
咎めるように言えば、彼はそれに答えることなくわたしを抱きしめた。仕方がないので、わたしも彼の首元に腕を回して抱きしめてやる。
彼が不安定なのは予想しなくてもわかることだ。彼の最も恐れていることを、予言が言ったのだから。
魔法界での予言は、マグルの世界の予言だとか占いだとか、そういう胡散臭いものとは違って必ずといっていいほど当たるものだ。
だから余計トムは敏感になっているのだろう。
「大丈夫よ、あなたより強い人なんてわたしくらいしかいないわ」
現に、今あなたの上にこんな風に乗れるのはわたししかいないでしょう。
そういうと彼はやっと、小さく笑ってわたしを見上げた。いつも見下ろされている身としては少し気分がいいものだ。
「今、何か不愉快なことを考えただろう」
「わたしにまで勝手にレジリメンスをかけるのはやめてよ。女には秘密が必要なのよ」
まるで若い恋人同士のように、わたしたちはお互いの体に腕を絡めていた。
そうしてトムはわたしの後頭部に手を回すと、優しく、しかし拒否は認めず、引き寄せて唇を合わせた。
お互いの熱を確かめるような重ねるだけのキスを繰り返しながら、だんだんと深くなっていくそれに、息が上がっていく。
「いい加減慣れたらどうだ」
トムが呆れたように言ってくるのを彼の肩に頬を押しつけながら聞く。毎回力が抜けてしまいぐったりと彼に抱きとめられるのだ。
なんとなくまどろんで、彼に抱きしめられながらうとうととしつつ、なぜだかわたしにはある光景が浮かんでいた。
セブルスが、一人きりで雪の吹雪く中を歩いていく。その先は闇だ。
一人で行ってはいけない、そう思うのに、わたしは彼を止められなかった。
ああ、どうか、誰でもいいから彼を助けて。
そう考えながら、トムの体にすがりついたまま眠りに落ちた。
孤独の呼吸音