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Chapter6-2
トムのよこしたバラは、わたしが部屋の中をすっかり片付けて、荷造りをするのには十分な時間をわたしに与えた。
一枚ずつ花びらが控えめな光の粒子を伴って落ちてゆく様は、まるでマグルの童話の美女と野獣の話に沿っているようで、彼が案外ロマンチストだったことを思い出す。
荷物をまとめながら、わたしはホグワーツの中を歩いた。それはたまにダンブルドアも加わったけれど、ダンブルドアは忙しい人なので大抵は一人だった。
夏休みで生徒も、それから教職員たちもいないホグワーツは、どこかひんやりとしていて澄んだ空気が流れている。
わたしはいつの間にか、八階の石壁の前に来ていた。もう何十回も、何百回もこの場所を訪れているというのに、何度来ても全てが色あせることはなく、永遠に心を踊らせる場所なのだと思わされる。
目を瞑ると、いつの間にかドアノブが現れた。
そう、わたしは赤いパンプスを履いている。ドアノブをひねると、あの人全く変わらない部屋が現れていた。
一つだけ足りないのは、悠然と足を組んだ、彼だ。
わたしはあの日のように彼が座っていたソファの前に腰掛けて、部屋をぐるりと見回した。
ここに来て昔を懐かしむのも、今日が最後だろう。バラはもう、あと一枚しかやわらかな花弁を残していないから。
きっと今夜だ。わたしには妙な確信があった。
彼に会うと思うと、いくつもの感情が混じり合ってしまって自分の気持ちすらわからなくなってしまう。
ただ、自分が彼に、どうしようもなく執着しているのだけは分かっていた。そうしてきっと、彼も同じなのだ。
これだけの時が経って、彼は”ヴォルデモート卿”という名前を名乗り始め、きっと彼が望んで手に入れられないものの方が少なくなっただろう。
なのに、彼はまだわたしを得ようとしている。そのことに、わたしはよろこびを感じてしまっているとともに、恐れもまたあるのだ。
わたしは、ヴォルデモート卿となった彼と再会した時、本当に今まで通りの気持ちを持てるのか?そして、それは彼に対しても同じだった。
彼はわたしを必要とするのか?昔意図せず失ったものに、ただ惰性で執着しているのではないか。
昔の自分なら、そんなこと考えもせずに飛び込んでいったんだろうな、と思うと、少女だった頃を憧憬してしまう。
姿かたちは変わっていないのに、といつの間にか部屋の端に現れていた鏡をみて自嘲すると、わたしは立ち上がった。
もう、夜は近い。
わたしは両手に荷物を抱えて、天文台にいた。
空には満天の星がまたたいていて、夏特有の星座たちがうつくしく空を彩っている。
この星を一緒に見たいと無意識に願ってしまう彼は、どのようにして”迎えにくる”というのだろうか。
ホグワーツは鉄壁の守りを誇っている。何人たりとも、ホグワーツが求めない人間を中に入れることはしないだろう。
こんなところで待ちぼうけを食らってはかなわない。わたしは両手いっぱいの荷物と、トムが指定したドレスを見下ろしてくすりと笑ってしまった。
そんなことしたら、ただじゃ済まさないんだから。
思い出の中にしかいない彼に、そう言ってやりながら。
そうしているうちに、時計台の0時を指すベルが、厳かに鳴り始めた。
わたしはそれに気を取られていて、胸のポケットにさしていたバラから、最後の一枚の花びらがこぼれ落ちたのに気づくのが遅くなった。
わたしが「あっ」と思わず声を上げると、夜の暗闇を切り裂くようにして、白い何かがこちらへと向かってくる。
「バーナード!」
わたしは口をあんぐりと開けてしまった。
迎えって、もしかしてバーナードのことなの?彼の考えがわからない。バーナードにわたしを運べるはずないのに。彼は不死鳥じゃないのよ!
そんなことを考えてあたふたしているうちにバーナードは天文台の上に飛び立つと、わたしに向かって何かを投げ落とした。
わたしが慌てて両手の荷物を床に落としてふわりふわりと落ちてくるそれを手を伸ばして捕まえると、バーナードは素知らぬ顔で横に体を落ち着ける。
「これは、…スミレ?」
わたしがそう認識した瞬間、バチン!と大きな音を立てて、その場から消え去っていた。
わたしが次に聞いたのは、「Aresto Momentum」と唱える声だった。
ぐるぐると激しい勢いで落ちかけていたわたしはゆっくりとその場に降り立ち、待ち受けていたのであろう彼に抱きとめられる。
「ポートキーだなんて!」
長い別れを経ての再会に際して、わたしが一言目に言ったのはそれだった。
黒いフードを被ったトムの顔は面影は残っているものの人間らしさが薄れ、どこか蛇を感じさせるようなものに変わっていたけれど、それよりわたしは突然”移動”させられた憤りに燃えていた。
「再会したというのに、最初の言葉がそれか」
心底呆れている、とでも言いたげな顔でそう言ったトムはわたしを立たせて胸ポケットにさしてある枝だけになってしまったバラを抜き取る。それはトムが触れると何事もなかったように消えてしまった。
「ああ、トム!どうしてあなたはトムなの?って言って欲しいわけ?そう言って欲しいなら天文台の下まであなたが迎えにくるべきよ!」
「ここまで来てやったろう。そして、きちんと落とさず受け止めた」
何も落ち度はない、というように両手を広げるトムに思わずため息が出る。
わたしが手の中に握りこんでいたスミレを見下ろすと、それはわたしが思い切り掴んでいたというのにしおれることなく美しい形を保っていた。
そのスミレが、孤児院にいた時にわたしが魔法で水をやっていたものと同じ色であることに気づくと、わたしは先ほどまでの勢いをなくしてそのスミレを大切にポケットにしまった。
「…あなたに会いたかったわ、トム。ずっと」
そうだ。わたしはトムに会いたかったのだ。この、長すぎる離別の間、絶え間なく。
突然しおらしくなったわたしにトムは少し面食らったようだったけれど、闇の帝王と声高に叫ばれるようになった彼としては似合わないくらい、ぎこちなくわたしの背中に手を回して引き寄せ、昔のように抱きしめた。
「どんな風にナマエを出迎えようか、柄にもなく迷っていた。何を言って、何をしようか、そんなことまで。黙って消えたきみを責めてやろうかとも、考えていた」
そう心情を吐露するのも、彼にしては珍しいことだ。わたしは彼の腕に閉じ込められながら、黙ってそれを聞いていた。
「けれど、きみと会ったら、考えていたことがすべて無駄だったとわかった」
彼の言葉を聞きながら、わたしはトムの胸に耳を押し当てた。きちんと心臓の音がする。わたしが、彼の知らなかった一面を見たときから、どこか彼が遠くに行ってしまったように感じていたけれど、彼はどれだけ変わっても、こんな風に存在を実感できるのだ。
そうしていると、トムは抱きしめる腕に力を込めた。少し苦しささえあるそれに、わたしが思わず「トム、」と彼の名前を呼ぶと、トムは抱きしめた腕の力を弱めることなくわたしの方に顔を埋める。
「きみは私のものだ。永遠に。もう二度と離してはやれない」
そう誓うように言った彼は、ヴォルデモートとして世界を恐怖に陥れている”名前を言ってはいけないあの人”には到底見えなかったけれど、やはり悲しいことに、彼はまごうことなきヴォルデモートその人なのだった。
わたしたち、この世界に二人きりだったらいいのに。
そんなことを考えるほど、それは悲しいことだった。ダンブルドアが『一番つらい場所になる』と語った言葉が、いやでも蘇る。
しかし、それは同時に、一番求めてやまない場所でもあるのだった。
トムはわたしの肩を抱いて、「あの日とまるで変わらないな」と一言耳元に呟いた。もう一度姿現しをするらしいトムの胸に頭を預けると、もう慣れてしまったぐにゃりとした感覚が訪れた。
着いた場所は、わたしの知らない屋敷だった。
蔦で覆われ、杭がむき出しになってしまっている、ほとんど廃墟のような場所に怯んだものの、トムに腰を抱かれながら門をくぐり中に入ると、そこは清潔で明るい、とは到底言えないものの白と黒で統一された調度品などが置かれ、外から見た様子からは想像もつかないほどきちんと屋敷として成り立っている。
「ナマエは昔からこの手の魔法に疎いな」
そうバカにするように言うトムの脇腹をつねってやりたかったけれど、ぐい、と抱かれた腰を引き寄せられたせいでそれは叶わなかった。
「わたしはあなたにそうやってエスコートしていいってまだ許可してないわよ!」
静寂に包まれた屋敷の踊り場に声が響く気がして、わたしはつねるかわりにほとんど囁くようにしてトムに抗議した。トムはそんなわたしを面白そうに片方の眉を上げて見おろして、
「死喰い人たちにこれは私のものだと知らしめる必要がある。少し我慢していろ」
とこともなげに言った。死喰い人。それは、ヴォルデモート卿という名前と同時に世界に知らしめられた存在だった。
「わたし、会いたくないわ」
そう小さく呟いたわたしの言葉を、トムはつとめて聞き流したようだ。なにも答えることなく、彼はドアノブをひねった。
そうしてわたしは、大勢の仮面をつけた魔法使いたちに囲まれることになった。
トムとわたしがその大広間に現れた途端、彼らは跪いてこうべを垂れる。
いやだわ。とっさにそう思ってしまったわたしはトムの後ろに隠れた。マグルたちの村を焼いた、だとか、ひと家族を拷問して残酷な方法で殺した、だとか、ひどい噂はたくさん聞いてきた。
実際彼らを目の前にすると、その生々しさに怖気がする。わたしが今まで考えついたこともないような恐ろしいことを彼らがやってきたのだと思うと、そしてそれをトムが指示したのだと思うと、彼の後ろにぴったりとくっついていることすら人としての倫理に反しているように思われた。
「わたし…わたし、いやだわ。ここにいたくない」
震える小さな声でトムにそう訴えかけても、トムはただ黙って彼らを見おろすだけだ。
そして唐突にわたしの手を引くと、彼の横に並ばされる。仮面の奥の瞳が、一斉にわたしに向くのを感じた。
「この女は私のものだ。杖を向けることも、触れることも一切するな」
yes my lord、というさざめきのような了解の声が一斉に広間に満ちた。未練なくその場に背を向けてわたしを連れてその場を去るトムに、わたしは無意識に安堵していた。
あの場から離れられるなら、わたしは誰の手でもつかんだだろう。
「わたし、ここに来るまでに考えて考えて考え抜いたつもりだったけれど、何もわかっていなかったのね。ここに来るということが、どういうことなのか」
打ちのめされた気分だった。
同じ人間を虫けらのように殺してしまうことのできる人間たちを前にするということがどんなことなのか、わたしはちっとも考えが及んでいなかったのだ。
彼の自室らしき部屋に連れられたわたしは、ソファに体を預けると背もたれに頬を押し付けた。
あの広間を出てから一言も発していなかったトムは、そんなわたしを立ったまま見下ろすと、小さく呟くようにして言った。
「後悔しているのか」
後悔しているかと聞かれたら、わたしは確実に後悔していた。けれど、それは今この瞬間に対してではなく、ずっとずっと昔のことに対してだった。
トムが、こんな風にでしか世界と向き合えないようになってしまうまで、一番そばにいたわたしが気づけなかったこと。
わたしが後悔しているとしたら、ただそれだけなのだ。
「抱きしめて、トム。わたしにはそれが必要だってわかるでしょう」
問いに答えなかったことを彼は不満に思っているようだったけれど、何も言うことなく隣に腰を下ろしてわたしの頭を胸に抱いた。
あなたにもう一度会えたことを、わたしは後悔していないわ、トム。
それを言うことができるほど、わたしはこの屋敷に安らぎを感じてはいなかった。
けれど、トムがいる、というただそれだけがわたしをここに繋ぎ止めていた。
鼓動だけが愛しくて