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それはまるで空色の春のように


 あの後、シャワーを浴びた彼女は何事もなかったかのように「帰るね」と言って俺の家を後にした。時間も時間だし送ると申し出たのだが、「一人で歩いて帰りたい気分なの」と言われてしまえば無理矢理ついて行くことなどできず。
 ……なんて、実際はその気になればどうとでもなったと思う。俺が「心配だから送る」と食い下がったら、彼女はそれほど嫌がることなく「そこまで言うならお願いしようかな」と、柔軟に対応してくれただろう。しかし俺はあっさり引き下がった。「じゃあ気を付けてください」って、玄関先でひらひら手を振って。
 いつまでも彼女に振り回されているばかりの男ではないと、こういう形で主張しても意味がないことぐらいわかっていた。それでも俺は、女に執着しない冷めた男であるように見せたかったのだ。たとえ彼女にどうとも思われていないとしても、俺は俺自身にそう言い聞かせなければならなかったから。

 親睦会の後は、一度も彼女に会っていない。学年が違うということもあってか、漫画やドラマのように都合よく構内で偶然出くわすなんてことはなく、当然のことながら彼女の方から連絡がくることもなく、日にちだけが過ぎていった。四月はあっという間に終わり、世間では明日から五月の大型連休が始まるらしい。
 俺が高校時代から大切に残しておいた彼女の連絡先は、一年以上前に変えてしまったと言われた。だから、同じゼミだし、今後選択する講義のこととか試験内容のこととかで何かききたいことがあるかもしれないから、とかなんとか、もっともらしい理由を並べて新しい連絡先を教えてもらったのだが、彼女は俺が連絡先を求める理由になど興味がなかったのだろう。特に何のつっこみもなくさらりと教えてくれた。俺が女々しくも彼女の連絡先をずっと削除できずにいたことになんて、全く気付きもしないまま。
 連絡先を交換したところで、お互い連絡をしないなら意味はない。これではあの頃と同じだ。いや、あの頃よりはまだマシなのだろうか。この大学に通い続けている間は、そして同じゼミに所属している間は、かろうじて彼女と接点があるから。
 また、迷う。あの時と同じように。連絡しようかするまいか、迷って迷って迷った挙句、俺はやっぱり連絡しない道を選んだ。結局あの時から、俺は根本的なところで何も成長していない。

 本日最後の講義が終わった後からずっと睨めっこし続けていたスマホを机の上に置いて、うーんと伸びをする。大学でも懲りずにバレー部に入った俺には、大型連休などあってないようなものだ。高校時代よりは緩いものの、連休中もそこそこ練習が入っているので、ゆっくりする暇はないだろう。まあ余計なことを考えなくて済むから、俺にとっては有難いのだが。
 さて、今日はこれからどうしようか。部活は明日からに備えて今日は休みだと言われた。早く帰っても飯を食って風呂に入って寝るぐらいしかやることがないし、DVDでも借りてぼーっと無駄な時間の使い方をするのも悪くないかもしれない。

 こういう時、少しだけ高校時代が懐かしくなる。ほんの一ヶ月とちょっと前まで高校生だったくせに何を言っているんだと思われるかもしれないが、高校時代は明けても暮れてもバレー漬けの毎日を送っていたから、今みたいに暇だなあと思うことなどなかった。部活が休みの時も、俺には研磨という幼馴染がいたからなんだかんだで暇潰し相手はいたし、振り返ってみれば休みなのにバレー部の奴らとつるんでばかりだったから、一人でゆっくり過ごすことはほぼ皆無に等しかった。たった一ヶ月前のことだとしても、俺にはそれが懐かしく感じられたのだ。
 いつかはこれが普通になるのかもしれない。一人で過ごす時間が増えて、センチメンタルにしんみりと「昔は馬鹿だったなあ」って思い出して、ちょっと物思いに耽ってみたりして。そんな「なんちゃって大人タイム」に浸りかけていたら、机の上に置いていたスマホがピロリンと可愛らしく鳴いた。
 誰だろう。バレー部の人間か、大学に入学してからとりあえず連絡先を交換したまだ顔見知り程度の同級生か、もしくは高校の後輩か。脳内で見当を付けながらおもむろに画面をタップした俺は、浮かび上がったメッセージの送り主を確認して思わず「え」と声を漏らしてしまった。名字名前。そこに表示されていたのが彼女の名前だったからだ。
 彼女のことだから、ただ気紛れに連絡をしてきただけなのだろう。特に用事もなく、そういえば暇だから連絡してみようかな、って。返事がなくても別にいいや、って。それぐらいの軽さで送ってきたに違いない。
 それでも良かった。男は単純だし馬鹿だから、女の気紛れに喜んで踊らされる。俺も立派な男だから、彼女の気紛れに喜んで踊らされるのは当然のことだ。何も恥ずかしいことじゃない。

“黒尾くん、今ひま?”

 軽くて簡素でわかりやすい一文。俺はそれにすぐ返事をする。「ひまだったらどうするんですか?」って。スタンプも何もつけずに、たった一文で。

“どこにいる?”
“第三講義室”
“今日はもう終わり?”
“そうですけど”
“私も終わり”
“そうですか”
“明日から休みだね”
“そうですね”
“どこか行くの?”
“部活あるんで”

 ぽんぽんと短いやり取りが続いて、途切れる。そして

「返事がちょっと冷たくない? 黒尾くん」

 講義室の扉が開いて、俺の姿を捉えた彼女は第一声、不服そうにそう言った。淡いブルーのスプリングコートは、今日の快晴の空に合わせて着て来たのだろうか。何にせよ、彼女によく似合っている。
 かたや俺はというと、まだ冬を引き摺っているみたいな野暮ったい黒色のジャケットを羽織っていて、彼女と正反対と言ってもいいぐらいのカラーリングだった。髪も黒だしデニムパンツも黒だし、よく考えたら今日のコーディネートは全身真っ黒だ。シャツだけは黒を選ばなかったのがせめてもの救いである。

「俺はいつもこんな感じですよ」
「そうだったっけ」
「名前さんが何も覚えてないだけじゃないですか」

 今のは少々嫌味っぽさが滲み出すぎていただろうか、と思ったが、彼女はそんな嫌味をいちいち気にするタイプではないので、こちらも気にしないことにした。それに実際、彼女は何も覚えていないのだ。俺が覚えているありとあらゆることを、彼女は何一つ、覚えていない。

「私、なんでもすぐに忘れちゃうからさ」
「知ってます」
「また忘れるところだった」
「何を?」
「返事。あの時も忘れてたから」

 彼女は何も覚えていない。……と、思っていた。しかし本当は、覚えていないのではなく、覚えることを自ら放棄していた。もしくは、忘れたフリをしていた、と。そういうことだったのだろう。そんな気はしていたが、そうじゃなければ良いと思っていた。彼女が純粋に頭の弱いオネーサンだった方が、よっぽど楽だから。
 ゆっくりと彼女が近付いてくる。俺は座ったまま動かない。がたり。彼女が俺の隣の席に座った。俺はそれでも動かない。表情筋も眉も指先も、微動だにしないよう努める。

「あの時どうして私が返事をしなくなったのか、知りたいんだよね? 教えてあげるって約束したの、ちゃんと思い出したんだよ。偉いでしょ」
「はいはい、偉かったね」
「私の方が年上なんだけど」
「知ってるよ」

 彼女が俺の方を向いているのがわかる。俺はそれでも前を向いたまま、時々瞬きをして、時々口を動かすだけ。しかしどれだけ平静を装っていても鼓動の早さだけはコントロールができなくて、どんどん早くなっていく。

「黒尾くん、私のこと軽い女だと思ってるでしょ」
「重いとは思ってないですね」
「だからだよ」

 だからだよ、とは。はて、一体どういう意味だろうか。あの時急にぱったりと返事をしなくなった理由が、彼女を軽いと思っているかどうかに関係している、と。その程度しか理解できない俺は馬鹿なのだろうか。馬鹿なんだろうな。

「俺馬鹿なんで、そういう遠回しな言い方はちょっと」
「本気になったらダメだと思ったの」
「……つまり?」
「本気で好きになったら重たい女になっちゃうから、黒尾くんに捨てられる前に逃げただけ」

 視線だけを彼女へ寄越す。しかし彼女は俺の方を見ていなくて、両手で顔を覆い項垂れていた。見えるのは彼女の美しいつむじだけ。
 俺は今どんな表情をしているのだろう。引き締めているつもりの口元は緩んでいないだろうか。鏡でチェックすることなんてできないから、気力だけでまともな顔を作ることに心血を注ぐしかない。

「名前さん」
「なに」
「今日ひまだよ、俺」
「そっか」
「うん」
「それで?」
「どうしよっか」
「どうしたい?」
「それは俺のセリフなんですけど」

 腹の探り合いしにては生温い会話だった。彼女はぱっと顔を上げて俺を見つめる。もちろん上目遣いで。これは絶対にわざとだとわかっていても、ぐっときてしまうのが悔しい。

「とりあえず行こっか」
「どこに?」
「名前さんの好きなところでいいよ」
「デート?」
「じゃあそういうことにしとく?」
「うん」

 彼女は、俺がどんなに頑張っても追いつけないぐらい大人だなあと感じることがほとんどなのに、時々少女のように幼くなる。世界の穢れを何も知らない女の子のように、純真無垢な笑みを浮かべるのだ。
 俺はまた騙されているのかもしれない。現在進行形で彼女の手のひらの上でコロコロと転がされているという可能性も、大いにあり得る。それでも俺は、ご機嫌な彼女の隣を歩いた。
 外に出る。傾く太陽に照らされたスカイブルーのコートが、やけに眩しい。