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アイスでも食べながら話そうか


 遠目に見かけた時「もしかして」と思った。追いかけて声をかけてやろうとも思った。しかし俺は結局、その足を踏み出さなかった。だって、そんな都合の良い、ドラマみたいな展開は有り得ないと思ったから。それなのに、どうやら俺の人生はドラマみたいなご都合主義で進んでくれるらしい。

「なんでキミがこんなところに……?」
「どーも。元気そうだね、名前サン」

 およそ一年ぶりに再会した彼女は、相変わらず魅力的なオーラを身に纏っていて、心臓が震えた。そして改めて思いしる。やっぱり俺は、この人に惹かれ続けていたのだと。





 彼女に初めて出会ったのは、高校二年生の夏の夜のこと。夜になってもちっとも涼しくならず茹だるような暑さの中、俺は蝉の合唱をBGMにして一人で帰っていた。
 確かあの日、研磨は自主練する俺を置いて先に帰ってしまった、とか、そういう感じだったと思う。そこらへんの記憶はあまりない。
 普段はわりと真面目に直帰する俺が、帰り道のコンビニでアイスでも買い食いしてやろうと思い立ったのが全ての始まりだった。今振り返ってみれば、そう思う。
 立ち寄ったコンビニの、喫煙スペースから少し離れたところにしゃがみ込んで項垂れていたのが、他でもない彼女だ。見て見ぬふりも勿論できたわけだが、変なところでお節介というか(自分で言うのもどうかと思うけど)面倒見が良いタイプの俺は、つい声をかけてしまった。

「あのー、大丈夫ですか?」
「……大丈夫そうに見える?」

 気分が悪そうというより、完全に機嫌が悪そうな雰囲気で刺々しく返事をしてきた彼女は、気怠そうに俺を見上げた。死んだ魚のような目、とまでは言い過ぎかもしれないが、あまり生気を感じられない瞳だったのは鮮明に覚えている。

「いや、まあ、大丈夫じゃなさそうだから声かけたんですけど」
「ふぅーん……お人好しなんだね、キミ」
「どっちかというとそうですかね」
「その制服、音駒高校だっけ? 三年生?」
「まだ二年生です」
「へぇ……」

 尋ねてきたわりに興味なさそうな返事をされたから、話はそこで終わるのだと思った。世間話の一環、みたいな。ただ声をかけられたから適当に暇潰し程度の会話をしてみました、みたいな。そんな軽い雰囲気だったし。
 しかし予想に反して、話はそこで終わらなかった。彼女は俺を上から下まで値踏みするように一瞥した後、予想だにしていなかった一言を吐き出したのである。

「ね、今から時間ない?」
「はい?」
「私に付き合ってよ」
「はあ……」
「声かけてきたのそっちなんだから責任取って」

 とんでもなくめちゃくちゃな言い分だった。どう考えても理不尽すぎるし、俺には当然断る選択肢があったと思う。というか、それ以外の選択肢なんてないと言っても良い状況だった。それなのに俺は、何を血迷ったか、のこのこと彼女に付いて行ってしまったのである。
 当時の俺がどういう心理状態でその行動を選択したのかは、やっぱり記憶にない。暑さで頭がやられていたのかもしれないし、一時的に咄嗟の判断能力が鈍っていたのかもしれない。ただひとつ覚えているのは、彼女がクラスの女子とは違う大人びた空気を醸し出していたということ。それだけだ。
 彼女に付いて行きながら、アイス買うの忘れた、とか、帰り遅くなるって連絡した方がいいかな、とか、色々考えていたような気がする。けど、彼女が何の変哲もないアパートの前で足を止め「ここ私んちだから」と言った瞬間、それまで考えていたことが一気に頭の中から吹っ飛んでいった。

「遠慮せずにあがって」
「いや、でも……それはさすがに」
「ここまで来て帰るの?」

 どこまでも滅茶苦茶な彼女は、どこまでも自由だった。ここまで来て、って言われても、そもそも行き先教えてもらってなかったし。まあ何も確認せずについて行っちゃった俺も俺だけど。

「オネーサンは初対面の高校生を自分ちに連れ込んでいいんデスカ?」
「うん。だって連れ込むつもりで連れて来たんだもん」

 あっけらかんと言う彼女に、俺は開いた口が塞がらなかった。連れ込むつもりで連れて来たってどういうことだ? まさか襲うつもりとか? こんなデカい男を? さすがにそんな無謀なことはしないよな。じゃあどういうつもりで?
 高校二年生の俺は、今よりずっとずっと馬鹿で子どもだった(今でも馬鹿で子どもかもしれないけど)。だから、男と女の体格差や力の差があれば、どうにでもなると思ったのだ。
 暑いしお茶ぐらいもらって帰ろうかな、という気持ちで玄関の扉をくぐったら最後、ガチャンと扉が閉まったと同時にぴたりとくっ付かれて、暑さとは違う汗が噴き出した。靴も脱いでいないこの状況で、まさか本気で襲うつもりなのだろうか。あの時の俺は、そりゃあもう焦っていた。
 よくよく考えてみれば、彼女はかなり露出度が高い格好をしていたから、ぴたりと寄り添われたら当然素肌が直接俺の身体に触れる。あの柔らかな感触は、暫く身体に刻み込まれていて消えてくれなかった。
 汗をかいているはずなのに汗臭さなんてちっとも感じなくて、むしろ何の匂いかはわからないがいい香りが鼻腔を擽る。つまり彼女は、俺の目に相当魅力的に映っていた。

「キミ、キスしたことある?」
「は?」
「キスぐらいはあるか。じゃあそれ以上のことは?」
「……オネーサン、酔ってます?」
「シラフ。でもヤケにはなってるかもしれない」

 自分より年上だろうということ以外、何の情報もない(なんならこの情報だって推測でしかない)。そんな女性から突然プライベートなことをきかれて答えられる高校生男子がいるだろうか。俺は完全に気圧されていた。俺よりもうんと小さな相手に。
 彼女はそんな俺を更に追い詰めるかのように、細い指先で俺の首筋をなぞった。そしてネクタイに指をかけて囁くように声を落とす。たったそれだけのことに、背中がぞくぞくした。

「私とえっちしない?」
「なっ……っ、」
「動揺してるの? 可愛いね」
「マジであの、そういうことはさすがに」
「誰かにバレたらマズいとか、そういうこと気にしてる? それなら、二人だけの内緒にすればよくない?」

 よくない。絶対に。どう考えたってよくない。
 それなのに俺は、彼女にネクタイをほどかれることを許してしまった。二人だけの内緒、という響きに惑わされてしまったのかもしれない。
 あの時俺は「ダメですよ」と断るべきだったのだと思う。逃げたと思われても良い。意気地なしだと罵られても良い。だって彼女は見ず知らずの赤の他人。過ちをおかして良いような相手ではないのだから。
 脳が正常に働いてくれていたら、絶対に流されたりするはずがない展開だった。それなのに俺は、彼女に両手で頬を柔らかく包まれたのを皮切りに、理性とか道徳とか、その他諸々の社会的に大切な何かを捨ててしまったのである。
 ぷつりぷつりと外されていくボタン。寄せられる唇。繊細な指先。熱い吐息。それら全てが、俺を壊していく材料だった。
 気付いたら部屋の中まで連れ込まれていた。……否、自分から入って行った、のだと思う。肝心なことはひとつも覚えていないのだから、俺はかなり正気を失っていたに違いない。
 彼女に手を引かれるまま小さなベッドに雪崩れ込み、「暑いよね」と言って冷房の電源を入れてくれたことはぼんやり覚えている。どうでもいい記憶だ。
 こんなはずじゃなかったのに、なんて思っても、本能には逆らえなかった。止まれなかった。自分の身体が自分のものじゃないみたいだった。俺はあの時初めて、理性と本能の狭間で葛藤するという経験をしたのだ。

「もしかして初めて?」
「っ……、だったらどうなんですか」
「別にどうもしないよ。私が教えてあげるだけ」

 コンビニでの不機嫌さはどこへやら。彼女は機嫌良さそうに俺の身体を撫でた。
 彼女の指摘通り、俺はその時まで童貞だった。セックスの仕方は知っていたし、彼女がいたこともある。けど、事に及んだことはなかった。タイミングが合わなかったとか、チャンスがなかったとか、高校二年生まで童貞だった理由はいくらでもあるけど、一番の理由は俺に勇気がなかったからだと思う。
 下手だったらどうしよう。相手の女の子を気持ちよくさせることができなかったら申し訳ない。俺の男としての小さなプライドが、一線を越える勇気を足止めさせていた。しかし彼女は俺に、その一線を難なく超えさせたのである。
 
「名前、きいていい?」
「……黒尾鉄朗です」

 あの日の全てが終わった後の脱力感と高揚感は、永遠に忘れられないだろう。呆然としながらも名前を答えてしまったのは、まだ頭がクリアになっていなかったからかもしれない。

「じゃあ、黒尾くん。また寂しくなったら連絡してもいい?」
「は? なんで俺なんですか」
「身体の相性いい気がするんだよね私たち」
「俺まだ高校生ですよ」
「だから何? 黒尾くんは気持ちよくなかった?」

 彼女は最初からずっと滅茶苦茶なままだった。だからもういちいち驚くのも面倒臭くなって、そうか、気持ちよかったし別に高校生だからって気にする必要ないか、という思考にさせられた。俺も大概どうかしている。

「嫌なら会わなければいいよ。連絡先、一応交換させて?」

 連絡先の交換をした時に初めて彼女の名前を知った。名字名前。俺のスマホにインプットされたその名前は、今でもきちんと残っている。彼女と出会ったあの夜の熱とともに。