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17 本音
 私は大切なことを失念していた。
 最低男と別れたのは四月。それまでは一応お肌のケアも無駄毛処理もそこそこ丁寧にしていたのだけれど、別れて以降はそれらもおざなりになっている。つまり今現在、私の全身のコンディションはちっとも整っていないのだ。
 先生との初セックスという大事な場面で、これはまずい。幸い、夏だから無駄毛処理は最低限できている。けれど、最近はボディクリームを塗るのも面倒でお肌のケアは全くしていない。触り心地が悪い女とか、先生嫌いそうだよなあ…と考えたところで、背中に嫌な汗が伝った。このままでは今度こそ幻滅されてしまうかもしれない。これはピンチである。
 しかしそんな私の焦りと心配をよそに、先生の手は薄っぺらい服の上から私の胸へと伸びてきた。カップ付きTシャツのカップなんて頼りないものだから、少し力を加えられたらすぐに形が変わってしまう。


「ちょ、ちょっとストップ!」
「はあ?」
「わ、私、部屋に戻らなくちゃ!」
「なんで」
「エアコンの修理が」
「それは午後からだろ」
「部屋が汚いこと思い出しちゃって!掃除しとかないとなーと思って…」
「今この状況で?」


 はい、そうですよね。仰る通りです。
 明らかに気分を害している先生の声音にビクビクしながら、もっと上手な言い訳はできなかったのかと自分を責める。そもそも、下手な言い訳をせず正直に「お肌のケアができていない状態で事に及んで幻滅されたくありません。少しお時間をいただけないでしょうか」と言った方がスムーズだったのではないだろうか。
 端正な顔を歪めて見下ろしている先生は、私を逃すつもりなど毛頭なさそう。となれば、やっぱり正直に言うしか選択肢はない。私は早々に観念した。


「……実は最近お肌のケアを何もしてなくて」
「それで?」
「先生に幻滅されたくないので、今日は帰りたい、です」
「却下」
「えっ!?正直に白状したのに即却下!?」


 あまりにも間髪入れずに却下されたものだから、お笑い芸人もびっくりのツッコミの入れ方をしてしまった。ほんの数分前までセックスしようかという雰囲気だったベッドの上で、まさか漫才をすることになろうとは。いや、お互いそんなことをしようとは微塵も思っていなかっただろうけれど。
 そして先生は私の鋭いツッコミを華麗にスルーして、くすりとも笑うことなく、むしろ更に不機嫌さを深めて言葉を吐き捨てたのであった。


「そんなのどーでも良いし」
「ど、どうでも良い?」
「ケアしてようがしてなかろうが、俺には関係ねぇの」
「私は気にします」
「寝てる間に触ったけど何も気になんなかったし」
「は!?変態ですか!?」
「そんな格好でしがみ付いてこられたら触んなって方が無理だろ」


 何も言い返せなかった。ぐうの音も出ないとはまさにこのことである。


「これ以上待てねぇよ」
「な、っ、」


 先生はいつだって冷静で淡白な人なのだろうと思っていた。だから、まさか「待てない」なんて、そんなことを言われるとは夢にも思っていなくて、それほどまでに先生が求めているのが自分だと思うと、嬉しいやら恥ずかしいやら訳がわからなくて、口を塞がれてしまったら余計に頭が働かなくて。
 触れるだけではなく、深く深く、海の底に沈んでいくような口付け。すごく苦しい。でも、嫌じゃない。

 解放された時には、上手く言葉を発することができないほど呼吸が乱れていた。自分の口から漏れる吐息が、異様に熱い。それだけ体温が上がっているということだろう。
 両手首を押さえつけられているのに、痛くはない。たぶん、本気で逃げようと思えば逃げられる。それぐらいの力加減。強引に事を進めているようでいて、肝心なところは私に委ねているというのが、先生の優しさなのか狡さなのか。私には判断できない。

 離れていた唇が再びくっ付く。どちらから近付けたのかは分からない。ただゆっくりと重なり合って、そうしろと言われたわけでもないのに私は薄く口を開けて、先生の舌が入ってくるのを待ち侘びていた。
 探るように、唇の形に沿って舌が這う。そして、ぬるりと入ってきたそれは、丁寧に歯列をなぞって私の舌を掬った。
 全然余裕などないのに、だからこそ妙に冷静になっている部分もあって、先生ってこんなキスするんだあ…などとぼんやり思う。というか、酔いしれていた。先生の舌の動きについて行くだけで精一杯のくせに、こんな状態でも夢見心地だなんて、私はお気楽で幸せな女だ。


「っ、はぁ」
「マジで帰りたいと思ってる?」
「今それききます?」
「今だからきいてんだって」
「……最初から、帰りたいなんて思ってないですもん」


 長く深い口付けを終えて交わした会話は、大切なことを話しているはずなのに、ふわふわと飛んで行ってしまいそうなほど軽いノリで進んだ。我ながら矛盾したことを言ったと思う。しかし、これが本音なのだからどうしようもない。
 幻滅されたら嫌だから帰りたいと言った。けれど、ごちゃごちゃしたことを抜きにしたら帰りたくない。つまり、ただの我儘だ。
 先生は呆れた様子も馬鹿にした様子もなく、困ったように、そしてちょっぴり喜びを滲ませて笑った。その表情にキュンとしてしまったなんて、恥ずかしくて言えない。


「このタイミングでそういう顔すんの、わざと?」
「そういう顔って?」
「女の顔」
「私はずっと女ですけど?」
「そういう意味じゃねーってことぐらい分かるだろ」
「分かんないですよ…何も。先生のこと、全然分かんない」


 例えば、いつから私のこと女として意識してくれてたのか、とか。いつから好きだったのか、とか。どの段階で私の気持ちに気付いていたのか、とか。私には何も分からない。もしかしたらそれはお互い様ってやつなのかもしれないけれど、それを打ち解け合うには少々理性が邪魔だった。
 先生の言う「女の顔」というのがどんな顔なのかは自分で確認できないけれど、これだけは言える。その顔をしている時の私は、間違いなく先生への好きを溢れさせている、って。
 上手にできているかわからない上目遣いで先生を見つめる。幻滅されるかも、というネガティブな思考は、さっきのキスのお陰でどこかに飛んで行った。今は、先生にもっと触れてほしいという本能だけが身体中を駆け巡っている。


「俺のこと知りたいなら続きするしかねぇんだけど」
「幻滅、しませんか?」
「すると思う?」
「質問返しは狡いですよ、先生」
「…その先生って呼び方、そろそろやめろよ」
「じゃあ、」


 御幸さん、と呼ぼうとして、ギリギリのところでその呼び方を飲み込む。こういう時、イイ女だったらきちんと呼ぶんじゃないかな、って思ったから。私は全然イイ女じゃないと思うけれど、イイ女になる努力はしたい。それこそ、幻滅されないために。


「一也さん?」
「……正解」


 一瞬明らかに驚きの色を見せたのに、すぐに口角を上げた先生…否、一也さんは、今まで見た中で一番満足そうで、一番意地悪な顔をしているような気がした。
 正解したんだからご褒美くださいよ、と強請れるほど強気な女にはなれない。しかし、一也さんは私の「先生」だから、強請らずともこちらの思考なんてお見通しなのだ。
 ちゅうっと吸い付くようなキスで、何度も何度も私から酸素を奪う。口から頬へ、耳へ、うなじへ、鎖骨へ。キスの位置が心臓に近付けば近付くほど、自分の鼓動が速くなるのを感じた。
 Tシャツの中に侵入してきた一也さんの手がお腹を撫でて、腰のラインに沿って上へと滑っていく。そして、とうとう膨らみをふにゃりと握った。それはまるで、心臓を鷲掴みにするように、強く、柔らかな手付きだった。

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