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その手には魔力がある

とうとうこの日が来てしまった。昼過ぎからそわそわしつつ珍しくキチンと化粧をした私は、只今、彼が買ってくれた…というよりは押し付けてきた、例の浴衣を取り出して睨めっこ中。着ない、と啖呵を切ったくせに着ようかどうしようか悩んでいるなんて、私は非常に滑稽で矛盾に塗れている。悩みまくっている中で思い出すのはあのセリフ。絶対可愛いから、って。そんな誰にでも言えるであろうありきたりな彼の一言に、私は今も尚振り回されている。もっとも私は彼に出会ってからずっと振り回されっ放しなのだけれど。
彼は浴衣を持って夕方うちに来ると言っていた。着付けてよ、と言われてすんなりと頷いてしまったのは、あの日の私の気が動転していたからだ。彼はきっと、私の頭が正常に機能していないことを見越して言ってきたに違いない。
そんなわけで、私が浴衣を着るとすれば彼が来る前か彼の着付けが終わってからになるのだけれど、男の人の浴衣の着付けは割とすぐに終わるだろうからどっちでも良いとして、問題は本当に着るかどうかである。私は浴衣を見つめながらうーんと唸る。そうして悩みに悩んだ結果、私は浴衣の封を切った。どういう経緯であれ、たとえそれが押し付けであったとしても、この浴衣を買ってくれたのは彼だ。それならばここで着ないのは、なんというか、失礼な気がしたのだ。それにほら、お金を返す代わりに浴衣姿を見せるのがお礼みたいなもんだし、彼もそんな感じのことを言っていたし…などと言い訳がましいことを思いながら浴衣を広げ服を脱ぐ。
そんなこんなで、どうにかこうにか浴衣を着て髪のセットでもしようかと鏡に向き合っていたところでチャイムが鳴った。時計を見れば約束の時間5分前。いつの間にか随分と時間が経っていたことに驚きつつも、私は玄関に向かい扉を開けた。玄関の前に立っているのは勿論、赤葦京治君だ。私は、どうぞ、と扉を開いたままで彼を招き入れる。けれどもどうしたことか、浴衣が入っているのであろう紙袋を手に立っている彼は動く気配がない。私の声が聞こえていないのだろうか。


「赤葦君?」
「…浴衣」
「なに?」
「着てくれたんだ」
「え?ああ…だってそういう約束だったし…」
「やっぱり、すごく似合ってる」


何を言い出すかと思えば、彼は嬉しそうに笑みを浮かべながらそんな言葉を落として、お邪魔します、とうちに入ってきた。胸がとくんと跳ねた、ような気がするけれど、それは気のせいかもしれない。そんな小さな自分の変化については深く考えないように努めつつ、私はさっさと着付けを済ませようと彼を部屋に通した。昨日の時点で部屋の片付けはしてあるし見られて困るようなものはないはずだけれど、それでも彼がぐるりと自分の部屋を見ていることに気付けば何を見られているのだろうかと気になってしまう。


「早く着付け終わらせよう」
「うん」
「ちょっと!」
「何?」
「羽織るところまでは自分でやってよ」
「ああ…そっか」


目の前で何の躊躇いもなく服を脱ごうとする彼に待ったをかける。肌着は着ているし、男の人だからそりゃあ見られたとしても抵抗はないのかもしれないけれど、こちらとしては目のやり場に困るからやめていただきたい。と思いつつも、ちらりと見えてしまった彼の腹筋は細身のわりに引き締まっていたな、などと考えている私は、相当ヤバい。いや、でもこれは事故だし。たまたま見えちゃっただけだし。ドキドキなんてしてないし。彼のせいで、最近の私は自分に対して言い訳ばかりしている。しかも、かなり下手くそな言い訳を。
それから浴衣を羽織って肌着を着た状態の彼の着付けはあれよあれよと言う間に難なく終わり、私は髪のセットを済ませるからと少しだけ待ってもらうことにした。普段はおろしっぱなしか、そうでなければひとつかふたつに結わえるだけの髪も、今日だけは編み込みなんかしてみたりして緩めに結わえあげる。別に気合いを入れているわけではない。浴衣に見合った髪型にしているだけのことだ。…なんて、ほら、また言い訳がましいことを思ってしまっている。
余計なことはもう何も考えないようにしよう。そう決意して、最後に髪飾りをつけようと机の上に置いていたキラキラ光るそれに手を伸ばせば、なぜか彼が手に取った。それ今から付けるから返して、と私が言うより先に彼に口を開かれてしまったのは、完全なる失敗だったと思う。


「いつもと全然雰囲気が違うね」
「浴衣着てるからでしょ」
「それもあるけど、それだけじゃなくて」
「そう?そんなことよりそれ、今から付けるから…」


返して、と。当初の予定通りに紡ごうとした言葉は、最後まで言い終えることができなかった。彼の指が、私の首筋をつうっと撫でたからだ。驚きとともに襲い来るぞくぞくした感覚に思わず、ひゃあ!と声をあげてしまったけれど、この反応は間違っていないと思う。一体なんなんだ。どくどく。心臓がうるさい。


「うなじが見えると色っぽい」
「急に触らないで!」
「急じゃなかったらいいの?」
「そういう問題じゃないでしょう!」
「ねぇ名字さん、分かってる?」
「何が!」
「今俺達、2人きりなんだよ?」


そんなの分かってるよ!と勢いよく答えようとしてハッとした。というか、漸く状況を理解した、と言った方が正しいだろうか。
彼は同じ大学に通っていて、同じバイト先に勤めている、ただの知り合い。友達なのかどうかもよく分からない関係で、当たり前のことながら彼氏でもない人だ。けれども彼が男で私が女であることは紛れもない事実なわけで、それを認識してしまった途端、全身に緊張が走る。身の危険を感じて、というわけではない。浴衣を買いに行った時もそうだった。何の前触れもなく彼が放つ真剣なオーラが、私の調子を狂わせるのだ。


「簡単に男の人を家にあげちゃダメでしょ」
「それは赤葦君が着付けしてほしいって言ったから仕方なく…」
「もし俺じゃないヤツに同じこと頼まれたら、名字さんはどうしてた?」
「え?」
「今と同じように、その人も家に招き入れた?」
「それは…、」


それは、絶対にない。普通に考えて男の人と2人きりの状況になんてなりたくないもの。何されるか分からなくて怖いし、最近は色々と物騒だし。それならば私はどうして彼を招き入れてしまったのだろう。約束したから?今までも2人で作業をしたり買い物に行ったりしたことがあるからそれの延長で?駄目だ、どれもしっくりこないし全然分からない。
混乱状態の私に、彼がまたすっと手を伸ばしてくる。私はそれに対してなぜか反射的に目を瞑った。次は何をされるのか。怖いというより、ただドキドキしていた。ドキドキ、なんて漠然とした感情を持て余すのは人生で初めてのことだ。というか、この状況自体が初めてではあるのだけれど、もうそんなことはどうでも良くて。
どくりどくり。私の心臓はちっとも鎮まりそうにない。目を瞑ったまま、数秒。何も起こらずに更に数秒が経過して、はい、と。彼の声が聞こえた。恐る恐る目を開ければ、差し出されている髪飾りが目に飛び込んでくる。


「これ、付けるんでしょ」
「え…うん…」
「それ付けたら行こうか」


先ほどの妙に真剣で言いようのない雰囲気はどこへやら。ふっと緩んだ空気の中で、彼は何事もなかったかのように笑っていた。受け取った髪飾りを付けて玄関に向かう私の頭の中はいまだに混乱したままだ。
さっきのやり取りはなんだったんだ。彼は一体何がしたかったんだ。もう何が何だか本当に分からなくて、でも分からないままで良いような気もして。こんなに何もかもが分からなくなることなんて今までなかったからなのか、不明瞭なことだらけの状態に不安ばかりが募っていく。そんな私に、彼はまた動揺を誘うように手を伸ばしてきた。手繋いじゃう?って。繋ぐわけないでしょ、と答えた私に、だよね、と返してくる彼は今の状況をどう思っているのだろう。私のことを、どう思っているのだろう。
ばたん。玄関の扉を閉めて鍵をかける。先に歩く彼の後姿を見つめながら、もしも私が手を繋ぐことを了承していたらどうなっていたのだろうか、なんて考えて。そんなことを考えている時点で、私はもう、自分の気持ちに向き合わなければならないのかもしれない。