×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -

何度でもロブ・ロイ


今日は私が昼ご飯作るね、と言って柔らかな笑みを残し布団から出て行った愛しい女の後ろ姿を眺めながら、これは都合の良い夢なのではないかとぼんやり思う。それぐらい、まだ現実味がなかった。あまりにも幸せが日常化しすぎているから。
俺はひどいことをした。それも、とびっきりタチが悪くて、彼女をこの上なく傷付けると分かりきっているような、男として、人として最低なことを。それがいくら仕方のないことだったとしても、普通なら許されない。許されるべきじゃない。
しかし彼女は、俺を散々咎めた後に、また求めてくれた。全てを許しました、水に流しましょう、と言われたわけではない。たぶんいまだに俺が負わせた傷は癒えていないだろうし、この先ずっと完全に塞がることはないと思う。それだけのことをした。
それなのに彼女は、こんな俺のことをまだ「好きだ」と言ってくれる。俺が必要だと、一緒にいたいと、言動で示してくれる。改めて考えてみれば、菩薩のように心が広い女だ。
咎められて救われた、なんて言ったらおかしいと思われるかもしれないけれど、あれだけのことをしてひとつも責められることなく受け入れられるのは怖いし後ろめたい。だから俺は、責められることで救われた。俺ばかりが、俺だけが、苦しみから解放されている。

11月初旬の昼前。冬の足音が聞こえてくる季節になった最近では、日が高く昇っているこの時間でも、布団から出るとひんやりとした空気が肌を刺す。俺は彼女の温もりがなくなった頃になって、漸くのろのろと台所へ向かった。
今日の昼飯はトマトソース系のパスタだろうか。ふわりと香る良い匂いに釣られるようにして彼女の背後からフライパンの中を覗けば、大きめのミートボールと蕩けた玉ねぎがトマトソースでぐつぐつ煮えているところだった。予想的中だ。


「パスタ?」
「うん。サラダも冷蔵庫にあるよ」
「手際が良いですね奥サン」
「茶化さなくていいから食器持って行ってください寝坊助さん」


湯がいていたパスタをトマトソースと絡める作業に入った彼女は、俺を軽くあしらった。このまま後ろから腰に手を回してイチャついてやろうかと思ったけれど、そんなことをしたらきっと、邪魔、危ない、と怒られてしまうだろう。俺は言われた通り、大人しく食器をテーブルに持って行くことにした。
数時間前までベッドの上で甘ったるい声を出して俺を求めてきていたくせに、一度ベッドから出ると、彼女はわりとドライである。色々ある前もそうだったけれど、復縁してからは更にそのメリハリの付け方がキッチリしてきたような気がする。
別にそれは悪いことじゃない。オンとオフを切り替えるのは大人として大事なことだ。俺も見習うべきだと思う。けれども、珍しく休みが被った時ぐらい、ずるずると恋人の時間を愉しみたいと思ってしまうのは我儘なのだろうか。それとも俺が恋愛というものに、名字名前という女に溺れすぎているだけなのだろうか。
彼女の家で向かい合って昼食を食べることには、だいぶ慣れてきた。くだらない話をしながら食事をした後は、どこかに出かけたり、借りてきた映画のDVDをソファに並んで観てみたり。
特別なことはしていない。今まで1人だった日常に、彼女が入ってきた。ただそれだけ。しかし、ただそれだけのことで、世界は変わる。歴代の彼女とだって少なからずそういう時間を過ごしてきたはずなのに、名前と過ごす時間はそれまでと違うのだ。
何が?って、説明できたら苦労していない。自分でも分からないから戸惑っている。もう1歩先に踏み込めないでいる。それが、もどかしい。そもそも1歩踏み出して良いのかどうかも分からないと、尻込みしているというのもあるけれど。


「夜ご飯どうしよう」
「昼飯食ったばっかで考えるのは酷ってもんじゃない?」
「買い物行こうかどうしようか迷ってるの。それによっては化粧するかしないかも決まるし」
「しなくていーじゃん。俺すっぴん好きだし」
「そういう問題じゃない」
「あ、はい。すみませんでした」


食器洗いを終えて彼女が俺の隣に座ってきたものだから、少し距離を詰めて座り直す。「好き」という言葉を囁いたら良い雰囲気になれるんじゃないかという下心があったのだけれど、今回は当てが外れた。
勿論、下心だけで好きだと言ったわけじゃない。本心からの一言である。だから、少しぐらい照れたり嬉しがったりしてくれても良いのにな、なんて。
今まで散々求めてもらっておいてこんなことを思うのはお門違いなのかもしれないけれど、俺はたぶん欲求不満なのだ。自分から求めるのが下手くそだという自覚はあるから、これ以上彼女の方に求めるのは間違っていると思う。しかし、俺は貪欲に求め続けてしまう。
今のままでも十分満ち足りている。幸せだ。それでも俺は、まだ石橋を叩いていた。早く渡ってしまえば良いのに。


「今日は家でゆっくりしませんか」
「良いけど……もしかして疲れてる?寝てても良いよ。私1人で買い物行ってくるし」
「俺は名前チャンと一緒にゆっくりイチャイチャしたいんですぅ」
「はいはい」


また俺をあしらって席を立とうとする彼女の手を掴んで、引っ張る。我ながら、絶妙な力加減で上手に脚の間に座らせることができたと思う。そのまま腰に手を回し項垂れるような格好で耳の辺りに擦り寄ると、ちょっと、と抵抗されて地味に傷付いた。
俺、ちゃんと言ったじゃん。一緒にゆっくりイチャイチャしたいって。なんで逃げんの。なんで嫌がんの。俺のこと好きなくせに。……なんて思いながらも、俺はそれを口にせず離れる。大人だからじゃない。臆病だからだ。
このまま擦り寄り続けて本気で拒絶されたら、わりと本気でヘコむと思う。だからこれは、そうならないための予防策。
俺は器用なタイプだと自負していたのに、名前との付き合いでは匙加減が上手くいかないことが多い。求めすぎるか、求めずに求められるのを待つか。両極端にしか動けないのだ。基本的に、来るもの拒まず去るもの追わず、という精神で生きてきたものだから、イレギュラーな現状に身体も心も追い付かないのだろう。


「ごめんなさい。調子乗りました」
「違うの、ごめん、嫌じゃないよ」
「うん。分かってる」


分かってる。けど、分からない。嫌じゃないなら受け入れてくれれば良かったじゃないか、って。まるで子どもみたいなことを思うけれど、それを表には出さない。
そんな幼稚なことを言って困らせるのは、それこそ本当の子どもだと思うし、本意ではないから。そして何より、これ以上面倒な男だと思われて拒絶されるのは嫌だから。


「ごめん」
「そんな謝ることじゃないでしょ」
「今のだけじゃなくて、今までにも何回かこういうのあったと思うんだけど」
「あー……地味に傷付く感じの拒否?」
「ごめん」
「や。いいよ。いや、よくはないけど」
「怖くて」
「え、何が?まさか俺に触られるのが?」
「さすがに違うよ」
「じゃあ何が怖いの?」


いちいち気にするほどではないかもしれないけれど、ずっと引っかかっていた違和感。それについて彼女の方から切り出してくるとは思わなかったけれど、この機を逃すわけにはいくまいと、俺は質問を重ねる。
俺に背を向けた状態で俯いている彼女の表情は見えない。ただ、冴えない表情をしていることは容易に想像できた。この沈黙は気まずいけれど、俺はじっと静かに彼女の返答を待つことしかできない。


「切り替えられなくなると困るから、ちょっと冷たくあたっちゃってる時があるというか」
「んん?」
「ずっとそういう雰囲気になっちゃったら、戻れなくなりそうなのが怖くて」
「戻るって、何に?」
「黒尾さんがいない状態に?」
「は?」


俺がいない状態に戻る?何言ってんのこの子。そんな状態に戻ることがあると思ってるってこと?……という気持ちを「は?」という1文字に込めた。それはそれは不愉快そうな1音だった。
前科があるだけに、そんなことあるわけない、と言い切れないのが辛いところだ。けれど、あれは気持ちが離れたわけではなくそうしなければならない事情があったから泣く泣くその選択をしたのであって、何の弊害もない現状においては、もう少し信じてもらえているとばかり思っていた。
だからショックだった。けれど、落ち込んでいる場合ではない。どうやったら信じてもらえるのだろう。俺の気持ちは届くのだろう。それを、ただひたすら考える。


「戻んなきゃ良いだけの話じゃん」
「う、わ!」


顔が見えないのが嫌になって、脚の間に座っていた彼女をひょいと持ち上げ、向かい合う形になれるように自分の脚の上に座り直させる。
ドギマギしている彼女を更に混乱させるかのように飽きもせず擦り寄れば、やっぱり少しだけ身を引かれた。けれど、今度は離れてなんかやらない。


「俺は名前のことが好きだし、離れるつもりないから」
「それは、まあ……嬉しいし、分かってるんだけど」
「俺がいない状態になんか戻んなくて良い」
「黒尾さん?」
「戻んないで」


ヨリを戻す時もそうだったけれど、自分よりもずっと華奢で小さな彼女に寄りかかる俺は、つくづく情けない男だと思う。どれだけ余裕ぶっていても、大人なフリをしていても、最終的にはみっともなく甘えて縋り付いてしまう。
そこまでしなくて良いや、と切り捨てられるなら良かった。けれど、名前だけはどうしても手放したくないから、こうするしかないのだ。別れを告げた時も突き放しきれなかった。どうにかして繋ぎ止めておこうと必死だった。それも全ては、名前が特別な女だから。
「好き」という気持ちが大きければ大きいほど、俺は不自由になる。混乱して、不器用になって、臆病になる。そんな自分が情けないとは思うけれど、不思議と嫌いにはなれない。


「ね、黒尾さん」
「ん?」
「私もゆっくりイチャイチャしたい」
「ほんとに?」
「ほんとに。実はいつもそう思ってる」
「そんな感じ全然ないけど」
「頑張ってメリハリつけてるから」
「変なところで頑張らないでくださーい」
「そんなこと言われたら、ずっと甘えちゃうよ?」


それはさすがにウザいでしょ?と小首を傾げて尋ねてくる彼女のことをウザいと思える要素があるなら教えてほしい。ウザくないし。むしろ大歓迎だし。
俺が擦り寄っても、名前は嫌がることなく同じように擦り寄ってくる。腰を引き寄せて密着度を高めても、照れて笑うだけ。それにとんでもなく安心して、ああ、俺はこの子を求めていて良いんだ、なんて思う。
彼女の温度を確かめるように抱き締めて、思う。もう絶対離れなくて良いように、離さなくてすむように、ずっと一緒だって証明できるように、ちゃんとプロポーズしよう、って。
11月初旬の昼下がり。俺はこの世で最も愛しい彼女に微笑んで口付けを落とし、1歩を踏み出す決意を固めたのだった。

prev - TOP - next