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シンデレラはあなたの方よ


とてもシンプルで、ちょっとカッコ悪くて、夢みたいに幸せなプロポーズの後。私達は嘘みたいにいつも通りの、何の変哲もない毎日を送っていた。
婚姻届はいつ書くか、お互いの両親への挨拶はどうするか、などの現実的で重要な話は一切ないまま。だから勿論、結婚式はどうするか、なんて話題も持ち上がっていない。ついでに言うと、私達はお互いの両親のことも知らないままだった。
そんな中、あっと言う間に迎えた年末年始。私は暦通りの休みだったので、彼のお店の休みに合わせて一緒に過ごした。年越し蕎麦を食べたり、初詣に行っておみくじを引いたり、コタツで足をぶつけ合いながらみかんを食べたり、ただゴロゴロするだけのぐーたらした時間を過ごしたり。
本当にプロポーズされたんだっけ?と首を傾げたくなるほどその手の話題が出ないものだから、あれは夢だったのかも、とすら思っていた。しかしそんなことを思うたびに、左手の薬指がキラリと光るのだ。まるで、夢じゃないよ、とでも言うかのように。


「何これ」
「いらないなら返して」
「絶対返しませんけど」


去年の今頃は渡せなくて悶々としていたそれを、今年は至極あっさりとカウンター越しに手渡した。なんてったって私は彼の彼女なのだ。渡すのを躊躇う必要はない。
プロポーズから早1ヶ月以上経過してしまった2月中旬。バレンタインデーというイベントは例年通り、街も人も浮き足立たせている。彼と出会うまでは私にとって無関係だったイベントだけれど、恐らくこれからは毎年、多くの人と同じように浮かれてしまうのだろう。
去年と違って、今年は手作りにした。と言っても、手の込んだケーキやマフィンなんてものは作れないから、料理上手な小学生でも作れるかもしれないレベルのオーソドックスなトリュフだけれど、ラッピングをすればそれなりの見栄えになるものだ。


「美味しいかは分かんないよ」
「え、もしかして手作り?」
「そういうのダメなタイプだった?」
「や。全然。ただ普通にびっくりして」
「そんなに?」
「だってそんな感じなかったじゃん」
「一応……彼女、だし」


自分から彼女宣言をするというのは結構恥ずかしい。彼の隣で胸を張って「彼女です」と言える日は永遠に来ないような気がする。
こちらの感情を読み取るのが至極上手な彼にしては珍しく、今回は私の胸中を察してくれていないのか、彼はあからさまに眉を顰めていた。もしかしたら堂々と彼女宣言する女は好みじゃなくて不愉快な気分にさせてしまったのかもしれない。


「ごめん、調子乗った」
「調子には乗ってないでしょ。つーか、もっと調子乗ってくんないと困るんだけど」
「へ?」
「今は彼女じゃなくてフィアンセですよ、名前サン」
「あー……うん、そう……なの、かな」
「そうなのかな、って。絶対にそうでしょ」
「だって、あれからそういう話全然してないし、今までと何かが変わったってわけじゃないし」


フィアンセという響きは自分には似合わないような気がして、彼女宣言よりも無理だと思った。フィアンセ=婚約者。それは分かる。けれど、私達は本当に婚約しているのだろうか。確かにプロポーズはされたけれど、そのあたり、どうも自信がない。
彼は私の発言に目をパチパチさせて、それから何かを考えるように視線を宙に彷徨わせた。どうやら今後について何も考えていないというわけではないらしい。


「そのことなんですけど」
「はい」
「今晩お時間ありますか」
「明日仕事なのでないですね」
「ですよね」
「何かあるんですか」


返事はなくて、カウンターの向こうの彼は私以外の別のお客さんに呼ばれて行ってしまった。非常に中途半端である。
それからも彼はお客さんの対応に追われていて、なかなか私の方にやって来なかった。何か話したそうな雰囲気はあったけれど、今日はもう帰ろうかな。そう思っていたところへ、彼はタイミングよく現れる。


「やっぱちょっとだけ時間ほしい」
「急ぐの?」
「いや、急ぐ必要はない…かもしんないけど」


どうも煮え切らない彼に、自分の表情がどんどん歪んでいくのが分かった。
勿体ぶらなければならない話なのか。急がなくて良いならどうして時間がほしいと言ったのか。私にはそれら全ての答えが分からない。


「俺んち来てよ。寝てても良いから」
「寝てて良いの?」
「まあ、うん。寝れるなら」


またもや中途半端な返答ではあったけれど、彼には彼の考えがあるのだろう。今日はバレンタインデー。イライラするのはやめて、心穏やかに彼との時間を過ごしたい。
私は、分かった、と返事をしてからお会計を済ませると店を出た。お店から彼の家まで行くことにも慣れたものだ。
合鍵を使って彼の家にお邪魔し、リビングへ続く短い廊下の電気を点ける。その後はいつもリビングのソファの上に鞄を置いて、勝手にハンガーを借りてコートをぶら下げ、お風呂場に直行…という流れなのだけれど。今日はそのいつも通りの動きができなかった。
リビングのテーブルの上に何かが置いてあることに気付き、何の気無しに視線を向けた私は固まる。そこに置いてあったのは、ぺらりとした薄っぺらい紙切れ1枚。しかしその紙切れに、想いを寄せ合う男女は夢を見るのだ。
そこに置いてあった紙切れとは、婚姻届。しかも「夫になる人」の欄に彼の情報が記載済みの、だ。
なんで急にこういうことするかなあ。今までプロポーズされたことを実感できないような日々を送ってきたのに、このままずるずると、もしかしたら先には進めないんじゃないかとさえ思わせておいて、何の期待もしなくなってきた頃にこの展開。まったく、嫌になる。
お店での会話からして、今夜そういう話をされるのかもしれないとは思っていたけれど、まさかこんな状況が用意されているなんて思わないじゃないか。だから彼は「寝れるなら」寝てても良いよ、と言ったのだろう。こんなの、寝ずに待っておけと言っているようなものだ。
暫く紙切れに羅列してある綺麗とも汚いとも言い難い、けれども彼らしい字を眺める。隣の「妻になる人」の欄は当然のように空白。
ここに私の名前を書いておけば、彼は喜ぶのだろうか。「ああ、書いてくれた?」って、当然のこととして捉えられるのだろうか。なんだかどっちも、ちょっと釈然としない。
私は空欄を埋めぬまま、勝手に浴槽にお湯をため、シャワーを浴び、ゆっくりと湯船に浸かった。彼の家に当たり前のように置いてあるパジャマに袖を通し、これもまた当たり前のように並べられているスキンケア用品でいつも通りのスキンケアをする。
冷蔵庫の中にある色んな種類のお酒には手を出さず、温かいココアを用意して時間をかけて飲み干し、携帯の目覚ましをセットして布団の中へ。私は明日も仕事なのだ。寝坊するわけにはいかない。
それでもやっぱり寝ることができないのは、あの空欄を埋めていないのが気になるからなのだろうか。布団に潜り込んだというのにうとうとすることすらできない。そんな状態で時間は瞬く間に経過してしまったようで、玄関の扉が開く音が聞こえた。どうやら彼が帰ってきたらしい。
静かに寝室の扉が開く気配がして、もぞりと身体を動かす。ベッドの片側が沈んで彼が腰掛けてきたのを悟ったけれど、私は何の反応も示さない。示してやらない。


「ただいま」
「……おかえり」
「寝てた?」
「うん」
「ほんとに?」
「……うそ。寝てない」
「良かった」
「よくないよ」
「そーね。明日仕事だもんね」
「そういう意味じゃなくて」


むっとして布団から顔を覗かせれば、暗い部屋で薄く笑う彼が私の髪を撫でた。そうすれば私の機嫌が良くなることを知っているからだ。


「あれ、書いてくんないの」
「書いてほしいの?」
「そりゃあね。プロポーズしたぐらいですから」
「なんであんな、離婚届突きつけて家を出た夫みたいなやり方するの」
「その発想はなかったんだけど」
「もっとこう、2人でわくわくしながら書くもんじゃないの。ああいうのは」
「じゃああれは捨てて、また新しいやつ2人でわくわくしながら書く?」
「新しいやつ?」
「あと4枚あるよ」
「なんでそんなにあるの」
「何回間違えても書き直せるように?」
「そんなに間違えないでしょ……」


むくりとベッドから身を起こして苦笑する。なんだか彼の大真面目な顔でおかしなことを言っている姿を見たら、色々ごちゃごちゃ考えているのが馬鹿らしくなってきた。
手を引かれてリビングに行き、テーブルのところまで誘導され、ペンを渡される。そこまできたら、私がやることはひとつだ。
空白をひとつひとつ埋めていく。彼はそれを隣からじーっと見つめていて、その視線のせいで変なプレッシャーを感じる。


「本籍地とか分かんないんだけど」
「やっぱり?俺も分かんなかったんだよねー。明日役所行く?」
「仕事なんだけど」
「記念日休暇もらえば?」
「何の記念日?」
「結婚記念日(仮)」
「(仮)って何なの」
「じゃあ普通に結婚記念日で」
「……結婚、するの?」
「え。しないの?」
「するけど」
「びっくりさせないで。マジで。心臓止まるかと思った」
「それはこっちのセリフだよ」


彼はわりと常識がある方だと思う。だから普段なら、翌日の仕事を急に休めだなんて滅茶苦茶なことは言わないはずだ。それなのに、今回はどうしたのだろう。何か明日じゃないといけない理由でもあるのかな。それならそうと、もっと早くから準備しておけば良かったのではないかと思うのだけれど、今それを咎めたところでどうしようもない。
うちの会社、記念日休暇なんて申請できるシステムあったっけ。ていうか明日の朝電話して記念日休暇くださいって、絶対受け入れられないじゃん。仮病使っちゃおうかな。なんだかんだで休む方向で考えてしまっている私は、結局のところ、この空白を埋めたくて仕方がないのだ。


「なんで明日にこだわるの?」
「一応記念日じゃん?」
「何の」
「俺らが付き合い始めた?」
「え」
「え」
「そういうの気にするんだ……」
「よくない?そういうの」
「いや分かんないけど。考えてたならもっと早く準備しとこうよ」
「すぐ書けると思ってたんだって。サプライズで置いといてもさらさら〜っと書けるかなって」
「書けなかったね」
「いや書けるよ。休めば。証人欄も適当に」
「適当に?」
「マスターとかにお願いすれば」
「ほんと適当」
「出すことに意味があるんで」


変なところでちょっと女々しい思考の持ち主である未来の旦那様は、わりと強引だ。でもまあ、うん、付き合い始めた記念日に入籍。良いんじゃないの。そういうの。よく分かんないけど。

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