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ジンライムをもう一度


会議室での会話は、私が彼の言葉を遮ったことによって思っていた以上にあっさりと終わりを遂げた。彼は言いかけたことの続きを口にすることなく、ごめん、とだけ小さく呟いて私を会議室から出してくれて、それからは特に何事もない。そう、仕事関連の話以外は全く何の話もしなくなったのだ。それまでのようにちょっとした2人きりの時間が訪れても、タメ口で話しかけてくることはなくなった。
そういう約束だった。これが本来のあるべき姿。そして私が望んでいた距離感。それなのに、彼が彼女と何かを話している光景を見るだけでそれまで以上に胸がキリキリと痛んだ。自分勝手な女である。けれどもこれにもすぐに慣れる。時間が解決してくれる。私はそう信じて仕事に打ち込んだ。
その成果だろうか、仕事は面白いほど順調に進んでいた。恐らくもう少しで彼の勤める会社との案件は落ち着き、打ち合わせやミーティングを行う必要はなくなる。仕事という名目で彼に会うこともなくなるのだ。それが嬉しいような寂しいような…なんて思っている私は、いつまでも優柔不断で彼のことを断ち切れないダメな女である。会わない方がいい。会うべきではない。何度も自分にそう言い聞かせているくせに。
そうして私の予想通り、彼の勤める会社との最後のミーティングの日が決定した。8月の初旬。暑さが鬱陶しくてたまらない季節だ。


「それでは、宜しくお願い致します」
「こちらこそ」


最後のミーティングも滞りなく終了。まあ最終確認だけの予定だったから、躓く内容もない。私はいつも通り、資料やコーヒーの入っていたコップを回収し、机の上の掃除を始める。


「あのさ、」
「…何でしょうか」
「今日の夜、暇?」


あまりにも久し振りに親近感たっぷりに声をかけられたものだから、反応が遅れてしまった。自分に話しかけられているのかどうか分からなくて。
ちらりと確認すれば私の上司と彼の上司達は会議室を出たところで立ち話をしており、この空間には私と彼の2人きりになっている。このやり取りを聞かれる心配はなさそうだ。とは言え、いつ誰がどんなタイミングで入ってくるかも分からないというのに、この男ときたら何の前触れもなく堂々とタメ口で話しかけてきたりして、少し軽率すぎやしないだろうか。
彼とまともに交わした最後のやり取りは、例の会議室での内容。そしてあれから一切プライベートな話はしていないというのに、ここにきてお誘いとも取れる声のかけ方をしてくる彼の神経はどうなっているのだろう。
暇だったら何だというのだ。あなたには将来を約束しているであろう綺麗な彼女がいるでしょう?暇なら彼女の相手をしてあげたらいいじゃない。そんな、直接言えやしないドス黒い感情を胸の内で吐き出す。そして私は、彼に背を向けたまま答えた。暇じゃありません、と。


「じゃあいつなら時間ある?」
「荒手のナンパみたいなこと言わないでください。そろそろお帰りの時間じゃないんですか」
「名前ちゃん」


その呼び方はどう考えたってダメだろう。私はまた心の中で叫んだ。いくら2人きりだからって、名前を呼ぶのは反則に決まっている。彼はルールを破ってばかりだ。ずるい。ひどい。そう思うなら無視して会議室を出て行けばいいのに、動けない…否、動かない私は、何を期待しているのだろうか。
こんなことになっても、突き放しても尚、まだ期待している。彼に。私達の関係に。未練がましいなんてもんじゃない。こんな執念深い女、私が男なら願い下げだ。


「話したいことがある」
「今更…何言って、」
「最後にする」
「っ、」
「これで最後にするから」


机に手をつき、私を逃がさないように囲う彼との距離感にどぎまぎしてしまう。振り回されたくないと思っていても、これではどうしようもない。気付いたら私は、分かったから、と返事をしてしまっていた。完全に気圧されたのだ。
でも、これで最後。彼とは今後、トラブルがない限り仕事で会うことはなくなるし、勿論プライベートで会うこともない。だからこの1回を終わらせてしまえば、私は苦しまなくて済む。古傷を抉る必要もなくなる。それならば、最後に彼に振り回されてやってもいいじゃないか。開き直りと言えばそれまでだけれど、私は前向きに考えることにした。


「明後日の、夜なら…」
「ん、分かった。あのバーに8時ぐらい…でもいい?」
「…はい」


こうしてまた私に強引な手段で約束を取り付けた彼は、何事もなかったかのように私から離れて会議室を出て行った。
触れられたわけでもないのに、ただぐっと距離が近付いただけで息苦しくなった。彼の息遣いがぎりぎり感じられる程度の近さで、鼓膜を震わす声が少しだけ低く聞こえる絶妙なボリュームで、私を翻弄する。
本当に嫌になった。彼の狡猾さが。計画的すぎる言動の数々が。そして、いいように振り回されているのに拒絶できない、嫌とも思えない自分が。


◇ ◇ ◇



彼と約束した日はあっと言う間に訪れた。時刻は夜の7時半。約束の8時にはまだ早すぎるけれど、1人で心を落ち着けるにはちょうどいい時間かもしれない。このバーに来る回数も随分と減ってしまったから、来るたびに懐かしい気持ちと切ない気持ちが渦を巻く。
カラン。乾いた音を立てて鐘が鳴り、それに誘われるまま中に入る。そして何の気なしにカウンターの方に目を向けた私は息を飲んだ。


「いらっしゃいませ」
「…どう、して、」
「予定より早いじゃん」
「そんなことより、なんで黒尾さんが…、」
「ちゃんと話すから…その前に、何をお作りしましょうか?」


カウンターの向こうにいたのは彼。そう、きちんとバーテンダーの服を身に纏った彼がいたのだ。そりゃあ動揺してしまうのも無理はないだろう。一体何がどうしてこんなことになっているのか。きちんと説明してもらわなければ意味が分からない。彼は平然と私の注文を待っているけれど、何が飲みたいかなんて考えている場合ではなかった。
口から吐き出せる言葉は「どうして」という、その4文字だけ。見間違い、幻覚、ドッペルゲンガー。それらの可能性を捨てきれなくて穴が開いてしまうんじゃないかというほど彼(であろう人)を見つめ続ける。
私の注文を待つ間、彼は手元のグラスを優雅に拭いていて、ちっとも動揺していない。それにもやっぱり「どうして」という言葉しか出てこなかった。私の頭からは完全に語彙力が消失してしまっている。私は胸の中で何度も唱えていた。どうしてここに?と。
彼は手元のグラスからいつまで経っても注文しない私に視線を移し、困ったように笑う。


「勝手に作ってもいい?」
「…う、ん、」


私の返答に彼は恭しく、そして非常にわざとらしく、かしこまりました、と言ってから手を動かし始めた。グラスに大きくカットされた綺麗な氷を入れ、2種類の液体を注ぐ。軽く混ぜてカットライムを添えたら、どうやら完成らしい。


「ジンライムでございます」
「あの、黒尾さん、」
「なんでここにいんのかって?」


ありがとうございます、という社交辞令的なお礼を言うことも忘れて、私はずっと気になって仕方がない答えを求めて彼に例の呪文を唱えようと思った。「どうしてここに」。けれどもその呪文は唱える必要がなかったらしい。彼はいつだって、私の考えを見透かしてしまう能力を持っているから。


「…だって、このお店を辞めて、あの会社に就職して、社長の娘さんと…」
「全部、終わらせてきた」
「え、」


終わらせてきた。清々しい表情で衝撃的なことを言ってのけた彼は、やっぱり状況が理解できていないままの私をよそにもうひとつグラスを用意して、恐らく私に提供したのと同じであろうお酒をちゃっちゃと用意する。


「時間はたっぷりあるから、先に乾杯しとく?」
「……うん」


カウンターを挟んでグラスを掲げる。まだ何も話をきいていないというのに、改めてカウンター越しの彼の姿を見たら色んな感情が込み上げてきて、私の視界は滲み始めていた。
乾杯、って。そんなことカッコつけながら言ってる場合じゃないよ。グラスを持ったまま固まっている私の方にすっと手を伸ばしてきた彼は、グラスに添えられたライムを軽く絞ってくれた。


「これ、ちょーだいね」
「…どうぞ」


私のグラスの中に絞った後のライムをもう一度自分のグラスの中に絞って、はんぶんこ、なんて言う彼が憎たらしかった。憎たらしくて、腹が立って、この上なく愛おしくなった。

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