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未知の世界は怖いかい?


高校を卒業して、あっと言う間に4年が経過した。それなりの大学に進学し、それなりの会社に就職。それなりに充実したそれなりの毎日を送っている私にとって「それなり」じゃないのは彼氏の存在だけである。
高校時代からお付き合いしている一也君とは、今もその関係が続いていた。今や一也君はプロ野球選手として第一線で活躍する有名人。スーパースターの仲間入りを果たしたというのに、私を捨てない…否、捨ててくれないのだ。
この4年で、彼の周りの世界は目まぐるしい変化を遂げたに違いない。そのルックスも相俟ってすぐに人気が急上昇した彼は事あるごとにメディアに取り上げられていたから、それこそ綺麗な女子アナだったり、タレントさんだったりときらびやかな女性達に囲まれることが増えたのは間違いない。彼だって男だ。一般人の私なんかとは比べものにならないほど整った容姿を持ち合わせた女性を前にしたら、目移りしてしまうのは仕方がないことだと思っていた。
別れよう、と。いつかそう言われる日がくるはずだと思って身構え続けているにもかかわらず、彼はいまだに私に別れを切り出してくれない。そこまでして私にこだわる理由はあるのだろうか。幼少期の約束も、高校卒業時の約束も覚えていないわけじゃない。約束を守り続けてくれて嬉しいとも思っている。けれどもそれはあくまでも口約束だ。そこには何の拘束力もない。
高校時代、大切な記憶を失った私は、いまだにあの頃のことを思い出せずに大人の階段を上っている。彼はもう、あの頃の話をしない。別にあの頃の記憶がなくたって何も変わらないから、と。けれども私は彼と一緒にいると、どうしても気になってしまうのだ。何があって、どんな言葉を交わして、どのように1歩を踏み出したのか。私達の本当の始まりを知りたくて、思い出したくて、けれどもそれは叶わなくて。それが辛いから、私は彼に別れを告げてほしいのかもしれなかった。


「名字さん、さっき頼んだ仕事どう?できそう?」
「あ、はい!もう終わります。確認お願いします」
「はいはい早めにお願いね」


仕事中にもかかわらずぼんやりしていた私は、慌ててパソコンのディスプレイに向き直ってキーボードを叩き始めた。入社して1ヶ月と少し。5月の大型連休明けの社内はバタついていて、心なしか先輩達もセカセカしている印象だ。新人だからといって、うかうかしていられない。
私は元々要領が良い方ではないし、仕事が早いってタイプでもない。だから、ただの事務作業でもかなり必死にならなければその日のノルマをこなせないのだ。今日も少し残業コースになっちゃうかな。手元に残る資料にちらりと視線を落とした私は、周りの人に気付かれぬよう小さく溜息を吐いた。


◇ ◇ ◇



予想通り、私はきっちり1時間の残業をこなしてから退社することに成功した。1時間ならまだいい方だ。先輩達の数人はまだ会社に残っているから、ゆくゆくは私もあんな風になるのかもしれない。今時、定時ぴったりに帰れるようなホワイト企業は少ないはずだから、仕方がないことだと思って諦めるしかないのだろう。それでも、このままなんとなく仕事だけの人生を歩むのは虚しいなあと思う。
重たい身体を引き摺って独り暮らしの寂しい我が家に到着。真っ暗な部屋の電気をぱちりとつければ、これもまたそれなりに片付いたそれなりの広さの空間が広がっていて、つくづく面白味のない人生だと鼻で笑いたい気分になってしまった。
特に見たいものはないけれど、癖でなんとなくテレビをつける。すると、ちょうど一也君のチームの試合が中継されていた。相変わらず注目の的の彼は盗塁阻止率ナンバーワンとの呼び声が高く、解説の人も、今日こそは御幸一也から塁を盗むことができるでしょうか、などと声高らかに煽っている。
見れば見るほど遠い世界の人間のように思えた。高校時代の同級生でした、ぐらいの関係がちょうどいい。現在進行形で恋人なんです、なんて、口が裂けても言えやしなかった。というか、言ったところで信じてもらえないだろう。なんであなたみたいな人が御幸一也と付き合えるの?そう尋ねられるのがオチだ。
パチリ。テレビを消した。見ていたらどんどん気分が落ち込んでしまいそうだったから。がさりと広げたコンビニ袋には、それなりに美味しいカップラーメンが入っている。お湯を注いで3分待つ。いただきます。1人、手を合わせてラーメンを食べてから、お風呂に入って、ちょっとだけSNSのチェックをして、就寝。美容に気を遣って顔の手入れを入念にしているわけでもなければ、髪をさらさらにしようと手入れをしているわけでもない。こんな女が、このまま彼の彼女でいてもいいのだろうか。
大学時代も考えていたことではあるけれど、社会人になってから益々その不安が強く大きく育っていった。もう彼の言葉を待つのはやめて、私の方から切り出してしまおうか。私如きが彼をフるなんて烏滸がましいとは思うけれど、それがお互いにとって最善の策のような気がする。そんな思いを固めた翌週、まさか彼が何の連絡もなく押し掛けてこようとは夢にも思っていなかった私は、自分の部屋でそわそわしていた。
試合のためあちこちに遠征しなければならないので、彼がシーズン中に私の元を訪れることは滅多にない。あったとしても、今日行っていい?という連絡は必ずしてくれていた。というのに、今回は一体どうしたのだろうか。何の前触れもなく来られたものだから家の中はいつもより片付いていないし、冷蔵庫の中にもろくなものがない。長く付き合ってはいるけれど、こんなだらしない状態を見られるのはもしかしたら初めてのことかもしれなかった。


「急に来るから…ごめん、汚いし何もないし…」
「別に。そんなの気にしねぇもん」
「私が気にするよ」
「なんで?」
「なんでって……そりゃあ…」
「俺にだらしないところ見られたくないから?」
「当たり前でしょ」
「…他人行儀、なんだな」


せっせと机の上を片付ける私の背中に向かって落とされた一言からは、やけに哀愁を感じた。他人行儀。そう言われても、私と彼は他人同士なのだから当然だ。でも分かっている。彼が言いたいのはそういうことじゃないって。
きりきりと胸が痛む。彼はいつもこうして、私との距離を埋めようとしてくれる。私がそっと離れて行こうとしたら、そっちじゃねぇぞ、と手を掴んで引き戻してくれる。そういうところが好きで、大好きで、甘えてしまっていた。今日突然彼がここに来た理由だって、きっと私が仕事を始めて疲れが溜まっている頃だと分かってのことなのだろう。彼の方がずっと大変で忙しくて、余裕がなくてもおかしくないのに。


「一也君」
「……なに」
「私、ね、一也君に言わなくちゃいけないことがあって、」
「奇遇だな。俺も言いたいことがあってここに来た」
「そうなの?」
「俺から言っていい?」


尋ねてきているくせに、彼は順番を譲る気はないようだった。まあ断る必要もないので、私は首を縦に振る。その反応を見た彼は、ゆっくりと私に近付いて、そして。


「迎えに来た」
「え?」
「約束したろ」
「……そんな、だってあれは、」
「絶対に迎えに行くって、指切りまでした」
「そうだけど」
「今度は逃がさねぇから」


私を抱き寄せる彼の腕の力は強くて、確かに逃げることはできなさそうだった。いや、でも今はそういう物理的な問題の話をしているのではなくて。
迎えに来た。その言葉の意味を、私は勝手に解釈してしまって良いのだろうか。ぼろぼろ。嬉しいからなのか不安で押し潰されそうだからなのか、はたまたそのどちらの理由も含んでいるのか。彼の綺麗なシャツを濡らしてしまう私は、とんでもなくみっともない女だった。