▽勿忘草を胸に抱いて
実は、誰にも話していない秘密がある。
いやまあ、人には一つや二つの秘密や知られたくない事があって当たり前なのだけれど。

……一年に一度の、ハッピーバースデイ。
誰も彼もが一度は経験する、出生の記念日。生まれた事に、生まれ落ちてくれた事に、感謝と祝福が与えられる日。
私はそんな誕生日の夜に、……三年前からずっと悪夢を見続けている。戒めの夢だ。親や友人を見捨てて「此方」へ居座る事を選んだ私へ、誰でもない私が見せる、戒めの悪夢。幸せな日々が送れているのは、私があちらを見捨てた結果なのだと。それを忘れるなと、それを決断した誕生日に、悪夢を見せるのだ。

「ねえ、そうでしょう?私」
「……」

此処が夢である自覚はあった。何もない、ただただ白が広がる空間に私と「私」が対峙している。
瞳の色が黒い「私」と、瞳の色が青い私。過去の私と、現在の私。毎年見る悪夢は、「私」との対峙から始まる。
けれど、今年の「私」は何も喋らない。喋らないどころか口も開かない。何時もなら真っ先に飛んでくるのは聞き飽きた自分の声での私に対する嫌味なのに。まあ、それさえも私の自分を戒める自意識が働いている結果なのだろうけど。
数分間の睨み合いの末、「私」が譲った。何を?道をだ。真っ白いペンキを巻き散らして綺麗に塗りたくったような境目なんてないこの夢の空間に道なんてないのだけれど、黒い瞳の「私」が、くいっと顎を上げる。行け、と言いたげなその仕草に首を傾げながらも白を蹴った。顎で指された正しく道なき道を走り続ける。

走って、走って、走って。
段々と酸素不足を訴え始めてくらくらとしてきた程合いで、真っ直ぐに走り続けてきた何もない世界がまばゆい光明に包まれた。咄嗟に目元を庇った腕を降ろせば、そこは別世界で。
これ以上ない位の青空と、穏やかな自然の匂いをめいっぱいに含んだ風と、足元で揺れる草花は小さく水色の花弁を付けている。その花が勿忘草なのを夏樹は知る由も無いが、その勿忘草の花畑の向こうの人影に夏樹は目を丸くした。

分かってる。これは夢。私が見せる、私の為の都合の良い夢。
戒めの夢も、都合の良い夢も、結局は一抹の夢でしかなくて、現実ではない。そんな事は、自分が一番分かってる。
でも、それでも、今だけは――

「――母さん!父さん!!」
「――夏樹」

この世界で夏樹しか知らない人。夏樹を生み育て、慈しんでくれたたった二人の両親。
――夏樹が向こうに捨て置いた人。もう二度と、会えない筈の人。

「お母さん、お父さん……!」
「夏樹」
「ごめんなさい……!」
「夏樹、夏樹。どうして謝るの、どうして泣いているの?」

両手を広げて両親に抱き着いた夏樹の両眼からは涙が零れ落ち、謝罪の言葉がぽろぽろと零れる。緩く結んだ尻尾を揺らして困ったように目尻を下げる母にだって、と涙で濡れた瞳を向ける夏樹。
大した親孝行も出来ず、心配ばかりかけた果てに、両親が居る向こうよりも此方を選んだこと。それが何よりも夏樹が抱える罪の意識を助長させること。戒めの呪縛の根幹にあるもの。考えて決めたんじゃあないの?という母にすごく悩んだ、いっぱいいっぱい悩んだ!と嗚咽交じりに言う夏樹は、でも、と呟く。

「……好きに、なっちゃったんだ」
「ええ」
「傍に居たいって、欲が出ちゃったんだ」
「ああ」
「私、誰かが笑顔を浮かべてくれるのが嬉しかった。私が頑張った分、誰かが笑顔で幸せになってくれるならそれで良かった、私も幸せだった!でも、でも、あの人だけは、違ったんだ、」

私と彼で、笑顔を、幸せを半分こしたかった。共有して、傍で、笑っていたかった。
自分が頑張った結果の幸福ではなく、傍に居るだけで与えられる幸福を願ってしまった。
夏樹にとって、初めての感情だった。初恋と呼んで然るべきそれを、あろうことか別の世界に生きる人にしてしまった。初恋は実らないなんて言うけれど、実って欲しくて、でも私は別の世界の人間で。悩んで、悩んで、苦しんで。自分の想いを無下にしてしまおうと思った事さえあった。

「いいのよ、夏樹。他人の為に生きなくて、いいの」
「お前は自分の為に少しは人生を使った方がいい。お前の人生は、お前だけのものだろ」
「自分の人生を幸福に生きてくれれば、私達はそれでいいのよ」

夏樹が聡い子であったのは知っていた。他人を気遣える、優しい子でもあった事も。
だからこそ、他人の喜びで自分の喜びを得るようになった夏樹が、心配でもあった。高い奉仕精神と言えば聞こえはいいが、返せばそれは自分自身の喜びを自分で見いだせなくなり始めているという事でもある。よく出来た子だった娘を抱えた両親の気がかりは、それであったのだ。

「幸せになりなさい、夏樹。娘が幸せであるなら、私達も幸せなのよ」
「ちゃんと甘えて、弱みを見せて、背中を預けなさい。お前はあちらでは孤独かもしれないが、それでもお前を守ってくれる男は居るんだから」
「気張り過ぎない事。抱え込み過ぎない事。辛いときは辛いと口に出しなさい」
「あとはお前が笑って、……俺達の事を忘れなければそれでいいよ」

ひしと娘を抱きしめた母が、妻と子ごとぎゅうと抱き寄せた父が、身を離す。
時間だと言わんばかりに、真っ白だった世界が遠のいていく。夢の終わりが近づいている。

「忘れない!忘れないから!!親不孝な娘でごめん、一緒に居る道を選べなくてごめんなさい!!でも、でも、私――!」


***


「――あ、」

遠くから小鳥の声が聞こえる。カーテンの隙間から差し込んでくる光が眩しい。のそりと起き上がった夏樹はキャミソールとズボンだけという最低限のものしか身に纏っていない己の姿で、現実に戻って来たのだと実感する。すんと鼻を啜って、ごしごしと目元を擦って淵に溜まった涙を飛ばした。

「夏樹?」
「かい、さん」

いてて、と腰を擦りながらフローリングに足を付けた夏樹は廊下の先の洗面台から現れたであろう恋人の名前を呼ぶ。時刻は短針が6を、長針が3を指した時間である。あとはリュックを背負って簡易的な変装道具を身に纏えば何時もの仕事スタイルになる海に今日は地方でしたっけ?と首を傾げる。

「いんや。ロケだけど行くのは江の島」
「じゃあ泊まりではないんですね。やった」
「誕生日パーティーまでには間に合わせるよ。っていうか夏樹、目元赤いけど」

もしかして、と苦い顔をする海に昨夜のせいじゃないですよ、と苦笑いしてちょっと夢で、と誤魔化す。ここで必要以上に踏み込んでこない海の気遣いが、酷く身に染みた。

「……あんまり抱え込みすぎるなよ。夢とかそういうんじゃ、流石に守ってやれないけど。話聞くくらいは出来るだろ?」
「一番欲しい時に欲しい言葉をくれるんですね、海さんは」
「そうか?」
「はい。すごく、嬉しいです。めいっぱい、頼りにします」

めいっぱい頼りにされました!とにっかり笑った海は部屋の壁掛けの時計を見てそろそろ行かないと、と足元に置いたリュックを背負う。気をつけて、とよれた上着の襟元を正した夏樹の前髪を掻き分けてちゅ、と額に唇一つ落とした彼は目をまん丸くする彼女に満足そうに笑うと、行ってきます!と玄関へと早歩きで向かっていく。行ってらっしゃい、と見送った夏樹は熟れた頬を掻きつつ、踵を返して夜用カーテンと減光カーテンを勢いよく開く。ベランダに出れば、風の匂いは違えど見覚えのある青空が広がっていて、ぐいーっと伸びをした夏樹はその空と同じ色の瞳を閉じて朝日を浴びる。ぱちりと開いた瞳は、一瞬だけ向こうに想いを馳せて。

「母さん、父さん。私、世界一幸せだよ」

貴方たちの娘として生まれて。
あの人と結ばれて、共に生活をして。
私はきっと、これ以上ない位の果報者だ。

だから忘れない。世界一の幸福をくれた貴方たちを、忘れるなんてことは絶対にないよ。

***
2020.02.28
Nathuki Usami Happy birthday!

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