▽紫苑の泉に身を浸す
「もうこの部屋も後2か月と少しで見納めになるんだな」

ベッドのスプリングを軋ませてそう呟いた彼に、この部屋の女主人は苦笑した。この身一つで放り込まれた身分ですから向こうに移っても大してレイアウトは変わりませんよ、と。
向こう、というのは社員寮。この部屋の主人――夏樹は、3月31日付けで渋谷寮の管理人を降りる。そして正式な庶務として社員寮に引っ越す事が決まっているのだ。だから、同じ釜の飯を食えるのも、こうして毎日顔を合わせられるのも、……部屋を訪れて同じ寝床に転がるのも、あと二か月と少し。
想像がつかないな、と男――始は思う。彼女が突然来訪してから早3年が経とうとしている。それなりの時間を共に過ごし、そのうち1年と少しは恋人として共に歩んできた。会いたいときは二階、寮の階段を上がれば会えた彼女が、今年の春からは、いない。
夏樹が自分で考えて自分で決めた事だ。始はそれには反対しないし、何か言うつもりもない。けれど矢張り去来する寂しさは確かな物で、でもだからと言って口に出す事もせず。それを口にするのは、何となく気が引けた。格好つけたいと言われればそれまでなのかもしれないが、出来る限り弱った所を見せたくない、頼られる自分で居たいと思うのはきっと、自分だけじゃない筈だ。

「夏樹。髪、伸びたな」
「こまめに切って整えてを繰り返してるんで劇的には伸びてないですけどね。でもまあ、括るのは楽になったかな」
「どれくらい伸ばすつもりなんだ?」
「……ええと。頭のこの辺で、お団子とかシニヨンに出来る位には、と」

一瞬の躊躇いがあったのに始は首を捻る。夏樹が指を指したのは後頭部の上の辺りだ。贔屓目もあると思うが、昔のショートカットも、今の動くたびに尾が揺れるその髪型も良く似合っているからして夏樹が言うその髪型も似合うと思うが躊躇う理由が良く分からない。と、そこで始の瞳が部屋のデスクに置きっぱなしの雑誌を捉える。陽に散々仕込まれてファッション誌もそれなりに多い夏樹の部屋だったが、今まで着物の雑誌が置いてあったことはない。成人式前の娘であれば否応なしに住所に成人式用の着物のパンフレットが届くため興味があろうと無かろうと置いてあるかもしれないが、生憎夏樹はとっくに成人済である。……ここで始の頭には一つの可能性が浮かんだ。余りに都合が良すぎるそれを確かめるように、なあ、と聞く。

「……その髪型にしようとしているのは、着物に合わせる為か?」
「!」

肩が跳ねた。答えは、YESだ。

「……私、着物とか疎いですから。でも始さんに、その、………一生ついてくなら、絶対避けられない事だから。少しでも、自分一人で出来る事から始めようと思って」

だから、その、髪を。
真っ赤になって恥じるようにそう答えた夏樹に立ち上がって近づいた始はぽんぽんとあやすように頭を撫でた後、ぐっと引き寄せる。胸の内に残る、暖かくてむず痒い、こそばゆい感情を始はもう知っている。いじらしい努力に湧くそれは、愛おしいという感情だ。

「……なら、簪と着物は俺が見立ててもいいよな?」
「えっ、それはその、願っても無いですけど」
「じゃあ決まりだ。夏樹の髪が簪を差せるくらい伸びたら、見立てに行こう。きっと夏樹ならよく似合う」
「着ても無いのに断言されるのは恥ずかしいです……」
「はは。なら、夏樹が着物を着て見せてくれた時にうんと褒めちぎれば文句はないな?」
「それはそれで恥ずかしさで私が死にかねないので勘弁してください……」

わっと真っ赤な顔を覆った手を取って、その柔らかい掌を親指の腹で撫でて、遊んで。
始の瞳に映る真っ赤な彼女が何時かの遠くない未来で、身も心も、着物まで自分の色に染まるのかと思うととても気分が良い。どんな簪を差して、どんな色の着物と帯を選ぼうか。心が躍る。

「因みに着物の色のご希望は?」
「……紫、で」

口ごもるようにそう答えた夏樹の額に、始は嬉しそうに唇を落とすのだった。



***
2020.01.08
Hajime Mutuki Happy birthday!

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