追記

離婚した。
そう思った。


最後にと決めたコーヒーを、一滴残らず口に流し込んでから家を出た。最初の予定通りフランシスさんに電話を入れたら、案の定快く泊めてくれると言ってくれた。小ぶりのキャリーバックと普段使いのショルダーバッグのふたつを抱え、わざわざ迎えに来てくれたフランシスさんの車に乗り込む。一度フランシスさん宅へ行き、荷物を降ろすとあとはふたりでドライブに出掛けた。独身の時分はよく、趣味の似通う彼とああしてドライブに行ったものだった。奇しくも(そして有り難くも)休みだったフランシスさんとその日は朝方まで話し込み、夕方に差し掛かるくらいまで惰眠を貪った。人の優しい気配と料理のいい匂いで目が覚めたのは、なんとも言えない幸福感を私に運んできた。フランシスさんは気も利くし料理は上手だし趣味だって合う。フランシスさん宅で過ごした三日は、それはそれは素敵で、いっそ至福とも言えるような時間だった。
それなのに、なぜ今私がいるのは心優しきフランシスさんのお家のリビングじゃないのか。惚れたら負けとは言うものの。

「悪かった」

そう言ってアーサーが土下座してきたのは今日の朝、つまり私がカークランドという名を捨てる決意をしてから三日目の朝だった。緩やかにフランシスさんの作った朝食をいただき、食後のコーヒーを飲んでいる最中のことだった。どんどんどんと遠慮会釈のない強さで叩かれる玄関の扉。その扉の前で、フランシスさんが笑っているのが印象的でそれでいて少し腹が立った。アーサーに教えたのかとフランシスさんを睨めば、内の読めない笑顔で肩をすくめてどんどん鳴り続ける扉を指差す。
どうすんの、あれ。
どうすんの、って。放置ですよ放置。
目線で問いかけてくるフランシスさんに、首を横に振って答える。まぁそりゃそうよね、そうフランシスさんは呟いて自宅である玄関の扉を思いっきり蹴りつけた。騒がしく鳴っていた扉を叩く音も、さすがに鳴りを潜めて空気が止まる。私は、そしてきっと扉の向こうのアーサーも、まさかフランシスさんがそんなことをと息を飲んだ。

「アーサー。今すぐ帰れ」

いつにない冷たく突き放した声と口調でフランシスさんが断じた。扉一枚挟んだ向こう側の、動揺する気配。あぁそう言えば、知り合ったばかりのころはよくこうして家の玄関の前でそわそわしてたなぁ、だなんて、半ば現実逃避に近い回想に耽っていた私を現実に引き戻したのは、べそべそに震えた高めの声。

「うるさい、黙れ」

この期に及んで吐く言葉がそれかと、それはそれは感心した。この人のプライド(というか何というか)は一級品だ。天にも昇る高い高い自尊の心の持ち主は、自分の声がいくら半べその震えた声でも虚勢を張るらしい。

「うるさいのはお前だろ、とっとと帰れよ」

言い募るフランシスさんに、対抗するような形で扉がドンと鳴った。そしてすぐに上がる(今度はしっかりとした)怒声。

「黙れって言ってるだろ!俺は、お前の言葉が聞きたいんじゃないんだよ!」

やれやれといった風に首を振ったフランシスさんは、それでも少しにやっとして私を見つめてくる。どうする?どうする?どうしちゃう?なんて副音声が聞こえた気がした。この人は、こうなることをわかっていたのだろうか。そうだとしたら、なんて優しくて小粋な、意地の悪い人なんだろう。

「アーサー」

フランシスさん同様ため息をついた私の一言で、扉の向こうのアーサーが息を飲むのがよくわかった。隔てられていてもわかる、アーサーの怯える気配。何に怯えているのだろうか。呆れられることか、怒鳴られることか。それとも。

「私、フランシスさんに乗り換えようと思って」

凍りつく空気。吹き出しかけたフランシスさんが、ぶぐふぉと不思議な音を立てて肩を震わせた。両手で口元を押さえ、うずくまって笑いの衝動を堪えるフランシスさんを見るともなしに見つめ、考える。ぽろりと出てしまった言葉は意図したものではなく、発した私にだってどうしてこんなことを口にしたのかわからないのだ。意趣返しか。だとしたら、なんて幼稚で、虚しいことを。扉の向こうのアーサーは沈黙を守り、フランシスさんは無言で震え、私は思考することを放棄した。アーサーがどう思おうと、もう私には関係ないのだと言い聞かせて。

「なので、どうぞお好きな様に遊びまわってください」

その直後に、ガンッと鈍い音。




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