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夏の暑さは言い訳にならない

 俺は何を見せられているのだろうか。思考回路が停止することなど滅多にないが、今の俺の思考回路は停止寸前だった。
 意識せずとも自らの眉間に皺が寄っていくのを感じる。しかし、皺を寄せぬよう無表情を貫こうという気は起きなかった。それもそのはず。十数メートル先で自分の彼女が見ず知らずの男に声をかけられているのだ。顔を顰めてしまうのは当然のことである。
 梅雨はどこへ行ってしまったのか毎日地獄のように暑い日が続いていて、今日も例に違わず酷暑だ。俺としてはできれば外をふらついたりせず屋内でゆっくり過ごしたいと思っていたのだが、なまえが行ってみたいところがあると言うのだから仕方がない。
 この炎天下の中で待ち合わせるならせめて日陰で待てと言いつけたのが仇となったのか。指定した日陰の場所にはなまえ以外にも待ち合わせと思われる女性がチラホラいることが確認できて、暇な男たちにとってはちょうどいいナンパスポットのようになっていることに気が付いた。
 次からは二度とこの場所で待ち合わせしないと心に決め、俺は大股でなまえに近付いて行く。距離が近付けば嫌でも男となまえの会話が聞こえてきた。当然、俺の不愉快さは増す一方である。

「ね、ちょっとでいいからさ。あっちのお店でお茶しない?」
「何度も言ってますけど、待ち合わせをしているので……」
「なまえ」

 なまえは俺が名前を呼ぶと、ぱあっと顔を輝かせた。それだけで荒んでいた気分が和らぐのだから、俺も随分と甘い性格になったものである。とはいえ、こちらに向けられているもう一人の視線のせいで完全に和らぎはしないのだが。
 俺が現れるほんの数秒前まで軽快に動いていた男の口が、今はすっかりやる気を失っている。その顔には「早く離れないとまずい」と書いてあって、何を考えているのか一目瞭然だ。そう思っているならさっさと行動に移せばいいものを、男はぼうっと呆けた顔で立ち尽くしていて目障りだ。

「まだ何か用があるのか」
「い、いえ! すんませんっした!」

 俺の声かけで我に帰ったのか、男はハッとしてそれだけ言い残すと、脱兎の如くそそくさと去って行った。あの様子だと、もし仮に今後なまえを見かけることがあったとしても二度と今日のように浮ついたことをしてくる勇気はないだろう。
 だがしかし、だ。あの男を一人排除したところで安心などできなかった。浮ついた気持ちでなまえに近付いてくる男は、おそらく他にもいるだろう。なまえと過ごすのはボーダー本部や大学構内、お互いの家ばかりで、出かけるのもその周囲のコンビニやスーパーなどだった。つまり今日のように待ち合わせて出かけることがほとんどなかったのだ。
 だからこんなことになるとは思わなかった、迂闊だった……というのは言い訳でしかない。たまたま俺が待ち合わせ時間より少し早く来たからこの程度ですんだが(この程度とは言っても非常に腹立たしいが)、もし時間通りに来ていたらどこかに無理矢理連れて行かれていたかもしれないのだ。今後同じようなことは絶対にないようにしなければならない。

「匡貴くん、怒ってる?」
「……お前には怒っていない」
「じゃあさっきの男の人に怒ってる、とか?」
「それもある」
「それ“も”?」

 そう。俺はあの男に対して以上に、自分自身に腹を立てていた。なまえを少しでも不安にさせたこと、危険に晒したこと、不快な思いをさせたこと。もちろんあの男のせいでもあるが、こうなることを少しも予測していなかった自分が不甲斐ない。それゆえの怒りだった。

「悪かった」
「え? なんで匡貴くんが謝るの?」
「嫌な思いをしただろう」
「嫌っていうか、ちょっと困ってたけど……あれは匡貴くんのせいじゃないし、お陰で幸せなこともあったから」
「幸せなこと?」

 見ず知らずの男に声をかけられて困っていたというのに、どうやったらそこに「幸せなこと」が並立するのだろうか。もともとなまえの考えは理解し難いことが多いが、今回も俺には理解できなかった。
 答えを促すようになまえの顔をじっと見つめる。するとなまえは、ふふっと、確かに幸せそうに笑った。

「匡貴くん、ちょっと焦った顔して私とあの男の人の間に割って入ってくれたでしょ? それがすごく嬉しくて幸せだったの」

 答えを聞いても理解できなかった。自分の彼女が他の男に言い寄られていたら、どんな男であっても割って入るものではないのか。当然の行動をとっただけで幸せを感じてもらえるのは有り難いが、なまえの幸せの閾値が低すぎて逆に心配になってくる。
 俺が「理解できない」という顔をしていることに気付いたのだろう。なまえは「私が言ったことの意味、ちゃんとわかってないでしょ?」と、的確な指摘をしてきた。他の人間なら俺の小さな表情の変化など気付きもしないだろうに、なまえは目敏い。俺のことをよくわかっている証拠だ。

「いつも淡々としてる匡貴くんが焦ってくれたことが嬉しかったんだよ」
「……?」
「私のことそんなに誰かに取られたくないんだなあって思って」
「当たり前だろう。付き合い始めた時点で誰にもお前を渡すつもりはない」
「そ、れは……そう、なんだろう、けど、」

 俺の発言を聞くなり、それまでヘラヘラ笑っていたなまえが視線を泳がせてしどろもどろし始めた。日陰とはいえ外気温は異常なまでに高いから、暑さにやられたのかもしれない。そういえばなんとなくなまえの顔の赤みが増しているような気がする。
 ひとまず涼しい場所に移動した方が良いだろうか。歩けないほど弱っているという様子ではないことを確認し、俺はなまえの手を引いて歩き出した。喫茶店ぐらいならすぐ近くにあるはずだ。

「ま、匡貴くん? どこに……」
「暑いんだろう」
「え? まあ、うん、暑いけど……」
「熱中症にでもなって倒れられたら困る」
「大丈夫だよ」
「顔が赤い」
「……それは匡貴くんのせいです」

 思わず「は?」と立ち止まる。暑さのせいではなく俺のせい、とはどういうことだ。日陰を出て歩いている最中に立ち止まったせいで太陽の日差しが燦々と降り注いでいるが、今は暑さなど気にならなかった。
 おずおずと視線を上げたなまえと目が合う。その顔は、やはり赤い。

「急にさらっと恥ずかしくなるようなこと言うから!」
「事実しか言った覚えはないが」
「そう、かも、だけど……!」
「かも、じゃない。事実だ」
「そういうところ! あと手も! いつもは繋がないのに!」
「嫌なら離す」
「嫌じゃないけどそうじゃなくて! ……匡貴くんは嫌じゃないの?」
「嫌なら最初から繋がないだろう」

 大きな声を出してみたりしおらしくなってみたり、なまえはどうにも忙しない。最終的には「匡貴くんはそういう人だもんね……」と抽象的なことを呟いて落ち着いたが、先ほどの発言を総括すると全ては照れによるものだったということで片付けて良いのだろうか。女心を把握するのはランク戦で戦略を練るより難しい。
 ひとまず、熱中症にはなりそうにない元気さであることが確認できて良かった。となると、喫茶店を探す必要もない。さて、今日はどこに行くんだったか。そういえば行き先は当日教えると言われていたので、俺はここからどこに向かえば良いのかわからない。

「それで、今日はどこに行くつもりなんだ?」
「水族館だよ。リニューアルオープンしたばっかりなの!」
「人が多いんじゃないか?」
「…………やっぱり嫌?」
「やっぱり?」
「事前に言ったら行きたくないって断られそうだから伝えなかったの」
「なぜそう思う?」
「人多いの好きじゃないって知ってるし、デートしてるところを誰かに見られるのも嫌なのかなって……」
「人が多いのは確かに好きじゃないが、見られることが嫌だとは思わない」
「手繋いだままでも?」
「お前がそうしたいなら構わない」
「誰かに見られたら揶揄われるかもよ?」
「言わせておけばいい。放っておけ」

 何を心配しているのかよくわからないが、次々飛び出してくる謎の確認事項に淡々と答えていく。するとなまえはやっと満足したようで顔を綻ばせた。まるで子どものようだ。

「そんなに水族館が楽しみなのか」
「匡貴くんと行くのが楽しみなの」
「……そうか」

 ここで「俺もだ」と素直に言った方が良かったのだろうということはわかっている。しかし柄にもなく照れてしまって、口には出せなかった。
 今日は暑い。もしかしたら俺の顔も少し赤くなっているかもしれない。