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I

Hの期待

 十二月初旬の日曜日。私は一日中そわそわしていた。彼が仮免試験に合格するか否か。今日はそれが決まる大事な日なのだ。私がそわそわしていたところで何にもならないことは百も承知だけれど、勝手に不安になるぐらいのことは許してほしい。
 ヒーローに近づくための第一歩。それが仮免取得だ。彼は根本的に変わっていないと思うけれど、A組の女子達曰く大きく変わったらしい。私の影響だろうと口を揃えて言われた。
 変わった、というより、考え方が柔軟になった、もしくは、視野が広くなった、といった方がしっくりくるだろうか。
 人間はそう簡単に変わらない。だからもし彼が皆の目に「変わった」ように映っているのであれば、それは見えていなかった部分が見えるようになっただけじゃないかと思う。彼は昔から、ああいう人だ。

 時刻は間もなく六時になろうとしていた。当初の予定でいけば、そろそろ帰ってくる時間である。
 試験が終わったら合否の結果を連絡してほしいとお願いしたら、即座に拒否された。そういうことは直接言いたい性分らしい。まあ合格であれ不合格であれ、私も彼の口から直接聞きたいとは思っていたから、彼の判断は正しいのだと思う。
 ベランダに出て外を眺めてみる。私の部屋の位置からでは、彼が来ているかどうかを見ることができないから、この動作には何の意味もない。ただ、何かしら動いていないと落ち着かないのだ。
 きっともうそろそろ帰ってくる。そう思っていたのに、六時を過ぎ、六時半、七時、八時をすぎても、彼からの連絡はなかった。私は部屋の中に戻りベッドに腰を下ろした。
 もしかして、と。嫌な考えが頭の中に浮かぶ。もしかして結果が芳しくなかったから連絡を渋っているのではないだろうか。彼はプライドが高いから二度も不合格なんて相当なショックを受けるだろうし、一緒に仮免試験を受けている轟くんが合格したのであれば尚更だ。
 どうしよう。もしそんな最悪の結果だったら何って声をかけてあげたら良いのだろう。そもそも彼は今日私の元に来てくれるのだろうか。ありとあらゆることを考えながらベッドに座り込んだ時だった。
 先ほどまで外を眺めるために出ていたベランダの方から、ゴンゴン、と音が聞こえてきて目を向ければ、待ち侘びていた彼の姿が見えるではないか。窓ガラスを叩きながら口パクで「開けろ」と言っている彼を招き入れるため、私は鍵を開けた。

「寒ィ」
「なんでベランダから?」
「忍び込むのに正面から入るわけねェだろ」
「そんな泥棒みたいな、」
「受かった」
「え?」
「仮免試験」
「うそ、」
「あァ? 俺が受からねェと思ってたのかテメェは」
「だって帰り遅かったから…めちゃくちゃヘコんでるのかなって思って……」

 ベランダの隅っこに靴を揃えて置いた彼は、暖かい室内に入ると今度は「暑ィ」と文句を言った。体温調節が難しい人だ。
 そんなことよりも、今は彼が無事に合格したという事実の方が大切である。なぜこんなに遅くなったのかと問えば、早々に敵退治をしていたのだと言う。まったく、彼はどこまでもヒーローだ。

「おめでとう、かっちゃん」
「まだ仮免取っただけだ」
「でも、仮でもヒーローには近付いたよ」
「まァな」

 素直に「ありがとう」を言えない彼だけれど、賞賛の言葉は嬉しいのだろう。その表情はやや嬉しさを滲ませているように見えた。

「ちゃんと伝えに来てくれて嬉しかった」
「そういう約束だったろーが」
「寮、帰んないと」
「俺が何のために忍び込んだと思ってんだ」

 どきりとした。
 合否を伝えに来るだけなら寮の入口から堂々と入ってきて、私を呼び出すだけで良い。けれど、彼はわざわざベランダから侵入してきた。その理由とは。
 今日のために交わした約束。彼は私に合否を直接伝えに来ること。そしてもう一つ。彼が合格したら、私は彼の願いを一つ叶えてあげること。所謂、ご褒美というやつである。
 彼が強請ってきたわけではない。「合格のお祝いに一つだけ何でもお願いきいてあげる」と、私の方から持ちかけたのだ。彼はきっと、その約束を覚えている。だから私の部屋に“忍び込んだ”のだろう。

「飯と風呂は」
「もう済ませたけど」
「じゃあ寝るだけだな」
「かっちゃんは?」
「さっき全部済ませてきた」
「そっか」
「ああ」

 そこで会話は途切れた。ただお互いにらめっこをするみたいにじっと見つめ合って固まる。そのまま数秒が経過。そして、先に動いたのは彼だった。膠着状態の時に痺れを切らすのは決まって彼の方である。
 彼は元々にこやかではない顔を更に少しばかり歪めて私に近付いてきたかと思うと、それほど開いていなかった距離をゼロにした。私の頭を強引に自分の胸元に押し付けたのだ。
 ゴツゴツとした胸板はお世辞にも心地良いとは言い難かったけれど、服の上からでも彼の鼓動のテンポの速さが伝わるのは嬉しかった。

 あの日、初めてを彼と共有した日のことを思い出す。名残惜しいと思いながら彼の部屋をこっそり出て自分の部屋に戻った私は、ドキドキが継続していてよく眠れなかった。
 翌日からもそれまで通りに接したつもりだけれど、内心では彼を目にする度に鼓動を速めていたのを、彼は知らないだろう。表面上は何も変わっていなかった。けれど私達は確かに、その関係を深めていた。
 きっとお互い分かっていたのだ。二人きりになったら否が応でも意識してしまうことを。だから今日まで、決して二人きりのシチュエーションを作らなかった。
 文化祭で一緒に回らなかったのは、お互いクラスの人との時間も大切にしたかったからというのが表向きな理由だけれど、その裏には、二人だけで行動するのがどこか気恥ずかしかったからという中学生みたいな理由が隠されている。

「お願い、なんでもきくけど」
「ねェわ」

 てっきり何かしらの「願い事」をされると思っていたのに、頭上から間髪いれずに返ってきた答えは意外なものだった。

「激辛料理の美味しいお店でご飯ご馳走するとか、日頃の疲れを癒すためにマッサージするとか、何でも良いんだよ?」
「俺がンなこと頼むと思ってんのか」
「思ってないけど、例として」

 約束は約束だし、何かしてあげたいという気持ちは大いにある。それにこちらは、先ほどの発言を受けてそれなりに身構えていたのだ。抱き締められているこの状況で何の頼み事もされないというのは、些か寂しすぎるのではないだろうか。
 身体は確かに触れ合っているのに、彼の手が動くことはない。彼はがっつくタイプに見えてかなり理性的な男だ。普通なら腰を撫でるぐらいのことをしても良さそうなのに。まあ世間の普通なんて、私も知りはしないのだけれど。

「ほんとにない?」
「ああ」
「じゃあ何のために忍び込んだの……」
「何を期待してた?」

 私の呟きを聞き逃さなかった彼は、してやったり、と言わんばかりに意地悪な言葉を投げかけてくる。見上げれば、完全に極悪人面で笑っている彼と目が合った。
 見透かされている。彼に何かしてあげたいというより、私がそれを求めているということを。悔しい。けれど、ジタバタしたところでどうしようもないことは分かりきっていた。それならば。
 私は彼の唇にそっと人差し指を当てる。彼は一瞬何なんだとギョッとした顔をして、けれども私がその指を自分の唇に当てたのを見ると全てを理解したようだった。

 私の“個性”は「接着」。持続性はないものの、触れたもの同士をくっ付けることができる。普段は物と物をくっ付けるためにしか使わない“個性”だけれど、人と人をくっ付けられないわけじゃない。彼もそのことはよく知っていた。
 彼の唇と私の唇が磁石のS極とN極のように引き寄せられる。もしかしたら彼なら抗う術があったかもしれないけれど、何の抵抗もなく引き寄せられてくれたのは私に対して甘いからだと思うことにしよう。
 一度くっ付いたら三十秒は離れない。逆に言えば、三十秒が経過したら離れてしまう。三十秒なんてあっと言う間だ。

 自分から彼に唇を重ねてみたかった。けれど、勇気を出して行動を起こしたとしても、ほんの一瞬触れ合う程度にしかできないだろうことは目に見えていた。
 だから私は自らの“個性”に力を借りた。彼からしてみれば「わざわざ“個性”使う必要ねェだろ」って感じだと思うけれど、私には必要だったのだ。
 三十秒。“個性”の効力が切れた。しかし唇は重なったまま離れない。否、正しくは、ほんの少し離れたけれどまた押し当てられた。ついでに舌を捻じ込まれた。

「かっ、ちゃ……っ、んっ」

 彼の口癖である「うるせェ」も「黙れ」も言われない。言われないけれど、その行動からは彼の口癖が聞こえてくるようだった。
 止まらない。止まれない。むしろどんどん深くなる。沈んでいく。
 漸く唇を離した時には、完全に息が弾んでいた。彼は赤い舌でどちらのものともいえない唾液をぺろりと舐め取って笑うだけで、ちっとも呼吸は乱れていない。

「俺ァ期待には応える主義だ」
「……知ってる」

 爆豪勝己は私の期待を裏切らない。だから絶対にヒーローになる。そんなの、ずっと前から知ってるよ。信じてるもん。ずっと、ずっと前から。