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オレンジの片割れは幸せか

 冬は適度に体温を分かち合いながら過ごした。極力なまえの負担にならないように努めながら。もっとも、俺が勝手に努めているつもりになっていただけで、本当になまえの負担になっていなかったかはわからないが。
 なまえは俺が求めると常に喜んで受け入れてくれた。そういう気分じゃないとか、体調がすぐれないとか、いくらでも断る理由はあったはずなのに、一度も嫌がられたことはない。ただの一度も、だ。
 無理をしているのでは……と気にすることはなくなった。なまえの気持ちが全て手に取るようにわかるようになったとか、そういうわけではない。ただ、結婚してから色々なことがあって、その色々があったからこそ、疑心や不安を抱くことがなくなったのではないか、とは思う。
 なまえはもう、俺に遠慮などしない。強がりもしない。そう言い切れるだけの自信があった。俺もなまえに対してそうであるのと同じように。

 四月になってから、とうとう俺の事務所が始動した。始動するまではあれこれバタついたものの、やり始めてみれば依頼もまずまず入ってくるし、特にトラブルもない。今のところ周りからの評判も良いらしいし、雇っているヒーローやサイドキックの仕事ぶりも、問題ないどころか思っていた以上に上手くこなしてくれていて、順調すぎて逆に心配になるほどだ。
 なまえは前の職場を三月末に退職し、そのままうちの事務所の事務員として就職した。主に人事と経理という重要なポジションを任せているが、忙しい毎日を「充実していて楽しい」と言いながら過ごしてくれている。デカい腹を抱えて文句も言わずに働くなまえに対して「無理はすんなよ」と忠告したのは一度だけ。心配よりも信頼がまさった結果だ。

 そして、時は流れる。あっという間に。

「なまえ!」
「勝己、」

 勢いよく扉を開けたら、口元に人差し指をあてて「しー」と言われた。が、時すでに遅し。なまえの胸に抱かれた小さな命は、これでもかと大泣きし始めてしまった。死ぬほどうるせえ。のに、耳障りではない。むしろ、この時を待っていたせいか、安堵すらしていた。
 きちんと生きている。なまえも、赤ん坊も。それが確認できて、迂闊にも表情が緩んでしまった。

 夏に片足を突っ込み始めた六月下旬。俺が少し遠方での任務を片付けて帰ってきている途中で、なまえから連絡がきた。陣痛が始まったかもしれないから病院に向かう、と。それを聞いた俺がいまだかつてないスピードで帰りを急いだのは言うまでもない。
 初産の時は出産まで長引くことが多いと聞いていたから間に合うと思ったのだが、なまえが健康だったからか、赤ん坊が早く腹の中から出たかったからなのか、何にせよ、初産婦にしては早めの出産だったらしく、その瞬間にはあと一歩間に合わなかった。

「仕事終わったの?」
「ンなもん悠長にやっとる場合じゃねェだろ」
「事務所の方は?」
「移動中に連絡した。今日抱えてる案件は全部確認して指示出しとるわ」
「さすが。でも大丈夫? 急いで来てくれたんでしょ? 疲れてない?」
「ったく……俺のことよりお前は」
「私は大丈夫。この子も。予定通り、元気な男の子だよ」
「……よかった」

 出産という大仕事を終えたばかりで全力を使い果たして疲れているはずなのに、何よりも先に俺のことを気にする。これはもはや癖というか、長年かけて刷り込まれた生き方みたいなものなのだろう。なまえの自分を優先しないところは、何年経っても変わりそうになくて苦笑した。たぶんこれからは優先順位の中に子どもが加わってますます自分の順位が落ちてしまうのだろうが、そのぶん俺がなまえを優先してやればいいだけの話だ。今まで通り、何も変わりはしない。
 なまえにトントン背中を叩かれてあやされた赤ん坊は、安心したのか静かになっていた。この小さな生き物が俺となまえの子どもだなんて、目の前にいるというのに全く実感がわかない。今日から父親だと言われても、何をどうしたらいいというのだろう。この日のために散々知識を詰め込んだはずなのにいざとなると傍で見つめていることしかできないなんて、とんだポンコツである。世間の父親ってのは皆こうなのだろうか。
 赤ん坊には何もしてやれない(というか何もするべきではないと判断した)ので、ひとまずなまえの頭を撫でて額に軽く口付けておく。元気な子どもを産んでくれたことと、なまえが無事でいてくれたことに対するお礼の意味を込めて。ふにゃりとしまりなく頬を緩めるなまえの顔を見ることができるのは、俺だけの特権だ。

「抱っこしてあげてよ」
「今落ち着いたばっかだろうが」
「お父さんの温もりも覚えてもらわなきゃ」
「これから死ぬほど覚えさせてやっから今は寝かせとけ」

 ほんの数分前まで泣いていたところを鎮めたばかりなのに、わざわざまた泣かせるようなことをする必要はない。とはいえ、機嫌が良い時に抱いたとしてもどうせ泣かせてしまうのだろうから、いつ抱いても同じだとも思う。
 俺が根本的に恐れているのは、赤ん坊を泣かせてしまうことではなく、俺みたいなヤツがこんな小さな生き物を手にして壊さないかということだった。ちょっと力加減を間違えたら一瞬で捻り潰せてしまうサイズだ。間違っても“個性”を発動させないようにしなければならない。
 何でもないことのように赤ん坊をふんわりと抱いているなまえを見て、母親の凄さを実感する。なまえだって初めて抱くはずなのに、少しも恐れていない。俺にはできない芸当だ。

「勝己と同じ髪の色だね」
「顔はどっち似かまだわかんねえな」
「勝己そっくりになりそう」
「お前の遺伝子どこいったんだよ」
「性格とか?」
「それこそわかんねえじゃねェか」
「そのうちわかるよ」
「まァな」

 この赤ん坊は、この世に生を受けてまだ数十分。そりゃあ知らないことやわからないことの方が多いだろう。でも、それでいい。今から育てていく中で、知っていけばいいだけの話なのだから。
 おそるおそる指を伸ばしてみる。起こすかもしれない。泣かせるかもしれない。懸念すべきことは山ほどあったが、触れたくなった。赤ん坊を見ている間に、俺の中で恐れより別の感情の方が大きくなったからだと思う。
 つん、と触れたのは、ふんわりと拳を握っている小さな手。うう、と唸ったから泣かれると思ったが、小さな生き物は再び寝息をたて始めた。俺の指をそっと握りながら。信じられないほど小さいのに、ちゃんと温かい。柔らかい。赤ん坊なら当たり前の感触なのかもしれないが、柄にもなく感動した。

「可愛いね」
「ん」
「名前、どうする?」
「決めてたやつ」
「顔見てから最終決定するんじゃなかったの?」
「だから、今見て決めた」
「……うん。私も、いいと思う」

 性別はあらかじめわかっていてもいいしわからなくてもいいと言っていたが、両家の親が口を揃えて出産準備をしたいと言ってきたので、二月頃には判明していた。だからそのままの流れで、名前の候補も話し合っていたのだ。
 漢字の意味だの、字画だの、自分のことならどうでも良いと思えるが、子どものこととなると無碍にして良いものかわからず、なまえと一緒に悩みまくった。俺が生きてきた中でダントツと言い切れるぐらい迷走した。自分のヒーローネームしかり、俺はどうにも名付けってもんが苦手らしい。
 名は願い。己がどう在りたいか在るべきか。
 名前の候補を選別している時、いつか言われた懐かしいセリフを思い出した。そのセリフを思い出した途端に候補が絞れてしまったのは悔しいが、俺もなまえも納得のいく名前を考えることがてきて良かったと思っている。

「幸せになる」
「は?」
「私の夢。何が幸せかよくわからずに生きてきたくせに、いつか幸せになれたらいいなって、ずっと思ってた」
「過去形にすんなや」
「だって、今幸せだし」
「勝手に終わらせんな。死ぬまで夢見とけ。叶え続けてやっから」
「これからの夢は家族全員で幸せになることに変更したから、私も叶える側になるの」
「……上等だ」

 見つめ合って、笑い合って、なまえと赤ん坊をまとめて抱き締める。二人分の温かさを覚えたら、それを「幸せ」としてインプット。アップデートは無事に完了した。
 新たな門出を祝うかのような美しい夕焼けを浴びて、俺たちはオレンジ色に染まる。