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あいはいのちのかたち

 春が終わり、夏が過ぎ、秋を迎え、冬の足音が聞こえてきた十月下旬。月日の流れとともに、俺となまえは自然と日常を取り戻していった。何ひとつ忘れてはいない。しかしもう、引き摺ってもいない。俺たちは二人で、一歩も二歩も前進した……と勝手に解釈している。少なくとも俺はそうだ。
 仕事も順調……というかクソほど忙しい。理由は、来年の四月から個人事務所を開設することが決まっているから。実は去年から少しずつ準備を進めていたのだが、今年度に入った途端にあの事件があって、予定が押しているのだ。もちろんなまえもそのことは知っていて、俺の個人事務所開設と同時に今の事務所を退職し、一緒に働く予定で動いている。
 何度も言うが、俺はクソほど忙しい。しかし、絶対になまえのことだけはないがしろにしないと決めている。だから、これまで通りに……否、これまで以上に、なまえのことを気にかけて見ていた。

 なまえはもともとの気質的に、自分の変化を相手に悟られないよう隠すのが上手い。たとえば風邪をひいて熱がある時も注意深く観察していたら少しぼーっとしているように見える程度で、その他はほとんどいつも通り。女特有の月に一回おとずれるアレの時もなんとなく顔色が悪く見える時があるぐらいで、腹や腰が痛いだの眠たいだのと訴えてきたことは一度もないし、イライラした様子で八つ当たりされたこともない。
 我慢強いといえば聞こえはいいが、俺からしてみたらそれで倒れられたりした方が困る。だからせめて俺の前ではもう少し気を抜けと何度も伝えて、例の事件以降は(本当に微々たるものだが)変化がわかりやすくなってきたと思うのだが、それでもまだ、なまえには甘えが足りない。
 そんな調子だったから、なまえに「話があるんだけど」と切り出された時は、一体何事かと身構えた。仕事で何かあったか、また得体の知れないヤツに絡まれたか、もしくは俺に対する不平不満か。ありとあらゆる可能性を一瞬で考える。そして、ソファに並んで座っているなまえがおもむろに口を開いた。

「赤ちゃん……できた、みたいで」
「…………は?」
「六週だって」

 驚きすぎて声を失った。やることをやっているわけだから、想定外の事態ではない。むしろ、想定した上で行為を重ねていた。いつかはできるかもしれないと思っていた……はずなのに、いざその時が来るとどうにも処理が追いつかず、なまえの顔とぺったんこの腹を交互に見ることしかできない。
 お陰で俺の反応を見たなまえは、良からぬ方向に勘違いしてしまったのだろう。「ごめん」と、言わなくていい言葉を口にした。

「四月から事務所開設するし、勝己が忙しいのはわかってる。色々お金もかかるし、今このタイミングで? って思うよね。ごめ、」
「謝んな」
「でも、っ、」

 まだ何か言いたそうななまえの身体を強引に引っ張り、膝の上にのせて抱き締める。この上なく嬉しいのに言葉にならなかった。嬉しい、だけでは片付けられない。それなら何と言えば良いのか。そこまで語彙力がない俺には、ありきたりな言葉しか思い浮かばなかった。

「ありがとう」
「……嬉しいの?」
「当たり前だろうが」
「忙しいのに?」
「関係ねェわ」
「良かった……私と同じ気持ちで」

 心底ホッとした様子で落とされたなまえの言葉に、また熱い感情が込み上げてきた。俺となまえの子どもがここにいる。そう思いながらなまえの腹を撫でたら「まだまだお腹は出ないよ」と笑われた。そんなことは男の俺でも知っている。まだ人間としての形を成していないことも。それでも感慨深くて、思わず触ってしまったのだ。
 さて、今二ヶ月と言ったか。そもそも妊娠して産まれるまで何ヶ月だ? 俺はいつ父親になる? いや、もう今の時点で父親の自覚を持たなければならないのだろう。ある程度は想定していたくせに何も準備をしていなかったせいで、俺は妊娠・出産・育児について無知すぎる。これから自分が何をどうするべきなのかさっぱりわからないなんて、父親としてあるまじき状況だ。
 そういえば妊娠したらつわりがあるのではなかったか。テレビで妊娠した女が吐き気をもよおしてトイレや洗面台に走る姿を見たことがあるような気がするが、ここ最近、なまえにそんな様子はなかった。もしそんな様子があったら、カミングアウトされる前に妊娠していることを察していたかもしれない。また我慢しているのか? 俺のいないところで一人で苦しんでいたのだとしたら、それは大問題だ。

「体調は? つわりとかあンじゃねーのか」
「それが、今のところは全く何も」
「隠してんじゃねえだろうな?」
「さすがにつわりは隠せないでしょ。私も身構えてるんだけど、本当に何もないの」

 なまえの顔色を確認し嘘ではなさそうだと判断して、ひとまず胸を撫でおろす。とはいえ、今何もないからといって今後も大丈夫とは限らない。なまえのことだ。忙しい俺に迷惑をかけないように、心配かけないように、などと無理をすることが目に見えている。
 もう一度釘を刺しておこう。我慢はするな、と。もう一人の身体ではないのだ。そのことを引き合いに出せば、なまえも少しは俺を、周りを、頼る気になると信じたい。

「職場には?」
「まだ言ってないけど、上司にだけは明日言うつもり。安定期に入るまでは公にしない方がいいかなって思ってるから、仕事も普通に続けるよ」
「安定期ってのは?」
「五ヶ月ぐらいかな」
「あと三ヶ月も黙っとくつもりか? つわりがひどくなったらどーすんだ」
「そこは上司に言って調整してもらう」
「なんで安定期まで言わねンだよ」
「その……流産、とか……考えたくないけど、安定期に入るまでは何が起こるかわかんないから、もしものことがあった時に気まずいでしょ……」

 もごもごと言いにくそうに言葉を紡ぐなまえを見て、眉間に皺が寄る。世間一般では安定期まで言わないのが普通なのだろうか。職場で妊娠したと報告している人間を数名見たことがあるが、その時は興味も関心もなかったから気にもとめていなかった。
 安定期とやらに入ったら流産しないのか? 知識がないからわからないが、おそらく、絶対に安心できるというわけではないだろう。つまり、安定期に入るまでの方が流産するリスクが高いということか。少ない情報量で自分なりに分析する。そして、俺が行き着いた答えは。

「何が起こるかわかんねえなら尚更、周りに頼るべきだろうが。“もしも”にならねえようにできることがあンなら何でもしろ」
「それは……そのつもりだけど」
「周りに言うかどうかはなまえに任せる。ただこれだけは覚えとけ。俺はお前と腹ン中の子どもを死んでも守る。だからお前は、自分と腹ン中の子どもを守るために最善の行動を取れ。わかったな?」
「ふふ……はい。わかりました」
「何笑っとんだ」
「勝己はもう立派な父親だなあと思って」
「はァ? まだ何もしてねェわ」

 わけのわからない感想を述べて笑うなまえを見て、唐突に、出会ったばかりの頃を思い出す。お見合いの席ではあったが、あの時はなまえと結婚する未来など微塵も想像していなかったし、こんな風に笑う姿を見られるとも思っていなかった。なまえと出会ってからの俺の人生は、良い意味で誤算だらけだ。
 まだ男か女かもわからない我が子のことを考える。性別がわかったらすぐに名前を考えなければならない。部屋はどうするのが良いか。なまえと相談しながら決めていこう。考え始めたらキリがなくて、気持ちだけが先走っている自分に気付いた。どうやら俺は自分が思っている以上に自分の子どもができることを待ち望んでいたらしい。
 とりあえず今週末にでもお互いの実家へ報告にいこう。どちらの親も孫の顔が見たいと言っていたから、相当喜ぶに違いない。

「絶対ェ無理すんじゃねェぞ」
「勝己は意外と心配性だよね」
「お前が心配させるようなことすンのが悪ィ」
「大丈夫だよ。もう昔みたいに一人で頑張らなきゃとか思ってないから」
「どーだか」
「勝己のせいで一人が無理になっちゃったの」
「そりゃ良かったな」
「うん。勝己と結婚できて、良かった」
「……それはこっちのセリフだ」

 普段は口にしない歯の浮くようなセリフを言い合って、お互い吸い寄せ合うように唇を重ねた。