「ライジェル、仕度はできたか」
「はい」
八月のある日、レギュラスとライジェルは屋敷を出る支度をしていた。魔法スポーツ界全体が注目する、クィディッチワールドカップの決勝戦、ブルガリアチーム対アイルランドチームの試合が行われるのだ。そこで魔法大臣のファッジが演説をすることもあり、その直属の部下であるレギュラスも招かれたのだ。なんでも昨年のシリウスの件で、結果的に逃げられはしてしまったものの一度はシリウスを追い詰めたとして、彼の中のブラック家のネームバリューが上がったらしく、ワールドカップの席の中でもファッジの席に近い一番の特等席に招かれたらしい。その席の隣にはこれまたファッジお気に入りのルシウスも招いたらしく、マルフォイ家と一緒に観戦しようということになったのだ。
「いってらっしゃいませ、レギュラス様、ライジェルお嬢様」
「ああ。番は頼んだ」
恭しく頭を垂れるクリーチャーに屋敷を任せ、ライジェルとレギュラスは手を繋いで姿くらましをした。と、次の瞬間ライジェルは靴越しに地面の感触を確かめる。周りを見ると、到着した場所はそれほど人気があるわけではないらしい。
「行くぞ。じきにここも人で混み合ってくる」
「はい」
歩いていると、レギュラスの言う通り段々と人の数が増えていき、それに伴って一般客のものだろうか、テントの姿も疎らにではあるが見えてくる。普段レギュラスの屋敷かマルフォイ邸くらいのものしか見ていない為か見慣れない一般のテントに視線を止めたままのライジェルに、レギュラスは小さくため息をついて彼女の手首を握った。
「あまりあちこちに目をやるな。はぐれたらどうするんだ。ライジェル、お前は姿あらわしが出来ない分一層周りには気をつけろ」
「ご、ごめんなさい」
ライジェルは忙しなく動かしていた両眼をレギュラスに戻したが、レギュラスはライジェルの手首を離すことなく歩き続けた。
「おお、レギュラス! 待っておったぞ」
しばらく歩いた先には、小綺麗な建物があった。建物自体は取り立てて秀でたものはないのだが、先ほど見た無数のテントとは比べものにならない。何というか、安定感が段違いなのだ。その日は風もライジェルの黒い髪が舞い上がるくらいには強いため、もちろん魔法がかかって台風でも起こらない限りは大丈夫ではあるだろうが、見るからに頼りなさげなテントよりは断然にこちらの建物に入りたいと誰でも思うだろう。レギュラスの後に続いてその建物の中に入ると、ライジェルだけではなく魔法界の者のほとんどが知っているであろう有名な人物が二人を出迎えた。
「遅れてしまい申し訳ございません、大臣。こちら、娘のライジェルでございます。ほらライジェル、挨拶を」
ライジェル達を出迎えたのは、紛れも無い魔法大臣のコーネリウス・ファッジだったのだ。昨年度末に見たとはいえ、魔法省トップの大臣を目の前にして固まってしまったライジェルとは裏腹に、レギュラスは普段ライジェルが聞くことのない丁寧な物腰でファッジに挨拶をする。ファッジがレギュラスを気に入ったというのは嘘ではないらしく、ファッジは機嫌が良さそうににこにこと人の良さそうな笑みを浮かべている。レギュラスに言われ、慌ててライジェルは頭を下げる。
「レギュラスの娘のライジェルです。……ち、父がお世話になっております」
何と言っていいのかわからず、ライジェルはとりあえずとそう言ってはみたのだが、何やらとんちんかんなことを口に出してしまったらしく、ファッジは声を上げて笑い、レギュラスはまるで自身が失敗を犯したかのような複雑な表情を浮かべた。失敗した、とライジェルは途端に顔を真っ赤にさせる。
「いやはや、なかなかしっかりしたお嬢さんだ。これもレギュラスの教育のお陰かね」
「面目ないです。私の娘はいつもはもう少し堅実なのですが、どうやら緊張感に慣れていないようで」
確かに、あの夜に一人でシリウス・ブラックを捕らえようとするくらいにはお転婆が抜けきっていないようだ、と返したファッジは、自身の呟きに難しい顔をし、ライジェルはぴしりと身体を固まらせる。シリウスのことで余計なことを口走るわけにはいかない。
「……全く、あれが我が実兄とは情けない話です。これ以上ブラックの名を落とすのはやめて頂きたいものです」
と、ライジェルの隣で先ほどとは打って変わって冷ややかな声が聞こえた。びくりと小さく肩を震わせたライジェルはそっとレギュラスの方を向く。と、そこには少し前にシリウスと和解したとは思えない、レギュラスの感情のこもらない顔があった。ライジェルが自身の顔を見ていることに気づいたレギュラスはちらりとライジェルを見て、声には出さずに小さく口を動かした。きっとすまないと言ったのだろう。ここでシリウスを庇えばファッジからの好感度が下がってしまうのは避けられないため、レギュラスが心にも思っていないことをいうのはしょうがないことなのだろう。そうわかってはいるけれど、ライジェルの胸には小さな燻りが残った。
「そうだろう。だがレギュラス、お前はシリウス・ブラックとは正反対だ。私は君を評価している。そう気に病むことはないぞ」
さも同情しているかのようなファッジの言葉にレギュラスは小さく、ありがとうございます、と礼を言うが、ライジェルにはそれが表面上のものでしかないことははっきりとわかる。まるで、茶番劇だ。
「おお、もうすぐルシウス達も到着するだろう。それまでくつろいでくれ」
そう言い、ファッジは数人のボディーガードを引き連れて建物の中から出ていってしまった。
「……ライジェル、」
「わかっています」
優しいレギュラスの言葉をライジェルは静かに遮る。
「ちゃんとわかっていますから。だから、気にしないで下さい」
レギュラスを拒絶したいわけではない。ただ、理解はしていてもそれをライジェル自身が受け入れられないだけなのだ。ライジェルが受け入れようが受け入れまいが、大人と大人の間には表面上の付き合いが存在するという事実はあり続ける。受け入れるべきだとは彼女自身もわかっている、その方がライジェルにとっても楽だから。だが、そうもいかないのはライジェルがまだ大人でないため。ライジェルが完全な子供であったなら、嫌だ嫌だと喚くこともできるだろう。だが、子供でもなく大人でもないその中間の微妙な時期にいるライジェルには、とても複雑なのだ。
うつむいて黙りこくったライジェルを、レギュラスはただただ優しく見つめていた。その静かな時間は、ルシウス一家が到着するまで続いたのだった。
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