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▼ 渇望

『別れてください』

 ただ一言だけを残して、五十嵐弥生と一年間付き合っていた恋人は、モジャモジャ頭が特徴的な編入生と新たに愛を育み始めた。こうもあっさりフラれるとは夢にも思わなかった弥生のその日の記憶は、ノイズがかかったように不鮮明だ。
 何もかも忘れてしまいたい、と自室にまで仕事を持ち帰って、朝まで一心不乱に溜まっていた仕事をやり続けた。溜まりに溜まっていた仕事がすべて片付いたことに達成感を覚えた反面、いっそボロボロに泣きじゃくることが出来たのなら、どれだけ気分が楽だったろうかと考えて、再びチクリと胸が痛んだ。
 編入生が来てから会計、書記、庶務はだんだんと生徒会室に来なくなり、唯一、副会長だけは仕事をしてくれていた。
 例え他の役員が仕事を放棄しようとも、副会長が居てくれるのなら耐えてやろう。そう思った矢先のことだった――副会長から聞きたくなかった言葉を突きつけられたのは。

『もう貴方と居ても楽しくないんです』

 その日から誰も生徒会室には来なくなった。今までの自分の努力とは一体何だったのか。ただ、生徒会室に顔を出して仕事をしてくれさえすればいい。しかし、それすら叶わない。

「くそっ……」

 それが一週間前に起こった出来事だ。一人、生徒会室でその日のことを思い出して悪態を吐く。
 その時は、何を言われたのか、すぐに信じられなかった。眉目秀麗、頭脳明晰、文武両道――まさに完璧と言える生徒会長である自分が、あのモジャモジャに劣る訳がないと弥生は思っていた。ナルシストと言われようが構わないくらいに、弥生には自分に絶対の自信があった。
 それなのに何故あんな不潔な髪型をしたダサいビン底眼鏡のうるさい奴を選ぶのか。その理由を聞くまでは納得出来ないと弥生は副会長に言い放ったのだ。恋人同士だった、と過去形にはしたくはないと弥生は思っているが、副会長が弥生と別れる理由としてその時に挙げたのが、『可愛くないから』の一点のみだった。
 確かに180cm以上ある身長に男前と言われる顔つき、どう見ても可愛らしさはない。だが、それを言うならモジャモジャだってどう見ても可愛くない。というか、男に可愛さを求めるな。
 そう言えたなら良かったのに、残念ながらそうは言えない展開になったのだ。

『オレっ! ずっとみんなを騙してたんだ、ごめん!』

 何を騙していたと言うのか。耳の痛くなるような声のボリュームに弥生は苛立ちを覚えながら、モジャモジャのいる方へ振り向けば、そのモジャモジャは宙を舞っていた。
 いや、彼本人が吹っ飛んでいる訳ではなく、モジャモジャとした髪の毛だけがふわりと弧を描いて床に落ちたのだ。
 なんと編入生はモジャモジャから金髪碧眼のハーフに進化したのだ。なんてこった。黙っていれば西洋美術に登場するような天使のようだ、見た目だけは。中身は最悪だ。
これと比べられたら確かに『可愛らしさ』という観点では、圧倒的に弥生は『可愛くない』となる。既に弥生には為す術がなかった。
 この後の展開は想像出来るだろう。新聞部が一大スクープだと張り切って一面で弥生の失恋を報じ、副会長は丸一日編入生にべったりで、それはもう精神的にごりごりと削られた。
 よくよく思い返せば、副会長とはキスまでしかしていなかった。それに、特に恋人同士らしいことをした記憶もない。副会長から好きだと言われたことがあったのか、それさえ曖昧になっていて――愛情なんてものがそこに存在したのかすら分からなくなってくる。
副会長にフラれた上に、役員達に仕事もさぼられ、弥生に残ったのは山積みにされた仕事だけだった。机を埋め尽くす白い束に、眩暈がした。



 職員室まで書類を提出しに行った帰りのことだ。歩きながら生徒会顧問に言われた内容を忘れないようにメモを取ろうとして、弥生はうっかりペンを落としてしまった。弥生がやれやれとペンを拾おうとするより早く、他人の手がそれを拾い上げて弥生の前に差し出した。

「落としてますよ会長」
「は?」
「どうぞ」

 ばっと顔を上げた先に居たのは、明日になったら忘れていそうなくらい特徴のない生徒。よく見てみれば、モジャモジャに絡まれていた平凡な生徒だ。
 名前は何だったか思い出せないが、当たり障りなく彼は編入生を躱していた。人の話を聞かない、発言する内容が支離滅裂なあの編入生をうまく納得させているのを見かけた時は、純粋に宇宙人相手に会話を為せるものなのかと彼を尊敬した。

「ありがとな」
「いえ、これぐらい当たり前ですよ」

 弥生にペンを渡すと、彼はにっこりと微笑んだ。こうして穏やかな笑顔を向けられるのはいつ以来だろうか。
 突き刺さるような侮蔑の表情か、下心満載の甘く誘うような表情ばかりを見ていた所為で、しばらくの間、弥生はまじまじと相手の顔を観察してしまった。
 当然、平凡な容姿の彼は突然黙り込んでじっと見つめてくる弥生に困惑した様子を見せた。

「あの、顔に何か付いてますか?」
「いやっ、何でもないんだ」
「そ、そうですか……」

 指摘されてはじめて弥生は自分の失態に気付き、相手が驚く程ぶんぶんと左右に頭を振り、否定した。その必死な様子に彼はくすくすと笑みを溢した。

「お仕事、大変でしょうけど応援してますから」
「え? あ、あぁ……」
「無理はしないでくださいね」

――急に何を言い出すんだこいつは。
 そう弥生は思ったが、すとんと収まる温かい言葉に視界が滲みそうになった。それに気付いたのか、彼は弥生の両手を包み込んで握り締めた。

「俺でよければ会長を支えます。今みたいに悲しませたりもしない、だから泣かないで俺を頼ってください」
「なに、いって……」
「会長が実は泣き虫で寂しがりやなのも知ってます。俺ならずっと会長を甘やかせられます」

――俺は会長の味方ですから。
 優しく微笑まれると、手を差し伸べられると、その手を取ってすがりたくなる。悔しいことも、悲しいことも、すべて吐き出せたらどれだけ楽だろう。
 この男のことは、ほぼ何も知らない。それでも、冗談でこんなことを言っているのではないというのは分かる。
 真っ直ぐで、決意に満ちている目。嘘を吐いているとは思えない。それに彼がもし仮に弥生に嘘を吐いたところで何のメリットもない。彼が本気で言っているのだとしても、弥生は素直にその手を取ることは出来なかった。

「悪いな、俺はまだまだこれしきでどうにかなったりはしない」

 どんなに望もうと帰らない待ち人を、今日も諦め切れずに待っているのだ。ずっと、静かな生徒会室で。単なる自分自身の我儘だと分かっていても、その内いつかは普通にまた生徒会の役員として一緒に仕事が出来る日が来ると。

「……本当に無理になったらいつでも頼ってください」

 それだけを言い残し、彼は一礼をして去っていった。
 どうしてそんな考えは馬鹿げているとは言わないのか。その時は、それが彼なりの優しさであるということに、弥生は気付くことが出来なかった。否、気付いていないフリをしていた。
 弥生は今、自覚したのだ。自分が思っている以上にネガティブになっているのだということに。頼ったその手をまた突き放されたら――それを考えると、とても立ち直れそうになかった。
 そんな考えは止めだ。ぐいぐいと頭の隅に追いやって、今日中に終わらせなければならない仕事を引っ張り出す。生徒会室にはまだ書類が残っているのだ。

「あとは部活予算か……」

 スケジュールを脳内で組み立てながら、すらすらと覚え書きに書き止める。そこそこ仕事は捗ったものだと弥生は思っていたのだが、それなりにやることはまだまだあるようだ。自らの字で埋まったメモ用紙を見て、ハア、と思わず深い溜息が漏れた。
 音を上げそうになる自分を必死に抑え、弥生はまた生徒会室へと向かった。




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