現在時刻は夜の八時を過ぎた頃、メグミチャンの部屋から出た後車を走らせやって来たのは…吉野くんのご自宅だった。

離れた場所に車を置いて暫く歩けば、吉野くんの住むアパート。アパートのロータリーの近くにしゃがみ、スマホの電源を入れてトークアプリを開いた。

『外出れる?』

挨拶も無く、短いメッセージを入れればすぐに既読がつく。
『どうしたの?』という返信に、『待ってる』とだけ打ってスマホをポケットへ仕舞う。

どうしても、今日会っておきたくて来てしまったのだ。

今日の仕事でよく理解した、私はもう三日も持たない。
今の私の記憶には存在しないはずの、"いつかの私の記憶"がフラッシュバックした。それだけでは無い、レストアをするために生存本能よりも維持本能を優先しているはずの私が、今、消えていくことに怯えている。
もしかしたら記憶に無いだけで、過去の私も末期状態には存在が消えていく恐怖心と戦っていたのかもしれない。

怖いけれど、ショックでは無い。
だって、私って初めからそういう物でしょう?
魔法がとけてしまうのと同じことだ、魔法がとけたなら何度でもかけ直すしか無い。

明日、七海さんが遭遇した呪霊に動きがあって、戦うことになったのなら……そこが私の死に場所になるかもしれない。
人には逃れられぬ運命がある。だから、これは最期の我が儘だ。
私が消えて、吉野くんが悲しまないように。後悔無く、終わるために。

ガチャッと扉が開く音がして、瞑っていた目をゆるりと開いた。
私が立ち上がる前に、ロータリー前の扉から飛び出るように道路へ出てきた吉野くんが現れる。あ、部屋着だ。
いたっていつものように、特別なことでは無いように振る舞って、私は「こんばんは」と挨拶をした。

「どうしたの、こんな時間に。もしかして、具合悪いとか…?」
「いいえ、会いたくなっちゃって」

自然な動きで差し出された手を当たり前のように取り、立ち上がる。
思えば、吉野くんは一度だって私への違和感を理由に拒むことは無かった。そうすることが当然のように、この汚れきった手を何度も繋いでくれた。
私も、この手を離したく無い。吉野くんがいて、二人で映画を見て、学校へ行き必要性を感じない授業を受ける。そんな日常さえあれば、他には何も望まない。

でも、何もかもが叶わない。もう時間が無い、だから私は名残惜しくともこの手を離す。

スルリとほどけるように、取った手を離して吉野くんを見つめた。

「吉野くん…」
「……あのさ、僕も話したいことが…」
「いえ、ちょっと待ちなさい?」

一瞬で違和感を感じ取る。
待て、何だこれは。
こんなのは聞いてない。
それを認識した瞬間、胸の内に衝動的な怒りが沸き上がってくる。

「……どうして、私の吉野くんに他人の手垢がついてるのよ」
「…え?」

思わず、おもいっきり眼光を鋭くして睨み付けた。
いきなりのことに狼狽える吉野くんを無視して、詰めよって行けば後退りをするが、すぐに壁際へと追い詰める。
逃げ出さないように力を込めた両手を叩き付けるようにして壁について囲み、頭の天辺から爪先までじっくり確認するように見回した後に、とうとう品性など無視して大きく舌打ちをした。

ッチ!!誰よ、一体何処の恥知らずな不届き者が手を出し………いえ、この残穢には見覚えがあるわね。七海さんと会敵した呪霊の物だ。
最悪、最悪だ。吉野くんが…こちらと敵対する存在と接触していた。高専に連絡…いや、七海さんには休んで貰わないといけないし、虎杖悠仁が関わっているから他の呪術師を無闇に動かせない。五条さんは手が空いていないだろうし……それに、吉野くんのことを一番知っているのはこの私だ。
あと三日で終わるだとか言ってられない、吉野くんのささやかな日常を呪霊ごときに壊させはしない。

「あの、菊池…?僕、何かした?何かしたなら謝るから、とりあえずその、退いて貰えないかな……」
「…浮気者」
「う、うわきっ!?」
「他の男の匂いがする…」
「え、ちょっ……!」

ピルピルと照れか恐怖か、やや震えるように身を縮める吉野くんの首筋に鼻を寄せ、クンクンッと嗅ぐ。臭い、呪霊臭いわね…。
絶対ろくでもない呪霊だ。私の…私の可愛いお姫様に手を出しやがって……許さない、絶対に許さない。腹かっさばいて自分のモツを食わせてやる、ハンパ無い恐怖を味合わせて、それから切り刻んでただのクソ雑魚呪霊として書き換えてやる。

不快を顕にするように、寒々とした空気を纏いながら、業腹を圧し殺して言葉を発する。

「吉野くん、泥棒猫に伝えておいてくれるかしら…」


狼狽える吉野くんの瞳を真っ向から捉えて彼の右手をスルリと捕まえると、尊い物に触れるかの如く、忠誠を誓う騎士のように手の甲へと唇を寄せ、口角をゆるりと挙げながら呟いた。

「この子にはもう私がツバつけてあるの、横取りしたら戦争を仕掛けてやるわ、首だけじゃ無く爪の先まで綺麗に洗って待ってなさい……って」

私のお姫様を呪霊なんぞにやるものか、お前にやるくらいなら私が果てまで拐ってやる。

「ぁ」と小さく声を漏らした顔を真っ赤にした吉野くんから離れて、もう一度私は彼に誓う。

「貴方の日常は、私が必ず守るから」



じゃあ、おやすみなさい。それだけ言うと、砂子は順平が瞬きをする間に風だけを残して夜に消えてしまった。
唇を寄せられた右手を見つめて、左手の甲で頬を押さえる。

「なんだったんだよ……」

こうして吉野順平の長い一日は終わる。
しかし、少女の一日はまだ続く…。



___




吉野くんの家が見張れる場所に腰を下ろし、暗視スコープを覗きながら一晩見張りをすることに決めた。

あの残穢がベッタリ張り付いた感じ、明日を待たずに事態が動くかもしれない…と、予測を立てる。
心の中のス●ローン達も「きっと来るぜ」と言っている。その言葉を信じていいのか…?とやや悩めば、「お前さんがオヤジのオッパイ吸ってた時から、こういうことは俺が一番よく知ってんだ」と返って来る。私が父さんの胸を吸ったことは無いと思うけど、ここは頼もしい仲間(心の中にしか存在しない)を信じようでは無いか。
いつでも動けるようにクリスマス(MODカラカラ)を握り締めた。なにせ住宅街だ、なるべく発砲は避けるべきだろう。

気配を殺し、闇に紛れる。

もし仮に呪霊が現れたとして、相手が人型では無かった場合、ナイフに呪力を込めてゴリ押しするしか無い。

夜の空気が濃くなっていく、空を棚引く雲が月を覆い隠す頃、呪いの気配が強くなった。


来たか。



待ち伏せていた状態から、足に力を入れて屋根や壁を蹴り、吉野家の前に静かに着地する。そのまま勢いを殺さずに吉野家の鍵をナイフで破壊した。

音を殺して滑るように室内へ入り込む、リビングの扉を開いた先、そこには案の定……。

「……指?」

凪さんの背後を取る呪霊、そして凪さんの側に物凄く強い呪力を感知する。
呪霊が凪さんへ手をかける寸前、スカートの中から取り出したスローワー(投げナイフ)に呪力を込めて投擲した。

実にアッサリと呪霊の頭部へヒット、しかし…ダメージはほぼ無いと言っていいだろう。
しかしこれで良い、こちらに意識を向けられたならばそれで良し。

ズルズルと、みっともない姿を晒しながら呪霊が振り返るのに合わせて、私も腰を落として動く。
タッと軽く小さな音だけ残し、一瞬にして凪さんの側まで距離を詰めた。
音に反応して振り向いた凪さんに人差し指と中指を添えて、術式を発動させる。
脳の状態を「睡眠状態」へと書き換えてしまえば、彼女はアッサリと深い眠りに落ちた。
頭を打たないように手を添えてテーブルに頭を置いてやり、彼女が手に持っていた指を抜き取る。

「…何処からこんな物を」

蝋のような材質となった人の指の形をした物。はじめて見たが…恐らくこれが、特級呪物「両面宿儺の指」
だろう。これを持って逃げるか、凪さんを連れて逃げるか……もしくはそのどちらもしなければならないのだが、しかし、選択をする前に呪霊がのそりと動き出す。
私へ向かって襲い掛かって来た呪霊の攻撃を小さな動きで音も無く避け、ナイフを構える。
呪霊とは、人間よりもずっとシンプルな生き物だ。彼等には痛め付け人を殺すという目的しか存在しない。両面宿儺と呼ばれた呪霊もそうなのだろうか、だとしたら…人間よりも呪霊という存在は、個々としては発達していても、種としては進化を重ねられていないのかもしれない。原始生命の抱く欲求に近い物を持っているのかもしれないと感じた。

「嫌ね、戦いは不毛で」

小さく呟き、腋を締め、体重を乗せて呪霊を斬りつける。
浅い、しかし良い。ナイフでの戦闘で一番気を付けなければならないことは、決して大振りにならないことだ。浅くとも、何度も斬りつければ重いダメージとなる。

地を這うように、体勢を低くして、地面スレスレに。
音を殺し、息を殺し、影のような閑寂さを持ってして、相手の動きを予測し、最小限の動きで、表面を削ぐように何度も斬りつける。
凪さんを意識しながら戦うのは想像以上にキツい、それに、人間じゃ無いから何処が急所なのかイマイチ分かり辛い。

そうこう考えながら戦っていればナイフの刃をパキンッと砕かれた。すかさず二本目を取り出し、攻撃を仕掛けて来た呪霊を睨み付けて迎え撃つ。

しかし、破壊力のある粉砕せしめんとする強い攻撃により衝撃が加わる、攻撃に耐え切れなかったナイフが折れる音が聞こえると同時に、足元を何かに掴まれた感覚がしたと思い下を見たのがいけなかった。

両面宿儺の指を持った方の肩に向けて正面より猛打の攻撃がやって来るのを見逃し、マズイと思って身を捻ったが、その攻撃はブラフだったのか別方向から与えられた一撃を直に受けて体勢を崩す。
痛みに身体を痺れさせた一瞬、呪霊の刺し通すような威力のある攻撃が腹と肩を鋭く貫いた。

飛び散る鮮血が眠る凪さんへと降りかかる。太い血管をやったのか、動脈近くだったのか、派手に血が噴いて出た。
ボトボトと流れ出る赤い液体が、フローリングに血溜まりを作っていく。
瞬時に痛みをかき消すよう脳に書き込み、次いで残りの私の存在期間が減ることも厭わず、急速に自己補修をするよう書き込んで腹の傷を無理矢理に塞ぎ、肩の血を止める。倒れないようにと足の裏に力を込めて踏み留まり、壊れたナイフを床に捨て、敵を改めて見据えた。
こんな時でも…いや、こんな時だからこそ、頭の中のエクスペンタブルズは「追っ払えるか?」「戦車でもありゃな」と呑気に会話を繰り広げている。そうね、戦車でもあれば良かったわね。でも…コイツ相手ならもっと良い物があるわ。

これだけ呪力を纏わせ斬りつけながら相手の情報概念へ触れ続ければ、嫌でも相手のデータは読み解ける。
情報は時に命よりも価値のあるものだ、呪霊には分からないだろうがな。

両面宿儺の指を握ったまま、私はもう片手で右目がよく見えるように前髪をかき上げた。

呪力は食うが仕方無い、やるしか無い。


呪霊が人間から生み出された「生命」と仮定して、無理矢理に全ての生き物と共通の祖先を持つ存在として書き換えるこの技は、相手を八割くらいは理解しなければ発動しない大技だ。
生物進化による生命の起源を論じ、それを無理矢理呪霊に当て嵌める。

右目に呪力を込めて、一度閉じる。瞼の裏に広がるは、太古の地球上に存在した原始の海。アンモニアガスやメタンが化学反応を起こし、アミノ酸や核酸などに変化していく、そうしてさらにより複雑なたんぱく質や遺伝子などへと発達していき…地球が誕生して17億年、海に宿るは原始生命体、バクテリア…古細菌。
揺らめく、始まりの海の光景。
迫る攻撃が当たるギリギリの瞬間、術式を発動させるため、私は瞳を開いた。


「激変説」

静閑な声で、月の光以外に聞こえないように、ひそやかに呟く。
呪霊の攻撃が目の前ギリギリで止まり、殺しきれなかった風圧が私の髪をフワリと浮かせ、靡かせた。


そして始まる退化の儀式、進化への否定。
既存の生物郡を元に適応され、無理矢理に形を変えていかれる細胞の形態、代謝系、ゲノムサイズに至るまでの全て。
アミノ酸と核酸、脂質が肉体を司っていく。
魂が還りしは母なる海、生み出すは血潮と肉体。

呪霊は怨嗟声をあげることも出来ずに、ミチミチと肉が潰れるような嫌悪感を駆り立てる音を立てながら、哀れにも「私が殺しやすい肉体」へ変えられていく。


しばしの後に、完全にただの肉塊へと変貌を遂げ、無理矢理生命として成り立った存在を、私は最後のナイフを取り出して貫きトドメを刺した。

グチュリ、と音を立てながらナイフを引き抜き、絶命した肉塊を持ち上げる。
家の中を散々な状態にしてしまったが、とにかく両面宿儺の指を何とかしなければ。高専に届けないと……血を流したせいでフラつく足を叱咤して吉野家を静かに後にする。

両面宿儺の指をポケットに雑に突っ込み、肉塊を片手に持ちながら一人ひたすらによろめきながらも車へ向かった。

この分じゃ明日は大変なことになりそうだ、七海さんを休ませておくことを選択しておいて良かった。
とりあえず、高専に連絡をして…それから指を回収して貰って、私も一回休まないと…流石にキツい。


車へとたどり着き、シートに座った所で急に耳鳴りがしたと思えば、息を切らした。
オエッと一度嗚咽を吐いてしまう。
吐き気がする、苦しい、上手く…息が吸えない。
浅い息を何度も吐き、グルグルとまわる視界から逃れるために目を瞑れば、脳裏にまたいつかの記憶がフラッシュバックする。黒い髪の男がしゃがんで私を見ている。誰だ、こんな記憶、知らない。

……これは、私が塗り潰した過去の思い出なのだろうか、それとも。

指先がカタカタと痙攣し出す。身体が熱を持ったように熱いのに酷く寒気がする。唾を無理矢理飲み込み、発作の波が過ぎるのを待った。
肉体が限界だ、もう全く役に立たないだろう。今すぐにでもレストアを始めなければいけないことは分かっているのに、その判断を下せない。
だって、今ここでレストアを始めたら明日どころか一週間以上何も出来なくなる。それじゃあ困るのだ。私は…私が、吉野くんを守るんだから。

連絡も運転も出来ない状況で、私は一人、真夜中に車内でひたすら身体を落ち着かせ続けた。何度も自分自身に大丈夫だと言い聞かせる。
そうして、どれくらいか時間が経過した頃、呼吸が穏やかになるにつれ抗えない睡魔に襲われ、そのまま眠りに落ちた。

こうして私の長い一日はやっと幕を閉じたのだった。

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