5-2


ふわふわの猫毛に鼻先をグッと埋め思い切り息を吸い込めば、懐かしい香りが胸いっぱいに広がった。

そう、これ。これだよこれ…!
この、何故かは分からないけれど香ってくる赤ちゃんみたいな匂い。幼児用粉ミルクとか、ボーロとか、マミーとか…あの辺の甘さとすっぱさが合わさった香り。
あ〜〜〜〜たまらな〜〜い。一生嗅いでた〜〜い。フレグランスとして売り出されて欲しい、真知ちゃん臭。

「すぅ…はぁ〜〜〜〜」
「息が、きもちわるい…」
「真知ちゃんだ、真知ちゃんがいる…どうしよう、感動で泣きそう…」
「わたしは気持ちわるさで、はきそう…」


というような感動の再会を果たしていた真知と五条は、京都校のメンバーからドン引きの眼差しを受けながらさっさと去って行った。真知は姉に申し訳無さを感じた。お姉ちゃんごめん、特殊な性癖を見させてしまって…。

説明などせずとも六眼は目の前のあらゆる事情を見て取れる。そして、見た全てを理解出来るだけの頭脳を持っている。
全てを察した五条は、薄汚れている真知の小さな足先を車の中で手づから拭きながら、「おかえり、大変だったね」と労ってやった。

「全く…どんな奇跡を辿ればこんなんになるんだか。流石の僕でもビックリだよ」
「奇跡なんかじゃないよ、ただの地獄めぐりだった」
「それにしては随分穏やかそうね?」
「まあね、良い縁にめぐまれたから」

五条を見ずに、窓ガラスの向こうをジッと見つめながら会話を返す真知の見た目は、五条が最後に見た時よりも随分と幼くなってしまっていた。
大体十歳前後の頃だろうか。だが、その表情は随分と大人びた落ち着いたものであり、精神年齢の高さが窺える。

知性を宿した瞳はやや紅みを帯びており、酸化した血のようにも見えた。
髪の一本一本から、指先まで。その全てに巡る数多の呪いの縁に、五条は笑顔の下で小さな悲しみを抱く。

この少女は、あまりにも最悪な真似をされたのだろう。
どんな悪縁を手繰り寄せれば、こんな数奇な運命に絡め取られるのか。

澄ました顔で流れる景色を見る真知は、今や五条の目には「運命に遊ばれた成れの果て」に見えて仕方がなかった。
そう見えてしまえば最後、純粋に可愛いと言って構うことはもう、難しいのだろう。

悲哀を含んだ五条の視線は真知の横顔を撫ぜる。
鈍感ではない少女は視線の意味に気付き、笑い声を含ませながら振り向いてみせた。

「そうやって、他人のことばっかり憐れんでる余裕あるんですか?大変なんでしょ、いま」
「もしかして、もう聞いてた?」
「いや。でも、真衣姉さまが話題さけてたから、察してはいるよ」
「なら話しちゃうか、実はさぁ…」

そして五条は話し出した。
真知が居なかったこの数ヶ月の出来事を。

それは真知にとって、新たな試練の幕開けとなるのだった。



___



僕の話を静かに聞き終えた真知ちゃんは、一度呼吸を整えた後に、暫し悩むような素振りを見せてから、冷めた瞳をしてこう言った。

「よし、一発あの人をなぐろう!」
「良かった、丁度僕も傑を殴りたかった所なんだよね〜!気が合う〜!」

手の平を差し出せば、パチンッと小さな手が勢い良くハイタッチしてくれる。それがどうにも僕の気分を良くさせ、求めるがままに小さな身体をムギュリッと抱き締めれば「おもい!!」と、遠慮無く肩を引っ叩かれた。

真知ちゃんに話した内容とは、伏黒甚爾と夏油傑の行方についてだった。


彼女が不幸に見舞われ、その身体から魂を手放した日のうちに連絡が取れなくなった二人は、後日高専と敵対する意志を見せてきた。
彼等なりに崇高な理由はあるのだが、引き金となったのは真知ちゃんの存在に他ならない。
とくに伏黒甚爾については、真知ちゃんを突然失った事実を受け入れた結果、真知ちゃんがいないのならば高専に用などもう無いと言わんばかりに話が通じなくなっていた。

そうして一週間前、とうとう彼等は高専と全面的に争うために宣戦布告を行ってきたのだった。


という話を聞いた真知ちゃんは、僕が思ったよりもずっと冷静な様子であった。
当たり前か。この子は最初から酷く冷静で優しい人間だった。冷たくて甘い、アイスクリームみたいな子だと僕は思っている。

他、様々な状況を共有し合った後、真知ちゃんは自身の身に起きたことについても僕に教えてくれた。
その内容は俄には信じ難い話であったが、しかし、他でもない彼女が語るのだから信ずる他ないだろう。
何せ、真知ちゃんの魂はルールを無視した色形をしているのだから。
呪いと呼ぶにはあまりに輝いていて、異能と呼ぶには完璧過ぎる。
言うなれば、神秘。彼女はもうこの世には存在しない、果て遠き神秘の体現者なのだと、僕は解釈している。

そんな超ミラクルスーパーレボリューション魂を持った真知ちゃんは、自分の話を語り終えた後に溜息を吐き、先程よりもさらに冷めた瞳でこう言った。

「はぁ…やっぱり、あの人を選んどけばよかったかな……」
「ちょっと!僕というものがありながらそんなこと言わないの!!」
「選ぶ世界をまちがえたかもしれない…」
「酷い…!僕との関係は遊びだったっていうの!?」
「段々いろいろ、面倒になってきた…」

瞳は冷めた色から虚無虚無の虚無へ。
本当に現在自分が置かれた状況を面倒臭く思い始めたのだろう、真知ちゃんは身体を脱力させて車のシートへ深く座り込む。

「というか私、思うんだけど…」

とうとう目を瞑ってしまった真知ちゃんは、やや眉間に力を入れながら言った。

「戦闘予定日とかムシして、はやいとこぶっとばしに行くべきなんじゃ…」
「どうしたの真知ちゃん…!あっちの世界で何を学んで来ちゃったの真知ちゃん…!!」

いやだってさぁ…と、真知ちゃんは腕を組み難しい顔をする。

「傑さんについては悟くんが頑張るしかないと思うんだけど」
「うん」
「あの人については…とっとと殴るなりしてわからせた方がいいかなって…」
「真知ちゃん?どうしたの、何か嫌なことでもあった?話聞くよ?」

どうやら、僕が思う以上に真知ちゃんはキレているらしい。

あまりにも普通にしているから分かり辛いが、真知ちゃんは確かにキレていて、それ故に頭を働かせているらしかった。
多分、今彼女の脳内では恐ろしいスピードで「対伏黒甚爾」の対策を練っているのだろう。そして恐らくだが、その対策は僕達が用意していた最善の策よりも効果が期待出来るはず。

正直に言って、今の真知ちゃんがどれ程の強さなのかは知らない。
だが、別の世界とはいえ呪胎九相図三体の血を糧とし、そして己の術式の真の形と向き合い、さらには魂と肉体の関係性を導き出したのだ。並大抵の成長はしていないはずだ。

だが、しかし。

「…ごめんね。でも、真知ちゃんが頑張る必要なんてもう無いんだよ」
「…それは、どうして?」
「僕も、皆も…君にはもうこれ以上傷付いて欲しくないんだ」
「…そうなんだね」

柔らかな髪を指で梳きながら言えば、普通の顔した真知ちゃんは大人しく言葉を返した。

分かっている。
今の言葉が教師として、先人として間違っているなど、十分に分かっている。
けれど本音を隠し通すことは不可能だった。

奇跡とも呼べる再会は、きっと二度は訪れない。
もしまたこの子を失うとしたら、その時こそこの世界を嫌う理由が出来てしまうだろう。
僕を含め、様々な人間が。

元々戦いに向いている性格でも身体でも無かった。
ならば、今更この子が戦う必要は何処にも無い。傷付き、体調を悪くするのも、もうやめにして欲しい。

彼女が倒れる度に、ベッドに横たわる姿を見に行った。
その度に、この子がこうまでして擦り減らされる現実に疑いの眼差しを向けそうになった。
けれど、これは彼女が望んだ彼女の在り方なのだと自分に言い聞かせ、今日までやり過ごしてきた。

傷付いていたのは真知ちゃんだけではない。

傷付く真知ちゃんを見て、皆が傷付いていた。

それはきっと、いつか終わらせるべきことなのだと、僕はずっと前から思っていた。


「ごめんね、そしてありがとう悟くん」


けれど。


「でも私、甚爾さんのこと助けてあげなくちゃいけないんだ。家族だから」


真知ちゃんは、僕達の思いを知ってなお、微笑みを浮かべてそう言った。

「うん、知ってたよ。真知ちゃんはそう言うって」

知っていた。
誰をも愛す彼女にも、譲らぬ物があることを。

そんな彼女だからこそ眩しくて、美しくて、大好きだと僕達は言えるのだ。

そして、どうしようもなくあの男には敵わないのだと、痛感するのだ。


「あ、みて悟くん、雪が舞いはじめた」
「そうだね、寒くない?上着貸そうか?」
「だいじょうぶ。今の私、結構鈍いから」
「それは理由になってないよ、ほら」

小さな手を取る。脆い指先は震えそうな程に冷たくて苦笑してしまう。
上着を脱ぎ真知ちゃんの身体に被せてやれば、彼女は嬉しそうに笑って僕の上着を手繰り寄せた。

「いい匂いだ」
「そう?なら良かった。あとで温かい飲み物も買ってあげるから、少し待っててね」
「うん、ありがとう」

優しい声で言うお礼の言葉には確かに愛が籠もっていて、その愛は万人に向けられているのに、何故あの男にだけは違うのだろう。

何故、僕では無かったのだろう。

何故。

mae ato
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