「っ、きみ、なに……」
ゆびさき、かと思ったが、違った。
かすかに感じる呼気のせいで、それが唇だと男は気付いた。そしてそれと同時に、グラスがテーブルの角に当たる。がしゃんと音を立てて、グラスが砕けた。
それとどちらが早かったか――男のからだは、ゆっくりと柔らかなソファに横倒しに倒れる。女は、それを静かに見下ろしていた。
「――終わった?」
奥に続く扉がしずかに開いて、若い男の声がした。
「うん」
女は静かに頷く。
バーテンダーの服を着たその男は、女の横に並んで、倒れた男を見下ろす。胸の上下で、生きていることは知れた。
「どうだった?」
「あまり……美味しくはなかった」
男は唇を小さくゆがめた。それは、その男にとっての最大限の感情表現だった。
「今日は、まだ?」
「ううん、終わり」
会話をしながら、バーテンダーは、倒れた男を担ぎ上げた。
「じゃあ一緒に来るといい」
担いだ体はあたたかく、やわらかい。バーテンダーは、続ける。
「自分が食い散らかした男がどうなるか、見てくれよ」
「うん」
女は笑んで答えた。バーテンダーはいとも簡単に男のからだを担いだまま、裏口へと向かう。出口には車が置いてある。後部座席に男を乗せる。女が助手席に乗ったことを確認すると、バーテンダーは車をスタートさせた。
「美味しい魂って、どんなの」
バーテンダーは問いかける。女は応える。
「子供の。でも、子供のは食べない」
「なんで? かわいそうだから?」
ううん、と、女は首を横に振る。
「子供の親は……、ときどき、私を、みつけるから」
「ああ……愛とか、いうやつ」
「そう」
女はため息をつく。
「私だって、食べなきゃ、生きられないのに」
ただ、唇を首筋に寄せるだけ。
何の苦痛も、恐怖もないのに。
人殺し、って、責めに来るから。
子供を食べるのは、きらいなの。
「美味しいのにね」
そこまでを、女がぽつりぽつりと語り終えるころには、バーテンダーの運転する車は、橋の上についていた。
不思議なほど、車もいなければ、人もいない。
新しく大きな道路ができて忘れ去られた、みじめな旧道。
そこに、車はとまった。
バーテンダーは無言のまま、後部座席の男のぬけがらを引っ張り出した。
女は、車からは降りたものの、手伝うことはしない。
橋の欄干に座って、バーテンダーのすることを静かにみつめていた。
そのからだはまだ、あたたかい。
けれど魂はないから、何も、感じない。
生きてはいない。
ばしゃん、と、大きな大きな水音がして、男の体が水に沈む。