Act1-21


なまえが呪霊に呑み込まれてこちらにやって来て間も無く一年が経とうとしていた。
なまえにとって初めての繁忙期は目の回る忙しさで、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと関東を中心に遠方まで呪霊や呪詛師の案件に駆り出されていた。
星漿体の一件でいたんだ胸の内をそれぞれが秘めたまま瘡蓋となってある者は完治し、ある者は傷痕をたまに思い出し、ある者は瘡蓋が治りきる前に剥がして傷を確認していた。
そんなことも何一つ互いに共有することなくそれぞれがそれぞれに与えられた任務をこなし目の回る忙しさになんとか対応しているうちにその一件は暗黙の了解でタブー視され、誰も口にすることはなかった。


「つかれたあああ」


埼玉での呪霊跋除任務に始まり、周辺の関東近郊をそのまま一周するのかという勢いで代わる代わるに交代していく補助監督に連れ回され、そのまま甲信越地方の呪具回収任務、ついでとばかりに北陸地方の田舎町の呪霊跋除任務に回され、そして極め付けに北海道のアイヌ呪術連との合同任務に飛ばされた。とりあえずなまえは一月以上も高専を留守にしていた。
飛行機に揺られ迎えにきた補助監督の車に乗り込む頃には体力馬鹿と周囲に言わしめるなまえもさすがに疲労の色を滲ませていた。大きなため息とともに吐き出した言葉に同乗し、車を発車させた補助監督はなまえの連勤ぶりを知っているのか眉根を下げ、苦笑まじりに「本当にお疲れ様です」と労りの言葉を投げかける。


「ホントにありえないでしょ〜私何日働いてるんですかね?」
「えっと、ちょっとお待ちくださいね」


信号が赤になったのに合わせて車はゆるやかにスピードを落とす。運転している補助監督は助手席に置かれたビジネスバッグから資料を取り出した。


「ざっと47日稼働されてましたかね…」
「は?やばくない?呪術師って頭おかしいの?」
「ははは…頭が下がります本当に」
「いや〜補助監督さんも送り迎えやら資料作りやら大変ですよねえ」


信号がパッと変わり車は再び動き出す。合間合間に移動のついでに休息があったとはいえ、いざ47連勤と言われると蓄積された疲労がどっと体を襲う。
後部座席に深く腰掛けて窓辺に頭を寄せれば車の振動が絶妙に眠りを誘い始めてきて瞼がおちてきそうだった。「寝ていらして大丈夫ですよ」柔らかなトーンでかけられた言葉の意味を理解するまでにはなまえは夢の中にいた。






〈霞がかった視界の先には死屍累々な光景が広がっている。その中には異形、天人、人間、種族も何もかもがてんでばらばらで、自分が屠った記憶のある者もいれば、死にかけているところを見捨てた者、助けようと思っていたのに間に合わなかった者等、いずれにせよ記憶の底の底のもう忘れていたはずの存在も数多在った。

『天内、理子…』

無表情のまま、傷もなにもない人形のようなそれは一番目立つ場所にぽつんと捨て置かれている。罪悪感を覚えていた彼女を見つけ、思わず抱き上げれば体温も重さも何も感じない。屍と成り果てたそれは記憶に新しい人物のものだった。
自分が誰かの死にここまで心を惑わされるのは初めてのことだった。一言も話したことはない。親しかったわけでもない。だが、星漿体としてこの世に生を受けて、この世界の運命に振り回されて命を落とした少女に、何も感じないほどなまえは冷徹ではなかった。

『天元様と一緒になること、人間に殺されること、それとも他にあなたの未来はあったのかな』

助けてあげられなくてごめんね、言葉にすると胸の突っかかりが取れていく気がした。どこかケジメのようなものが心の中でつけられた気がして、天内理子はさらさらと砂のように両腕からこぼれ落ちていくのと同時に死屍累々の景色も消失していた。



『なまえ』


何もなくなってしまった景色に突如聞こえたその声に振り返れば、その声の持ち主が少し離れた場所にいた。霞がかる視界のせいで表情は窺えない。よく聞き覚えのあるテノールは自分を呼ぶとき、話すスピードよりゆっくり名前を紡いでくれる。余韻を感じるような呼び方をする。名前を呼ばれるとすぐにそばに行きたくなるようなそんな引力のようなものが働く声だった。

ぼやぼやする視界の中のその人が今どんな表情を浮かべているのか気になって思わずそばに寄った。
顔を近づければそれはいつかの、天内理子が亡くなった日に、次の次元へ到達してしまった彼の浮かべていた焦点の合わない美しい瞳を携えた表情だった。思わず息が詰まる。


『あいしてるよ』


あの日と同じ表情で同じ言葉を紡いだ彼に対して顔を顰めた。そういえば、そんなことを言っていた。あの時は別人のようになった友人へのショックで何を言われたのかきちんと理解していなかった。今のいままでそんなこと忘れていたし、あの後何度か話す機会のあった彼は一度もあの日のようなうっそりとした表情を浮かべることはなかった。脳がようやく思い出したかのような感覚だった。あいしてる、とは。〉



「なまえさん、到着しましたよ。寮でお休みになってください」


優しい声色が夢に堕ちていたなまえの意識を強制的に引き上げた。


「…ぇ?あ、はい、おつかれ、さまです」


ぐるぐるぐるぐる、脳内にずっとあの顔と声が張り付いて回っている感覚。そのせいで体はまだしっかり疲労を覚えてるはずなのに眠気はどこかへ行ってしまったようだった。



「あいしてるってなんだ?」




降車する定位置となっている場所に停められた車から降りてなまえは傘を広げる。なまえの表情を見て「寮まで行けますか?」と心配そうにこちらを慮る補助監督を制し問題ないことを告げてくるくる、と傘の手元を回しながら寮に向かって歩いた。その間も先ほど見た夢が脳裏を過ってはぶんぶんと頭を振り、自分の顔が誰かの視界に入りたくなくて、大きな傘の柄を肩に乗せ、何度も修理を経てつぎはぎだらけになった紫紺で表情を覆い隠した。
あまりにも深く考え込みすぎていたのか、傘の小骨に髪が絡まりつん、と引っ張られるような感覚が後頭部に広がったことで、思考が中断された。絡まった髪を解いて眼前を見やれば普段学生たちが鍛錬の場としているグラウンドについていた。無意識のうちに足が勝手に動いていたらしい。踵を返そうと視界のほとんどを占めていた傘を上げれば少し遠くで件の悩みの種が大きな目を見開いてこちらを見ていた。



「なまえ?」
「…久しぶり」
「ほんとにな顔色悪いぞ」



長い脚を使ってぐんぐんとこちらに近づく五条に思わず後退りしてしまいそうだったが、いつも通りの人を小馬鹿にしたような態度に少しホッとした。「オマエでもそんなに弱るんだな」なんてヘラヘラしている五条にあの日の面影は少しもなくてあれはやっぱり夢だったのだろうか、なんて思い直した。



「悟、ここにいたの、か、…ってなまえ?」



背後から聞こえたこれまた同期の声に振り返れば少し疲れた表情をした夏油が立っていた。彼も自分と同様任務が詰まっていたのだろうか。


「いまかえってきたの。二人はこれから任務?」
「いや、私も帰ってきたばかり」
「俺は昨日まで詰めっ詰め」
「わあ、みんな同じだねえ」
「今日はなまえも休みかい?」
「うん、そろそろ休みないと流石にキレそう」
「体力馬鹿なのに意外と根性ねえな」
「失敬なー顔色が悪いのは誰のせいー…あ。」


しまった。失言。思ったより疲れていたらしいなまえは追求される前にトンズラこくべしとそろそろと後退するもそれを易々と見送る同期ではなかった。
二人してニヤニヤと悪どい笑みを湛えて、五条なんかはどういうことか説明するまでは離さないとばかりになまえの細腕を引っ掴んだ。


「え〜〜いま解決しかけたところだったからマジでもういい」
「まぁそう言うなって。何?俺たちに会えなくて寂しかったとか?可愛いところあるねえなまえちゃん
「キッモ」
「うんうん、私たちに原因があるならきちんと解決しておかないとまた知らない間に気分を害されても困るしな」
「外道みたいな顔して言うことじゃないよ」


ほらほら〜ホラホラ〜言ってみな???とばかりにニヤニヤと詰め寄る二人を思わず地面に沈めようかとなまえは考えたが、疲れた体はもはやそこらの呪霊以上にややこしい二人とややこしいやりとりをする体力が残っていなかった。さっさと白状してまああわよくば「何それ夢の話?」とでも五条から言ってもらえた方が楽だなと考えて深いため息の後渋々と言った様子でなまえが口を開いた。



「…ねえ、五条」
「ん?」


五条から発せられる声は先程までのような揶揄いの色は含まれておらず、存外柔らかく、普段の人を見下すような態度とは百八十度異なる慈しみさえ感じるようなそれであった。それに嫌な予感を覚えながらもゆらゆらする自分の視線をスッと美しい双眸に焦点を合わせた。



「あいしてるって言った?」



なまえから五条に向かって発せられた言葉に夏油は思わず一瞬表情が抜け落ちた。ついに、言ったのか悟…!!心の中ではリンゴーンと鐘の音の幻聴まで聞こえてきた気がした。



「は?」
「いや、だから、あいしてるよって言った、よね?」
「俺、いつそんなこと言った?」



脳内に流れていた鐘の音はガラガラガッシャンと崩れ落ち、ふんっ、と思わず五条に拳を振り下ろした夏油は悪くない。術式の訓練中だったらしく無下限が発動していて防がれたが。最低だ、クズだ、ゲスの極みだ。何言ってんだお前は。と目で語るも「何すんだよ傑」とジト目でこちらを睨みつけてくる始末。こちらのセリフである。



「ふふっ、なんだそっか。そだよね。よかった」



方や当のなまえは安心したように破顔して笑い出している。それでいいのか、なまえよ。
その表情に五条は思わずピシリと固まった。
「あーなんか勘違いってわかって安心したら余計疲れた。疲れたから寝るわ、じゃ。」と言って寮の方向に歩き出したなまえの後ろで難しい顔をする五条。「アレ?もしかしてあの時言ったか?言った気がしなくもない。ノリで。なんかあの時は出来ないことないわって思っちゃって」などと供述しており。思わず夏油は拳骨で殴ったら今度は甘んじて五条は受け入れた。


「オマエッ手加減しろよッ!」
「悟が悪い」
「てかアイツ!安心したとか言ってなかった?無かったことにされてね?」
「悟が悪い」
「あ〜しくった、完全にしくった」
「悟が悪い」
「あ゛ぁ〜ッ!もう!うっせえな!わかってるよ!!」
「せっかくのチャンスだったのに」
「え?なんで?あんな安心してんの?あいつってまあまあ俺のこと好きなんじゃ?て思ってたけど違うの?」
「さあ?知らないよ」
「傑ほんと冷たくね?」
「なまえって人を好きとか愛とかの感情あるのか謎だけど」
「それはいえてら」
「悟にその感情があることも私は驚きだけどね」
「オマエほんと喧嘩売ってる?」



ギャースカギャースカ。ついに喧嘩に発展した二人は飛んでやってきた担任、夜蛾によって地面に沈められることになった。渦中のなまえはといえば騒動の有無など知らずに懸念事項が解決したとばかりに久しぶりの自室で心地よい眠りについていた。


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