幸せと泣いた日

やけに眩しい日だな、と思った。とはいえ、晴れ渡った空に煌々と輝く太陽はギラギラと攻撃力のあるような暑さを伴っているわけではなくて、透き通るやわらかい大きな布が空から伸びているような日差しだった。それがあまりにも眩しくて思わず目を細める。

自分の背格好に合わせて誂えられた毎日着なれたスーツではなく、人生でおそらく一度しか着ないだろう、驚くほど艶の乗ったフォーマルウェアに袖を通す。同じくきちんとオーダーして作られたはずなのに、喪服のような毎日着てるアレ以外のフォーマルスーツに袖を通すことなど、ここ最近ほとんどないものだからやたらと違和感を覚えて苦笑を漏らした。…もう何年も五条袈裟を選んで着ていた私には柄じゃない服を着ている気恥ずかしさと、すっかり、悟の隣であの黒スーツに馴染んでいる自分に。

「おー、似合うじゃん」
「………悟」
「ま、僕には負けるけどね。…てかなにその髪型。あいつの趣味?」
「ああ、いや、スタイリストがこの方がいいって」
「へー、そういや僕の時もヘアスタイルとか勝手に決まってたっけ」
「………」
「ていうか招待客両親と僕らだけって意外。オマエ目立ちたがりじゃん」
「彼女が、君たちみたいな派手なのは嫌だって全力拒否してきてね」
「あー、成程。ほんとよく躾されてんね、あれだけ好き放題してた奴がいまや一人の言いなりになってんのウケる」

軽い調子で笑う悟がテーブルに行儀悪く腰掛けた足を組み替えた。揶揄うような響きの割に、普段黒いサングラスで覆い隠されているはずの蒼が何の遮蔽物もなくこちらをまっすぐに射抜く。いつものように咎めるような何かを言いかけた口を一度閉じた。

「…………そんなことよりもさ、何か言うことないのかい、『おめでとう』とか『幸せにね』とかさ」
「はー?今更そんな他人行儀な言葉が必要かよ、僕らに」
「………たしかに、それもそうかもしれないな」

長い腕をこちらに伸ばして、スタイリストによって仕上げられたいつもより低い位置で縛られた髪を揺らして遊ぶ悟の悪戯に笑う顔に体の強張りが解けて、まだ自分に人生において緊張する局面なんかが残っていることを気付かされて自分で驚いてしまう。悟も、私がらしくなく緊張していることに気づいたのか、それでも珍しく揶揄うこともせずに今日の日差しを包む青空のように柔らかく緩めた蒼で私を見つめてくる。

「…傑」
「…なんだい」
「今どんな気持ち?」
「………よく、わからない」
「………そっか」

この場で答えるべき言葉はなんだったのだろう。
『幸せ』だとか『嬉しい』だとか、ありきたりな言葉では表現できない胸に巣食う不思議な感情にうまく名前をつけることができない。
毎日見合わせているスーツではなく、こちらもきっちりした正装に身を包んだ悟だって、あの頃のように変な目隠し包帯で目を覆うこともしなくなったし、もうずっと、あの頃の鋭さを瞳に宿すことはしなくなった。目が合うだけで背筋が凍るような、全てを見透かすようなそれではなく、物事を柔らかく見届けるような視線に、どうしてもむずむずとした居心地悪さを感じて、だけど、嫌だとはちっとも思わない。…君って、そんなに優しい人間だったかな。他人を慮る人間だっただろうか。君は私の知らない間にクソガキだったあの頃とは想像もつかない大人に成長していた。─知らないあの空白の十数年は、どうやったって、どうしたって、きっともう一度生まれ変わって青春をやり直したって、もう二度と埋めることはできないのを、今更こんな風に突きつけられた気がした。

「………悟、」
「ぷ、何。不安そうな顔。お前のそんな殊勝な顔見る日が来るなんて思わなかったな。みょうじには感謝しないと」
「揶揄わないでくれよ、自分でも驚いてる」
「なんだよ、お前、今日晴れ舞台だってわかってる?情けない顔して、鏡見てみなよ」

大きな姿見に映る白と黒。ぎゅうと痛すぎるくらいの力で肩を組んでくる悟の手が、少し震えている気がしたのは、気のせいだろうか。なんとなく直接見合うことは避けてお互いを鏡越しで見合っている、異様な状況に少しだけ笑えてしまう。

「……これからもよろしく、親友」
「………そうだね、それくらいが僕らにはちょうどいい。よろしく、親友」

背中を押されて、控え室から一歩踏み出す。相変わらず柔らかい光がそこらを揺蕩って、輪郭が溶けてなくなりそうなくらい甘い平和な空気にもう少しだって残っていない毒牙がほろほろと解けていく。
悟とコンビを組んで、何年が経っただろうか。高校生の時ふざけて文化祭で披露した漫才をデビュー戦とするならば、十五年。十五年、悟と再会して同じだけ時間が経ったのだと思うと感慨深い。芸能事務所に入って芸能人として『生計を立てる』仕事としてデビューを飾ってからは、八年程度だろうか。それにしても、ここ一、二年の人生の変動ぶりと言えば、目が回るものがある。…そういえば、悟もそうだけれど、人生の契機となったのは、二年前の“エムワン”に違いない。あれで優勝したおかげで仕事の忙しさは以前までとの比ではなくなったし、悟は彼女と結婚できたし、悟が結婚記者会見をしたからなまえは記憶が戻ったとも言っていた。エムワンのあの日になまえが隣に引っ越してきたというのも、やはり運命的なものを感じる。
悟や硝子、夜蛾先生(今は社長だけど)以外必要以上に呪術関係者と縁を結ぼうとしてこなかった私は(マネの伊地知は後輩だったけど当時は長引く繁忙期や諸々で新しい後輩に構っている余裕もなくてほとんど顔も合わせなかったし私的には今世で縁を繋いだという認識)、おおよそ二十八年間をあれ程憎くて堪らなかったはずの猿と軽率に関係を結んで、猿になったことを認めて、猿として生きてきた。この人生は、一体なんのためにあるんだろうと、何度も、何度も反芻してきた。罰なのかとも思ったこともある。…罰にしては、幸せすぎるし甘すぎる世界だけれど。

「なまえ」

柔らかい日差しを全部身に纏ったみたいに輝くなまえが振り返る。傑さん、と幸せそうに微笑む君が私の名前を呼ぶ。あまりにも眩しくて、今更、本当に今更、本当に私が、彼女の手を取る資格があるのかと、あの白い手をとっていいのかと不安になった。


「………傑さん?…どうしたの?…何か、嫌なことでも思い出しました?それともどこか辛い?」
『夏油先輩……、私にぐらい、弱音、吐いてって言ったら、困りますか?』


純白に身を包んだ君が心配そうに私の顔を覗き込みながら、白いグローブを付けた小さな手で私の手を取る。あの頃と変わらない、気づけば懐に入り込んでくる柔らかい声と、表情。私の躊躇いなんてすぐに飛び越えてくる君に捕まって、どうしたって今更離す気もないくせに、怖気付いていた自分の情けなさに失笑を漏らしてしまう。いつもよりキラキラといろんな色に反射している瞼を彩るラメが、陽の光を含んで淡くひかる白いドレスが、君の幸せに満ちた瞳が、あまりにも美しくて眩しくて、どうしようもなく、瞼の奥が熱くなる。…ああ、悟もそういえばあの日泣いたっけ。…わかるよ。だって私たちは何年この瞬間を心の中で待ち望んでいたんだろうね。あの頃はきっと無理だっただろう、私も君も、自分だけの幸せなんて望んでいる暇も希望もなかった。今思うと、“たった一人”をどうしても幸せにできなかった、…選択をすることすらできなかった人生、やり直しができる奇跡に、確かに神がいるのではないかと思ってしまった。“人は食物連鎖の頂点に立っても更に高位の存在を夢想する”─まさに自分が忌むと決めた、吐き気を催すほど嫌いだと思い込もうとした非術師の思想に身を投げている事実に乾いた笑いが漏れる。─力を失くしてから、全部を失くしてから、こんなことに気付かされるなんて。気づきたくなかった。…やはり、罰なんだろう。力を奪って、罪の記憶だけは残して、あれだけ傲慢を吐き散らかした私を断罪したいのか。神とやらは随分性格が悪いらしい。


「…傑さん?」
「本当に、いいのかい、私で」
「………ええ?」
「…ごめん。ここで言うべき台詞ではないと思うけど。……何度も言うけど、私は前世で、たくさんの非術師だけでなく、術師だってたくさん、死に追い込んだ、どうしようもない“悪”だったから。…そんな私で君は幸せになれるのか、」
「傑さん」


いつもより華やかな目元が威力を持って私を射抜く。力強い瞳の中に力と力がぶつかり合う時の衝撃波のような光が爆ぜて、目を逸らせない。


「……傑さんの人生は今までもこれからも、きっと“あの頃の記憶”に引っ張られて、たまにどうしようもなくつらくて、苦しい日があるんだと思う。…私にはきっと、全部理解わかってあげられないこともある、かもしれない。…それに、傑さんに罪と罰がないとはいえないかもしれない。……でも、呪い合ってたあの頃の、私たちには“死”とか“罪”とか、隣り合わせだったことだから、あなただけが抱えてるものじゃない、と思うの。呪詛師だったけど、人間を殺したことがあるのは私も同じ。“思想”が違うってだけで人を殺したのは私も同じ。…人殺し同士、お似合いなの。そういう因果に生きてるの。傑さんの罪も一緒に背負って、罰があるなら私も一緒に受ける。…どちらかが地獄に堕ちるなら一緒に堕ちる、そういう“契約”を今からするの。…大丈夫、地獄の中でも幸せにはなれるよ」


物騒なことを紡ぐプラムカラーの唇が、やわらかく弧を描く。言ってることと表情が全く噛み合っていない。あんなに清廉として、呪いの世界になんて似つかわしくないと思っていた君が、そんな覚悟を持っていたなんて知らなくて、やはり呪術師だったんたなと思い知らされる。まだ君に関して知らないことがあるなんて思わなくて、口をポカンと開けたまま呆けてしまった。そんな私をみて、変な顔と笑う君は、これから一緒に地獄に堕ちるとは思えない、無垢な少女のようだった。


「なあに、心配になっちゃったんですか?今更?ここまできて?……あの日、“夏油先輩”に再会したあの日、…いや、もう少し前かな、“夏油先輩”のこと思い出したあの日に、…………違うかぁ、きっと生まれ変わった瞬間に、私もう呪われちゃったんです。貴方以外愛せない呪いです」


─重い女でごめんなさい─そう言う割に、軽やかに笑う毒を孕むような唇に、無意識にそっと触れ合うだけのキスを落とした。


「………、解呪はしなくていいの。大丈夫。幸せにしてみせます」
「……君には敵わない」
「…呪いたくなる、人生だったから。…幸せになりたかったし、あなたを幸せにしたくって、私、最後に呪ったの。…たぶん、みんなそう。夜蛾先生よく言ってましたよね、『呪術師に悔いのない死などない』って。みんな死ぬ間際に呪ったんだよ、きっと。…だから、こうして、生まれ変わったの」
「そうか、…そうかも、しれないね」


タキシード、すごく似合ってますね。
君も、とても綺麗だよ。


真っ先に言うべきだったことを今更お互いに紡いで、ぎゅうと眩い光を腕の中に閉じ込める。彼女の髪の中から流れる煌めく長い長いレースが、ずっと柔らかく差す陽だまりをキラキラと反射して、なぜか胸がいっぱいになった。─ああ、幸せだ、と思った。自然に。複雑に絡まり合っていた感情も全部内包するみたいに、いろんな気持ちを孕む胸をやんわりと包む感情の名前が明確になって、確信に至って、どうしようもないほど腕の中の光を愛おしく思う。


「幸せ」
「私も」


やはり暖かい陽だまりのように笑う君は、ずっとそうやって笑っていてほしいと願う。君が幸せに笑う世界をずっと守りたいと思う。たまに怒らせてしまうかもしれないけれど、もしかしたら、予想だにしない悲しみが襲う日があるかもしれないけれど、二人で手をとっていけるところまで歩いて行きたい。…もう、一人でどこかに行ったりしない。いつか果たせなかった稚拙な約束を今度こそきつく強く縛り直して。








「綺麗」
「ね。生意気な後輩がついに親友の嫁か」


爽やかな日の光を一身に受けて輝き、幸せそうに笑う花嫁は、神聖な女神のような美しさだった。
傑と、なまえちゃんの結婚式は、それはそれは楽しみで仕方がなかった。招待客は、傑のご両親と、なまえちゃんのご両親、夜蛾先生、悟、硝子、私、七海くん、灰原くんだけ。とてもこじんまりとした式だったけれど、みんなで美味しい料理や思い出話を囲むそれはずっと暖かくて幸せが揺蕩っていて、“あの”二人が手をつなぎ合って笑いあっている、その絵面だけで涙腺が刺激される。ほとんど見知った顔しかいないせいか、どうしても呪いと隣り合わせの生活だったあの頃の二人を思い出して何度も瞼を熱いものが駆けた。

傑のご両親も、はらはらと涙をこぼしていた。“前”とは違うご両親だそうだけれど、“今”のご両親に少なくとも重なるところがあるのかひたすら謝罪と感謝を繰り返す傑のスピーチに、涙を流さない人などこの場には一人もいなかった。
隣に座る悟も、いろいろ思うことがあるのだろう。ただ真っ直ぐ傑を見つめて、幸せそうになまえちゃんを見つめる傑を真っ青な瞳に刻みつけていた。いつも穏やかな淡い輪郭を帯びる虹彩に、鈍い赤が混じっていたのは、きっとみんな気づいていたけれど、誰もが気づかないふりをしていた。

夏油先輩、夏油先輩、と刷り込みのように後をついて回っていたなまえちゃんのことを思い出す。あまり私たちには心の内を曝け出してくれなかった傑には、あれぐらいぐいぐいといってくれる女の子がお似合いだなあ、と微笑ましく見守っていたし、きっといつか良い報告を聞けるのだろうな、と思い込んでいた。…呪術師に、“気軽ないつか”なんてないことぐらい、少し考えたらわかることなのに。なまえちゃんの死亡報告と、灰原くんの遺体が送り込まれてきたあの日からの傑と、全て諦めたように笑う別れの日の傑が、瞼の裏側に焼きついたみたいに今でも自然に思い出されて、そんな表情を生まれ変わってもたまに帯びている傑を心配していたけれど、憑き物が落ちたみたいに穏やかに笑う二人を見て、心の底から安堵した。


「悟」
「─ん?なに」
「…よかったね」
「……えー?言う相手間違ってるでしょ。祝福されるべきはあいつらだよ今日は」
「悟が、ずっと傑のこと心配してたの知ってるよ。…きっともう大丈夫。…ちょっと寂しかったりする?娘を送り出したお父さんみたいな顔してる。ほら、なまえちゃんのお父さんと同じ顔してるよ」
「はは、キッショいこと言わないで。…………寂しいって言ったら、慰めてくれんの?」
「いいよ。よしよししてあげる」
「マジ?ラッキー。じゃあ寂しいってことにしとく。…こいつ産まれてくるまでは存分に甘えとかなきゃねー」


ふんわり笑ってみせた悟の笑顔はいつもより少しぎこちなくて、赤い目元を誤魔化すようにいつものサングラスをかけた悟の頭を優しく撫でた。お返しのように膨らみ始めたお腹を撫でられて、呼応するように悟の手を内側から蹴ってくる反応に、悟の目が大きく見開いた。


「うっわ待って!すっご!僕の手蹴ったよこの子?!頭いいね?!」
「…お前たち、人様の結婚式でイチャコラすんな」
「えー硝子未だにシングルだからって僕らに当たりキツイ。ほら幸せのお裾分けしてやるよほうれい線に効くんじゃない?」
「死ぬほどいらない」
「…悟、さすがに擁護できない。よしよしなしね」
「え、え、嘘でしょ、急な塩対応やめてよ。お腹もう一回撫でさせて、」
「悟ーこっち来て。お義父さんが私たちの生漫才見たいって」
「嘘でしょ?急に??みょうじのお父さんパワハラ上司じゃない?会社で上手いことやれてる?」
「失礼なこと言わないでくれます?五条先輩。赤ちゃんは先輩のそういうとこ、似ないといいですね」


相変わらず辛辣ななまえちゃんにぶつくさ言いながらだったけど、打ち合わせも何にもなしに目配せで始まった悟と傑の漫才はなぜか結婚式にちなんだネタになっていて、息ぴったりに進んでいく。観客は両手で足りる人数。いつもの真っ黒なスーツじゃなくて、キラキラと晴れやかな衣装を身に纏って、いつもやってる何百人も入るハコでドッと起きる笑いじゃなくて、クスクス、あはは、というまばらな笑い声が随所から漏れ始める。さっきまで鼻を啜って目を赤らめていた全員が、気づけば顔を綻ばせて、笑い声が会場に舞い上がった。悟と傑が馬鹿なことをして、夜蛾先生が大声で怒鳴って、私と硝子がやれやれって見守って、後輩たちがわははと笑う。遠すぎる記憶が鮮明に蘇って、楽しくて面白くて幸せで仕方がないのに、お腹をドンドコと勢いよく蹴られる痛みと相まって、なぜか涙が止まらなかった。






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