青天の霹靂 2

「こんなこともできないの?こんなんじゃいても給料払うだけ無駄だからやめていいよ」

ーこれはわたしの上司、五条悟の口癖である。

大学卒業後に入社した五条ホールディングスで配属された秘書課、社長専属秘書という肩書は私が入社してから終ぞ変わることはなかった。結局、彼から「君が必要だから辞めないで」とは言われなかったな、と胸の内に巣食うモヤモヤを払拭するように、明日売っぱらう予定になっている運転にも慣れてしまった高級車のハンドルを握ってから、勢いよくギアをドライブに入れて車を発進させた。明日からは、朝の四時に起きなくても良いし、誰かのスケジュールを管理する必要もない。会社関連のセクハラ親父共に「愛人にならないか」と訳の分からない勧誘を受ける辟易とした生活も終わる。自称社長の『婚約者』にマウントを取られることもない。そんな面倒なしがらみから逃げるための左手の薬指に嵌めた指輪─サイズが小さくて入らなくなったから、と譲り受けた母の婚約指輪を外してケースに仕舞い込む。「結婚するの?」と聞いてきた社長のびっくりした顔、ちょっと面白かったな、と鼻で笑う。誰がこんな生活してて結婚できると思ってるの。馬鹿なの?誰のせいで結婚相談所に登録することになったと思ってるの。絶対にわたしは優しくてすぐに人を馬鹿にしないデリカシーも常識も持ち合わせた男性と結婚してやる。数日後には早速紹介された方とお会いすることになっているし、絶対に素敵な恋人を見つけて、さっさと結婚してもうこんな寂しい生活からはおさらばだ。

ワーカホリックの社長に連れそうがまま仕事をしていたせいでこの五年間、自由な時間など小一時間も取れなかった。休日だって苦手な外国語の習得や仕事上必要な知識の修習に充てなければ平凡なわたしは即彼の決め台詞を食らってしまうので毎日必死に勉強したし、たまの外出はろくに休息も取らない彼のブレイクタイム用のおやつを厳選しに行くことくらいで─、おやつと一言に言っても口が肥えているせいで本当に美味しいものしか口にしないので、必死にネットのカキコミや会社の女性陣にリサーチをして美味しいスイーツを探しに行くこともない。そんな生活を続けていたらもちろんその間に将来を考えながら交際していた恋人に振られるわ、友達はみんなさっさと結婚していくわ、独身の友人も遊ぶことすらできなかったから自然に距離ができてしまうわで、わたしはたったの五年で友達も恋人もいないアラサーぼっちに成り下がってしまったのである。ふとした瞬間に恐怖に打ち震えた。わたしは、もしかして、このまま死ぬまで社長の奴隷として働いていくのか、と。そんなのはごめんである。社長の生活に合わせて一歩二歩先を読みながらも、物理的には毎日社長の半歩後ろを歩く。仕事の成功は、私の成功ではなく会社の成功であり社長の功績。社長の影となって社長が円滑に仕事をこなしていく介助をする。それを五年も疑問を持つことなく続けていたせいですっかり忘れていた。これって誰の人生?私の人生は社長の補佐をし続ける人生じゃない。─身の丈に合った、好きだと思える人と結婚だってしたいし、趣味に興じて自分の時間を謳歌したい。…今は趣味らしい趣味もないから、まずは見つけるところからだし、恋人も探すところから始めないといけないけれど。それを叶えるには、今の生活では絶対に無理だ。社長の起床時間に合わせてコーヒーと新聞とその日必要な資料をお渡しし、一緒に出社して社長の予定に合わせて付き従う。会議や外出・視察・国内海外問わない出張に、政治経済界の重鎮との会合、五条グループ関連会社のパーティに他社のパーティ。接待として連れていかれる休日のゴルフ。もうとにかく多忙が過ぎるし絶対に恋人ができても社長と共に過ごす時間の方が長い。そもそも恋人を作ってる暇もなければ愛を育む時間もないし、趣味を見つける時間さえない。─無理だ。こんな生活続けてたらあっという間に三十路を超える。
極め付けのようにわたしと社長の仲を疑う馬鹿みたいな上層部の人間に嫌味を言われてわたしの中の何かがパチンと弾けた。─疲れた。
たまには休んでみようと有給の申請をしたわたしに社長は言い放った。

「僕に休みなんてあった?寝言は寝てから言いなよ」

……どうやら、秘書たるもの社長が働いてるのだからそれに付き従い身を粉にして働け、言外に彼がそう言っているのが伝わった。私は休むことさえ許されないのか。…そうだ、辞めよう。もう少しワークライフバランスの取れた会社に転職しよう。そう決意してからは早かった。わたしはとあるIT企業に転職する。─転職活動する時間さえまともにとれなかったので、この五年間でできたツテで得た仕事ではあったけれど、今に比べたら比較にならないほどのホワイト企業だ。なんでもいい。兎に角、離れたい。今の職場から、…あの人から。何としても。

奴隷生活の終わりに相応しく、今日は昨日から冷やしておいたシャンパン飲んで昼まで寝てやる。

「何が君の淹れたコーヒー毎日飲みたいだ!一世代前のプロポーズみたいなこと言いやがって!明日は寝坊でもしとけ!」

クソが!信号待ちに大声で叫びながら高笑い決めるわたしはヤバいやつに違いない。





家に帰るなりもらった花をひとまず手頃な花瓶に生けて、鬱陶しいパーティドレスを脱ぎ捨てる。なんだこの派手なドレス。趣味悪ッ!金持ちの思考は理解できない!誰かの結婚式にだって着て行けやしない、普通のブラだってつけるわけにはいかない背中がぱっくりあいたそれ。汚れひとつついただけで目立つ真っ白なドレスをどうしてやろうかと睨みつけた。結局どうせもう着ることもないかと適当につま先でフローリングに滑らせる。
さっきまでの堅苦しい服装は何処へやら、烏の行水のようにシャワーを浴び、だぼだぼの伸びきったシャツを上からかぶり、冷蔵庫を占拠するキンキンに冷えた馬鹿でかいボトルを取り出す。

スッポーン!ワンルームのアパートに似つかわしくない高級シャンパンのコルクが抜ける音が響いた。今日のためだけに買ったシャンパングラスにゆっくりシュワシュワと音を立てる透明度の高い金色を注ぎながらニヤニヤと笑みを漏らす。
もういつ呼び出されるかわからない電話に怯えて飲酒を我慢する生活も終わりだ。素晴らしい。
新しく秘書になった三輪さんのことを考えると可哀想で涙が出そうになるけれど、きっと彼女は『家族』のためにあの社長のもとで頑張れるはずだ。彼女の生い立ちを思い出して結局涙がちょちょぎれた。
面接で幼い弟たちのためにお金が必要だという彼女に社長は結果を残す人には惜しみなく対価を与えてくれますと言った瞬間わたしの用意した対社長完全マニュアル本を破竹の勢いで読破していく彼女にこの子なら大丈夫だなと即採用を決めたのがもう遠い昔のように思える。引き継ぎの間もずっとメモをとりながら必死に業務を覚えていた彼女なら平凡な私がこなしていた仕事などすぐものにできるだろう。何度も言うか言うまいか迷った末に辞めたいと言った言葉にあっさりと「あ、そう。後任見つけといて」と興味なさそうに再び資料を読み込み始めた社長の姿を思い出す。─その態度に少しだけ、落胆した自分の傲慢さに辟易とした。さっき足で蹴飛ばした白いドレスがへにゃりとシワを産んでフローリングの上に転がっている。はぁ、とため息をついてハンガーにかけてついたシワをそっと伸ばした。




さて、わたしの元上司、『五条悟』について簡単に説明しておこう。数多の経済誌、著書で彼の特集が組まれる敏腕経営者である。彼が五条ホールディングスの社長に就任してからというもの、落ち目かと言われていた数々の赤字を叩き出してきた子会社の経営をV字回復させ、日本国内における三大財閥の中でも抜きん出た黒字経営を推し進め、その業務のほぼ全てをワンマンプレーで牽引している。更には顔よし、頭よしで一見すると自他共に認めるパーフェクトガイでしかないのだが、いかんせんその全てを台無しにする性格の悪さは折り紙付きで、また別の名を煽りスト、独裁者、人の心を母親の腹の中に忘れてきた悪魔などと自社の社員にさえ言わしめる男だった。
特に常に一緒にいる秘書に対してはそれが顕著に出てしまうせいで秘書課の人間は一ヶ月もたず全員リタイア、そこで新入社員でやってきたわたしに彼の専属秘書という新入社員配属ガチャで大ハズレも大ハズレのお鉢が回ってきた。もちろんわたしも例に漏れず冒頭の言葉を喰らった回数は数知れず。初対面で挨拶した時は「どうせやめるだろうから名乗らないでいいよ」だったし、名前を覚えられるまでに半年かかった。初めに私を認識した日の言葉は「君秘書なの?いつから?挨拶きた?今まで何してたの?ていうかダサすぎて清掃のおばちゃんかと思った。でもコーヒー淹れるのは上手いね。甘さが僕好みでいい感じー」だった。ムカつきすぎて一言一句覚えている。そんなわたしが彼から信頼され早朝から夜半まで共に仕事をするまでになるのに、並々ならない努力があったし、思い出すだけで今でも泣ける自信がある。とてもじゃないが一晩あっても語り尽くせそうにないので割愛させていただく。

社長の補佐を務めるべくパートナーとしてパーティや接待の場に出席するたびにつくづくわたしは平凡な女なのだと思い知らされた。きっと幼い頃からこういう場に慣れていたのだろう、スマートにエレガントに振る舞う彼とは違ってわたしはいつも自分の立ち居振る舞いがきちんとできているのかドギマギしていたし、毎回マナー本を何度も何度も読み返して挑んでいた。本当は緊張で食事も喉を通らないのに笑顔で重たい食事を押し込む日々は苦痛以外の何者でもなかった。

「待ってダサい。お遊戯会じゃないんだよ?どこで買ったのそのダサい服。そんなので僕の隣に立つ気なの正気?」
「ほら、こっちの方が似合うじゃん」

そう言われてからパーティの度にドレスと靴を前もって準備されるようになった。今まで着たこともない派手なパーティ用のドレスを押し付けられ、歩くのに絶対理にかなっていないハイヒールを履かされ、頬が引き攣りそうなほどの笑顔を表面で浮かべながら常に社長に近づく人間の顔と名前と肩書きを脳内ファイルからピックアップしてそれとなく社長に知らせ、情報を更新し続ける。なんといってもこの男は覚える価値がないと判断する人間のことを本当にぞんざいに扱うのだ。わざと敵を作っているとしか思えない態度はここ数年で少しマシになったとはいえ、わたしが辞めた後のことがしんぱ─いや、やめよう。もうこんなこと考えたって関係ないし。
細いグラスの中でしゅわしゅわと爆ぜる小さな爆発を起こすそれをぐいと気道に流し込んだ。

とまあ、社長に認められたいが一心でなりふり構わず仕事をしていれば当時いた彼氏に振られるのなんて火を見るよりも明らかで。「社長と俺どっちが大事なの」という質問に間髪入れず「社長仕事」と答えたわたしに彼氏は呆れた顔で別れを告げた。

何を当たり前なことを。とわたしも顔を顰めたのだが、この辺りからわたしもきっと社長のワーカホリック気質にあてられ洗脳されていたに違いない。
唯一社長の良かったところといえば、働きに応じてきちんと評価はしてくれるところだろうか。

「やればできるじゃん」

滅多に人を褒めない社長から微笑まれながらそう言われるとどれだけ疲れていても報われた気がした。なんの取り柄もないと思っていた自分を認められた気がした。その言葉が欲しくて、どれだけ理不尽な業務量がのしかかろうとも頑張れた。仕事の鬼になって自分にできることは片っぱしからやった。褒められることが増えると嬉しくなって社長に指示される前に必要なことは全部やるようになったし、信頼されればされるほど自由な時間がなくなっていった。
わたしが普段社長の家に向かうための車も社長から朝コーヒー飲みたいから僕が起きる前に淹れにきてと買い与えられたものだ。
毎朝わたしが社長に買い与えられた車で社長の家に向かい、一緒に出社する。─まあ、勘違いする人間もいるだろう。『社長に体で取り入った』だの『秘書の分際で五条に嫁ごうとしている分不相応な女』だの陰で言われていることも知っている。
もちろんそんな色っぽい関係になったことなど一度もないし、寝室に入ったことさえない。社長は否定でもしてくれるのかと思いきや「─は、馬鹿じゃないの。そんなこと言うくらい暇なんだったら仕事すれば」なんて聞く耳持たずだし。

そもそも不釣り合いな高級車を与えられてもわたしは車の運転だって入社するまではペーパーだったせいで戦々恐々としながらハンドルを握ったものだった。初心者が運転するような車ではないし、手放せばきっとあんな車二度と運転する機会もないだろう。初めて社長を後ろに乗せた日なんて、当然のように目的地をナビに入れれば「ナビの音うるさいから切って。東京ずっと住んでるんなら道ぐらいナビなくてもわかるでしょ?」などと言われ夜な夜な業務終了後にアテもなく車を走らせながら東京の地理を覚えたし、社長のプライベートの足にされたことだってもはや数えるのも辞めたほどだ。とにかくあの人は人使いが荒い。…あれ、社長の良いところを挙げるはずがいつのまにか愚痴に。失敬。

…少しずつ、整理していこう。狭いクローゼットにひしめくもう着ない派手なドレスも、歩きにくいハイヒールも、分不相応な高級車も、少しずつ手放してこの家に、平凡な私にちょうどいいものに囲まれて、平凡で穏やかな毎日を過ごす。まずはこのワンルームには場違いなシャンパンを今日中に飲み干して、明日の夕方には高級車を売りにいく。ドレスとか靴ってフリマアプリで売れるのかな。
ハンガーにかけるだけじゃなくて、色褪せないように、傷まないようにひとつひとつカバーをかけてクローゼットの中で次の出番を待っているドレス。傷が入っていないか毎回ちゃんと確認してから箱にしまっていたパンプス。
いつからわたしのクローゼットの中は、社長から与えられたものでいっぱいになっていたのだろう。
似合うよ、と言われるのがいつからか嬉しくなっていた。定期的に舞い込むお見合いの釣書を持っていくのが苦しくなり始めたのはいつからか。自分が淹れたコーヒーを「みょうじの淹れたのが一番うまいよ」と言われることに、優越感を抱いてることを必死で隠していたのには、最後まで気づかれなかっただろうか。あのまま社長の隣にいたら私はいつか、自分のどうしようもないこのばかな感情を社長に勘づかれていたに違いない。

「しゃちょうの、ばあーーか」

あれだけパーソナルスペースに入れてくれていたのは彼の望むパフォーマンスをこなせていたわたしを信用してくれていただけで一社員に対する感情しか抱かれていないことくらい、わかっていたことだ。引き止めることもなく、新しい秘書を受け入れていた社長にわたしは一体何を望んでたというのだろうか。烏滸がましい。恥ずかしい。

「わたしの、ばか……」

少し炭酸の抜けたシャンパンを口に流し込む。分不相応で、身に余る恋心も炭酸と同じようにパチパチ弾けて明日になったら抜け切ってくれてたら良い。

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