青天の霹靂 3

ビル群を見下ろす絶景が望めるガラス張りの窓の向こうは夜ならばおそらく美しい東京の夜景が見下ろせる特等席。目の前に並ぶ美しい料理。
数年前の私ならばメニューを読んでもよくわからなかっただろうし、どのカトラリーを使えばいいのかもよくわからなかったはずの、素敵なお店だ。─会食で何度か利用したこの場所で思い出すのは言わずもがな、色素の薄い腹の立つ上司の顔で。小さなハンドバッグの中で昨日から永遠に着信を知らせ続けているスマホの電源を切って、いっそのこと着信拒否してやろうかと睨みつけた。
趣味はなんですか、どんなお仕事を、というお見合いによくある常套句を並べながら盛り上がりも盛り下がりもしない会話をにこやかな笑顔を浮かべながら淡々と続けていく。
カタカナばかりの羅列の料理名をどこで区切れば良いのかわからない気持ちもわかるし、手長エビをどこまで食べていいものかわからない気持ちも痛いほどわかる。数年の努力の末にこんな素敵な料理を自然に手際よく食べられるようになった私が手慣れているように見えるのだろう。恐縮しながらカチャカチャと食器とカトラリーを衝突させる音が耳についた。「ヘッタクソ」と言いながら大きな口を開けて笑ったあの人を思い出す。ああ、きっと彼もこんな気持ちだったのだろうな、と思うと居た堪れなくなった。

「楽しくありませんか?」

とても、優しそうで、誠実そうな人だ。最近まで浴びていたキラッキラでドロッドロな世界の一つも垣間見えない彼はまさに私が理想とする男性そのもののように思えた。少なくとも偉そうにふんぞり返ることもなく、わざと人を煽るようなことも言わない。恋人でも何でもない部下に馬鹿みたいに高い服や車を買い与えることだってしない。辞めた人材に迷惑も顧みず鬼電かけることもないだろう。慎ましく、平凡に、たまの記念日くらいにはスーパーで少しいいお肉を買って美味しいね、と笑い合えるのではないだろうか。きっとこの人の奥さんになる人は幸せになれるだろう。─ほんとにそれでいいの?私の中の誰かが呟いた。いいんだよ。だって、どれだけ想ったってあの人は部下を好きにはならない。きっと何度も送られてきた釣書の中から美しくて、若くて、ご実家がやんごとない身の上の、しっかり者の女性を選ぶのだ。…昨夜かかってきた電話に少し期待していた自分が本当に馬鹿らしい。「……今なら退職願取り下げられるけど?こんな時間に電話出れるなら転職先は見つかってないんじゃない?」と言われたことにこれ以上ないくらい傷ついた。それなのにみっともなく今日で最後だからと頂いたワンピースとパンプスを履いて将来の配偶者探しに来ている私はただの馬鹿でしかない。失礼にも程がある。そんなこと、わかってる。

「そんなことないですよ」

ニッコリ笑って誤魔化し続けたら、きっとこんなどうしようもない気持ち、いつか消えてなくなるだろう。






何も手につかない。会議の内容も回される重要書類の内容も何も頭に入ってこない。何度も同じ行を繰り返してなぞる視線は日本語を忘れてしまったように言葉の羅列を追うだけで意味を理解できない。今までいろんなことを同時進行で思考し続けてきた脳が、ある一つのことしか思考できないポンコツに成り果てていた。ここ最近、僕の脳の処理容量をやたら食うみょうじがウエディングドレス姿で微笑む夢をよく見る。それを見ている僕は隣にいる─わけではなくて、参列席から彼女が幸せそうに微笑む姿を見ているだけ。─彼女に腕を組まれて微笑まれているのはへのへのもへじの顔をした冴えない男だ。幸せそうに笑った二人は愛を誓い合って唇を重ねる─悪夢以外の何者でもない。そんな夢を見るせいで全く眠れなくて頭が重くて思わず鏡面のように反射する机の上に項垂れた。嫌だ。いやだいやだいやだ。その顔を別の男に向けるな。その声で僕以外の名前を呼ぶな。その手で僕以外の男のスーツを触るな。─こんな気持ちが一秘書に向けるべき感情でないことくらいとうに気づいている。好きだ。いつから。わからない。報酬だダサいからこれ着とけだとか言って何かと服やアクセサリーを与えて着飾って満足していたのも、今なら好きな女を僕色に染め上げたいマーキングのようなものだったとわかる。気づいたら、僕の生活の一部になっていた彼女が、自分のもの以外になるなんて絶対に許せない。あれだけ自分に好意を寄せる秘書を跳ね除けてきたのに自分に靡かない秘書を好きになるなんて僕は馬鹿なんだろうか。─馬鹿なんだろうな。

次から次へ舞い込む段取りの悪い仕事。今までなら自分で効率よくこなせていたはずなのに、一度彼女に全部任せるようになってしまったせいで一つがずれていくとまるで適当に引っこ抜いて積み上げたジェンガみたいにぐらぐらして何かの折にガラガラと崩れ落ちてしまいそうな不安定さに今まで感じたこともない焦燥感と不安感がゴウゴウと東南アジアのどこぞの国のスコールのように降りかかる。申し訳なさそうにオロオロする秘書が視界の端に映ってため息をつきたくなる。背丈も髪型も似てなくはなくて、不意に誤って呼び間違えそうになる。いつも悠々とゆとりのあった彼女の「社長」と呼ぶ声が頭の中で自動再生されて、ことん、と置かれたいつものコーヒーカップに入ったそれにハッとして面を上げればそこにいるのは─やはり新しい秘書の姿で。気遣いができるところは及第点か、とカップのハンドルに手をかけて口につけた─

「ぶは!!まずっ!にっっっが!?!?熱ッッ!」
「ハッ…!すみませんすみません!お砂糖お入れするのを忘れてました!」


あまりの衝撃でコーヒーをこぼしてしまいスーツもネクタイもシャツもコーヒー塗れになった。勘弁してくれ……。泣きそうな顔でペコペコと平謝りする秘書の姿にいよいよ頭が痛くなってくる。もういいよ下がって、と言えばしずしずと退室していく秘書を見送った。泣きたいのはこっちだ。
昨日一世一代の告白レベルで意を決してかけた電話は戻ってきて欲しいことを伝えたつもりなのに「二度とかけてこないでください」と言われて切られてしまった。それから何度もかけているのに繋がらないポンコツ電話にさらにイライラが募る。なんで電話出てくれないの。なんで辞めたの。なんで戻ってきてくんないの。…もしかして、僕、振られた?嘘でしょ?僕が振られる?そんな馬鹿な。僕ほど完璧な男ってこの世にいる?いないよね?僕のこと振るなんて正気なの?信じられない。
仕事なんてさっさと終わらせて彼女を迎えに行きたいのに、新しい秘書のスケジュール管理はめちゃくちゃ、会議に必要な書類も準備不足、今までスムーズにいっていた仕事が急ブレーキかけられるみたいな下手くそな運転の車に乗せられているようで苛々が全く治らない。あれ。僕ってこんなに仕事できない人間だった?たかが秘書一人変わっただけでなんでこんなうまくいかなくなるの。信じられない。…少し前の僕がいかに幸せな環境にいたかを思い知る。仕事はもちろんだけど、お疲れ様でした、と少し微笑む彼女に見送られて一日を終えたいし、彼女が淹れてくれるハンドドリップのコーヒーで優雅な朝を迎えたい。だいたい僕は酸味のあるコーヒーは苦手なんだよ。あんまいあんまいコーヒーの奥にあるコクが効いてる彼女の──こんなタイミングで薬指に光るものを身につけて微笑む彼女が脳裏に浮かんだ。どこのどいつだよ!僕から彼女を掻っ攫おうとしている不届き者は!嫌だ。僕以外の男と結婚するなんて耐えられない。ダメだ。はやく、早く彼女を迎えに行かないと。こんなことしてる場合じゃない。仕事なんて明日でもできる。そうこうしてる間に他の男と籍でも入れられたら─まあ、離婚させたらいいだけだけど。いや、そもそも一度でも他の男のものになるのが許せない。

『星が本日十九時からホテルディナーデート』

思考の沼の中に陥りかけていた僕を引っ張り上げたスマホの通知画面に出てきた字面に視界が歪み頭が痛くなる。なんだって?あの子が、ホテルディナーデート?は?デートって何?会食の間違いでしょ?ちょっと。十九時ってもう過ぎてるじゃん。ホテルディナーってそのあと朝までホテルでしけ込むつもり?いや絶対無理なんだけど。僕だってあの子の裸見たことないんだけど。彼女の身辺調査を依頼していた冥さんからの連絡に思わずスマホを握りつぶしそうになった。
気づいたら皮張りのオフィスチェアから勢いよく腰を上げていた。重厚な扉を蹴破らん勢いで社長室から飛び出れば電話応対している秘書が僕の姿を見てギョッとしていたが今は構っていられない。エレベーターがこんなに来ないことに苛つくなんて初めてだ。社長室は一階にした方がいいかもしれない。

─僕以外の誰かと結ばれるなんて絶対許さない。


お付きの運転手の車を奪ってどこもかしこも昼間のように燦然と輝く街を駆け抜けていきたいのに工事か何だかで通行止めになっているせいでなかなか車が進まない。そうこうしている間に時間は刻一刻と進んでいくわけで。今頃男と楽しそうに飯食ってるのかと想像したら蕁麻疹出てきた。いつか酒が好きって言ってた気がするけれど、僕とは違って一緒に酒の飲める相手だったりする?…君が望むなら苦手だけどこれからは付き合うから僕以外の相手と二人きりにならないで。今頃盛り上がってそのまま客室に移動してたら?一緒に風呂なんて入ってたり?…寒気がする。やだ。本当にやだ。ハンドルを握る手が汗で滲む。くそっ。車はやめときゃよかった。電車なんて生まれてこの方乗ったことないけど絶対電車の方が早かった。目的地までもう目と鼻の先なのに。時計を確認すれば21時半。19時から食事してるならそろそろ席を立つ頃ではないか。さっきから冥さんに電話をかけているのに応答がない。あの子にかけてる電話も電源を切られているのか呼び出し音すらかからない始末。なんで。どうして。なんでこんなにうまくいかないんだ。だって僕は完璧で、誰もが羨む男なのに。今はどうだ?バックミラーに映ったいつも艶肌をキープしている顔は顔色が悪くてクマがひどいし、いつも撫でつけているヘアセットも今日は心なしか乱れている。いつも完璧に手入れされたスリーピースにはこぼしたコーヒーが跳ねてシミができているし、手は焦りでべしょべしょになってる。なんだこれ。誰だこれ。信じられないこれ本当に僕?たかが秘書一人になんでこんなに情けない姿になってんの?思わずハンドルに向かって項垂れればクラクションの音が跳ねた。あーーーもうやだーーーどっから悪かったの何が悪かったの何で結婚なんかすんの全然意味わかんない。後ろの車にクラクションを鳴らされて面をあげる。相変わらず渋滞している道路、なかなか動き出さない車はまるで僕自身を暗示しているようだった。
道路の渋滞なんて知ったこっちゃないように歩道を歩いている人並みに視線を移す。忙しなく無表情で次の目的地に向かう人、悲しそうに俯く人、楽しそうに談笑しながら歩く人、ゆっくり歩幅を合わせながら歩いていく人。そこにはいろんな人がいて、そういえば僕って歩道をゆっくり誰かと歩いたこともないな、なんて思った。…そんな中で不意に目が何かに吸い寄せられたかのようにある人影を捉えた。オート判別機能でもついているのか急にその一人にピントが合って他が全部背景のようにぼやけていく。─彼女だ。輝く街頭に照らされて、楽しげに話している二人はまるでドラマの一場面のようで、ようやく会えた嬉しさが芽生えたのちにその場にいるのが冴えない男であることに腑が煮え繰り返る。どう考えたってキャスティングミスだ。

目が捉えて離さない彼女を取り戻したくて、脳が勝手に体に指令を送って僕の体を突き動かす。
ぎちぎちに詰まった車をウィンカーと無理な幅寄せでどかせて歩道脇に寄せ、邪魔な車を乗り捨てる。
自分が今どれだけ情けない格好をしているのかなんてわかっていたけれど、そんなことに構っていられない。陸上選手にでもなったみたいに歩道の柵を飛び越えて、そのまま人並みに紛れ込もうとする彼女の背を追いかける。こんなに必死になって走るのなんて何年ぶりだろう。…いや、人生初めてかもしれない。長いリーチを活かして必死に手を伸ばして、漸く触れた彼女の腕を引っ掴めば体勢を崩した彼女が驚いた表情を浮かべていた。「きゃ!…っ社長、?」そう震える声で呟く彼女を抱き寄せる。いつも冷静な彼女の初めて見る困惑を隠しきれない表情にぞくぞくと背筋が笑った。


「しゃ、社長…?どうされ…!?お召し物に、シミが…!…コーヒーですか?私染み抜き持ってますから…」


慌ててガサゴソと小さいハンドバッグを漁り始める彼女の姿にキュウと心臓が引き絞られたみたいな感覚になった。なんでそんなデートするためのスマホとリップしか入らなさそうな小さいバッグにちゃんと染み抜き入れてんの?君のそういうちゃんとしたところ、備えあれば憂いなしみたいなとこ、すごい好き。
ていうか今気づいたけどその服もその靴もそのバッグも僕が買ったやつじゃん。…え?婚約者とのデートに他の男からもらったもの身につけてく?嬉しい気持ち半分、僕が着飾ったようなものなのに、僕以外の男と食事してたのが腹立つの半分、でも婚約者らしい男をよそに密着した状態で一生懸命ネクタイのシミを抜こうとする彼女は、結局僕を優先してくれているような気がして、じわじわと温かいものが胸中を占領していく。綺麗な渦を巻くつむじを見下ろして、必死に口角が上がらないように気をつけた。


「社長、何か問題でもありましたか?…その、こんな状態で私に…、お電話も仕事の案件でしょうか。電源を切ったままにして、すみませんでした」


ハンカチを挟んでネクタイを叩く彼女が申し訳なさそうにこちらをチラチラ見てくるのに僕も苦笑を漏らす。うん、そうだよね今の僕すげえボロボロだし超ダサい。
だけどこんなに君と密着してるのにぼーっと呆けているだけで怒りもしてこない婚約者らしい男には譲るつもりないし負ける気もしない。男に見せつけるようにサラサラの髪を一房攫い、口付けを落とした。彼女の目が驚愕に見開かれて携帯用のコンパクトな染み抜きが彼女の手からすり抜けて地面に転がっていく音が聞こえた。


「みょうじ、いや、なまえをスカウトしにきたよ」
「─は、え?今、名前、呼びました?」
「業務内容は一日の始まりに一番最初に僕におはようと笑いかけて一日の終わりに同じベッドの中で僕におやすみって言う簡単なお仕事。ただし、二十四時間年中無休で僕のそばにしてもらうから、そこの彼とは結婚できない」
「は…い??何ですかそのブラック企業?…わたし、来月からの就職先決まってますし─、」


解せない、とばかりに顔を顰めた彼女からの言葉を聞きたくなくて口を塞ぐ。結婚なんてもってのほかだけど転職もだめ。君の時間が僕以外に割かれるなんて一分一秒も惜しい。


「だめ。もう君の再就職先は決まってるし、さっきのはもう決定事項だよ。君に拒否権なんてないから─っていうことだから、彼女からは身を引いてもらえる?」


唖然としながら突っ立っていた冴えない男にマウント取るようになまえを引き寄せてニッコリ笑ってやれば状況を悟ったのか男が顔を青ざめさせて立ち去っていく。案外あっさり引き下がるな、やっぱり格が違う男が出てきたら身を引かざるを得ないかなんて内心ほくそ笑みながら彼女の忌々しい指輪が嵌っていた薬指を攫う─が、そこにあるのはほっそりとしたアクセサリー一つ身につけていない指だけだった。あれ?指輪は?え?ん?さっきの男婚約者じゃないの?婚約者とのデー…会食に指輪は嵌める…よね?え?嵌めない?え?まさか、結婚前に違う男と遊んどこうとかそういう系?…いや、まさかそんな。


「しゃ、社長、あの、ど、どういうこと、ですか?」
「─今の婚約者じゃないの?」
「え?いえ、違いますが…」
「…婚約者がいるのに他の男とデートしてた?」
「は、はい?!婚約者なんていませんが?!」
「いや、なまえこの前結婚するつもりって─」
「そりゃあ結婚ぐらいはしますよ!なので結婚相談所に登録したんです!今の方はそこで紹介された方で!社長とは違ってわたしは将来の伴侶は自分で見つけないといけませんので!」
「─、僕だって自分の将来の伴侶は自分で見つけるよ」
「……社長は、そんなことせずとも、自然に、あるでしょう……」
「……僕お見合い嫌いなの君が一番知ってるよね?僕は僕が決めた人と結婚するよ」
「はあ…そう、ですか…」
「何その反応?めっちゃ人ごとじゃない?」
「……人ごとでしょう。社長の結婚相手なんて」
「はあー?さっき僕が言ったこと聞いてなかったの?君と結婚したいっていう意味だったんだけど、伝わらなかった?」
「は、え?けっ、こ…は?わたしと…?」
「うん、どうやら僕なまえのこと好きみたいなんだよね。秘書のこと好きになるなんて碌でもないエロ社長みたいでウケるよね」


彼女に結婚の予定がないことに内心サンバでも踊り出したい気分だったがニヤけないようになんとか耐え忍ぶ。
目をまん丸に見開きながら口をぽかんと開けて僕を見上げていたかと思いきや、一瞬で首から頭の天辺まで真っ赤に染め上げたなまえが可愛くて、思わず吹き出してしまった。

「は、え、すき?社長が、わたしを?社長が…?!」
「ふふ。ん、好き。なまえが急にいなくなるせいで僕ポンコツなんだけど今。……その顔見る限り君も満更じゃなさそうだけど、違う?」
「え、は、え…、いや、あの、ちがッ…、み、見ないでください…!」

顔を真っ赤にさせて両手で顔を覆いながらぷるぷる震える君が可愛くて仕方がない。どうしよう。見ないでって言われたら余計見たくなる。ゆっくり細い手首を捕まえて、閉じられた扉を開けば涙目になりながらこちらを見上げる瞳と目があった。言葉なんて交わさなくても、その顔を見ただけで彼女の言いたいことが伝わってゆっくり顔を近づけて震える唇と触れるだけのキスをすれば、真っ赤を通り越して爆発でもするんじゃなかろうかというくらいに動揺していて、道の往来で爆笑してしまう。
今日はなまえの珍しい表情ばかりが見られる。僕がらしくないことばっかりしてるからかな。これからは澄ました顔だけでなくいろんな表情が見られるのかと思うと楽しみで仕方ない。
この僕が輝く指輪も片手で抱え切れないくらいの薔薇の花束も、夜景の綺麗なレストランも何も準備していない、髪型は決まってないしスーツはコーヒーのシミ付いてるし、手なんてさっきから手汗かきまくってるクソダサいプロポーズするなんて思ってもみなかった。手首を掴んだ手で彼女の両手を握れば、僅かに握り返されて、頬が緩む。


「ねえ、僕と結婚してよ。もう二度と退職願も辞表も受理しないつもりだから。よろしくね」


戸惑い、困った表情を浮かべた彼女は、しばし逡巡したのちに小さな声で私も好きです、とつぶやいて観念したように笑って頷いた。
霹靂が落ち、スコールが降った後の空は瞬く間に晴れ上がって虹がかかると相場が決まっている。


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