永劫の落花流水

初恋は叶わない。よく聞くアレだ。まぁそうだろうね、と思う。だって初めての恋なんて、恋愛レベル1の人間がその初恋を実らすスキルを持ち合わせているわけがないだろうし、相当容姿に恵まれているだとか、運命レベルの相手だったとかそういうことがない限りは初恋は叶わないものなんだろう。だけど初恋、の定義とは?幼稚園の頃にだれだれくんかっこいいー小学校の頃にだれだれくん足早ーいすきーこれ、初恋に該当する?私的には否。じゃあ中学生の頃に色づき始めた周りに合わせてなーんかとりあえず付き合ってみる?な感じで交際した相手は?私的にはノーカン。よって私の初恋、というものは今交際している男性ということになるのかもしれない。ときめきを感じたのも、愛おしさで胸が絞られるような気持ちになったのも、傷ついた恋人を支えたいと思ったのも、今の恋人が初めてだったから。学生時代からもう約十年ほどは交際が続いている彼のことをよくよく考えてみると、彼が私の初恋、というものにあたるのかもしれないということにこの『初恋は叶わない』というジンクスじみた言葉が頭をよぎった時にようやく気づいた。
そして、叶わない、の定義とは?交際できた時点で叶ったことになるのだろうか。いや、でも望み通りの終わりじゃない破局を迎えた時点でやはり叶わなかったということになるのでは?ということは恋が成就するということは結婚までしてしまうということなのだろうか。となると初恋が叶う=ときめきを初めて感じた相手と結婚すること…?でも結婚しても離婚することだってあり得るだろうし、死が二人を分つまで添い遂げること?…かなりハードルが高い。こんなの叶えた人間この世にいるのだろうか。…尊敬する。きっと前世では相当量の徳を積んだ人間なのだろう。
こんな初恋がどうたらなんてクソほどどうでもいいことを延々と考えていることには訳がある。若気の至りでまだお互いにのぼせあがっていたときに言われた今の恋人からの「いつか結婚しようよ」という言葉を馬鹿正直に信じていた、十年にわたる私の初恋が、今まさに散ろうとしているからである。


「なんて?硝子」
「……五条が結婚するらしいぞ」
「誰と?」
「さあ?分家の娘やらどこぞの家系の令嬢やらとお見合いしたそうだ。まだ十代だとか噂が噂を呼んでいるらしい」
「あ、やっぱり私じゃないんだ」
「…さすがに自分の預かり知らないところで結婚の話が進むことはないだろ」
「いや?わかんないよ?悟だし。へー。結婚。へーーーーー。ねえ、確認なんだけどさ?私って悟の恋人じゃなかったっけ?」
「………私が知ってる五条の恋人はお前だけだな」
「結婚ってさ、恋人がいる場合恋人とするのが定石だよね」
「……私の知る常識ではそうだ」
「あーよかった。私の認識が世間とずれてるのかと思った。へー、悟が結婚。へー。…知らない間に振られてたの?私」


ハハッ、やけに乾いた笑いが漏れた。交際が始まってから…十年超。もう年数を数え出すのもやめたし、もはや互いの存在が空気のように感じることだってあるくらい隣にいるのが当たり前になりつつあった。何度目かわからない倦怠期に突入していたせいで最近の私たちの間に会話はない。たぶんきっかけはものすごくどうでもいいことで言い合いになった。たしか、冷蔵庫から取り出したお茶を冷蔵庫を開けながら飲まないでとかそういうことだった気がする。
クソほどどうでもいい小言だったはずなのに、いつの間にかそれがヒートアップしてなかなか大きな喧嘩にまで発展して膠着状態が続いていた。

そんなときに、コレだ。当てつけか?ここへきてあの男は自然消滅でも狙ってるのか?十年以上交際を続けたアラサー女への対応これでいいと本気で思ってんの?この件に関しては道徳の教科書に組み込んで全国のうら若き少年少女に刷り込み教育をしておくべきだ。まじで結婚相手十代だとしたら私は呪霊を生み出しても仕方ないくらいの呪力を放出するかもしれない。…そうなりゃ呪詛師認定で瞬殺だな。



「はー、悟明日から海外って言ってなかったっけ…今日中に別れ話か…気持ちの整理が追いつかない」
「…ただの噂って可能性は」
「なくはないけど結構信憑性あるから硝子は私に知らせたんじゃないの」
「……ソースは冥さん」
「あー…終わった。私の青春が今散った」


スマホを操作して悟のトーク画面を開いて『至急話したいことがあるので今晩は家に帰ってきて欲しい』とメッセージを送ればすぐに既読はついたがいつまで経っても返事は返ってこない。チッと舌打ちをつく。こういうところもいちいちイラつく。スタンプ一つくらい返せよ。スタンプ一つだったら絶対イラつくけど既読無視よりマシだ。


「初恋にトドメか」
「……初恋?処女じゃなかっただろ」
「顔も覚えてない相手が初恋だと?」
「……お前もなかなかのクズだったのを忘れてたよ」
「ふふ、悟相手にもクズのままいれたら幸せだったのにね。あー、痛い。心臓痛い。手先も背中もどこもかしこも痛い。なにこれ、ねえ、反転術式で何とかしてよ」
「…それができたら今頃私は専用のクリニックでも開いて大儲けしているだろうな」
「はは、恋煩い専門の病院?流行りそうだ」


硝子と軽口を言っている間は少しだけ痛みを忘れていられた。






頭が痛い。腑のあたりから心臓まで雑巾絞りをされているかのような痛みを感じる。彼の出自上、私のような一般家庭出の女との恋愛がうまくいくはずないことなんて、少し考えればわかることだ。…そもそも結婚しようなんて言葉、十代の頃に言われたきりだったからもう覚えてすらないのかもしれない。私はその言葉を宝物のように大切に心の中にしまっていたけれど。私との結婚を進めようとはしないのにお見合いには参加する。その男の心とは?付き合っていた恋人と別れ話をすることなくお見合い相手と結婚するその心は?もはや私には理解の範疇を超えた心情なのでいくら推し測ろうとも答えは出ない。まあ、ともかく、私では駄目だったのだろう。
二人で住む部屋に帰ってくれば、虚無感しか襲ってこない。この部屋を決めたのも二人で内覧にきてからだったし、この部屋は寝室にしようか、喧嘩しても寝る時は同じベッドで寝ようね、なんて言って大きなベッドを注文した。こんなに広いのに抱き合って眠るから、結局幅の広さはもう少し狭くても良かったねと笑い合ったのはいつだったっけ。結局この広さは必要だった。端っこと端っこに背を向けて寝た回数と、二人で真ん中でくっついて寝た回数、どっちが多かっただろうか。最近忙しくて顔を付き合わせて食事をすることが減っていたダイニングテーブルも、体の大きな彼が寛げるように考えた大きなカウチ付きのソファも、どれも何軒もインテリアショップを手を繋ぎながら回って二人で選んだものだった。呪力を飛ばしてめちゃくちゃに破壊してしまいたい。それぐらいどうしようもなく心の中がぐちゃぐちゃでどうすればいいのかわからなかった。この家の中にいたら発狂しそうになる。

ガチャ、玄関から聞こえた音で彼が素直に私の召喚に応じたことを悟ったー、と思ったが帰ってくるなり挨拶もそこそこに明日からの出張の用意なのか大きなキャリーケースに荷物をまとめ始める様子に思わず呆れてしまう。

「メッセージ見てないの」
「見たけど。僕お前と違って忙しいんだよねどうせつまんない話でしょ」

目も合わせることなく発された言葉に衝撃のあまり目の前がぱちぱちと小さなスパークを起こした。

「ー、そうだね、つまんない話だわ。忙しい悟のために簡潔にいうね、別れよう」
「は?なんて?」
「別れてって言った。恋人がいるのに別の人間と結婚する男とは付き合ってられない」
「ー?結婚?…ああ、そういやお見合いさせられたっけ。で?それが何?」
「それが何?釈明も説明もないの?」
「釈明?説明?別に説明することなんてないでしょ。忙しいからもう僕いくよ」
「ああそう。じゃあもうおしまいってことだねこれで」
「………好きにすれば?」

そう言ってそのまま悟は大きな荷物を持って出て行った。
こんなことってある?碌な説明もないまま忙しさを理由に取り付く島もなく突き放されて私の十年にわたる初恋は突然終わった。呆気なさすぎて正直何が起こったのか全くわからない。もはやお見合い相手のことすら認識してなさそうだったけどあんたその相手と結婚するんでしょ?特級術師となると忙しすぎて結婚する相手のことすらどうでもいいのだろうか。
一度も合わなかった視線、冷えた声色。そのどれもが私のことなどどうでもいいと思っていることがありありとわかった。実際顔を合わせたらごめんね、別のやつと結婚なんてしないよ。なんて謝ってもらえるのではと淡い期待さえ抱いていた自分の頭の弱さに死にたくなった。まさか本当にこんなふうに突然終わりが来るなんて思っていなかったものだから、本当に展開についていけない。十年。さっさと割り切るには長すぎる時間だった。淡い気持ちも迸る熱情も甘やかな愛情も切ない寂寥感も全部全部私は悟に捧げて生きてきた。泣き叫びたいくらい悲しいのに、何が起こったのかわからなくてどこから理解したらいいのかがわからない。頭が痛い。心臓が痛い。たくさん繋いだ手の震えが止まらない。魂は呆然としているのに身体は先に悟との別れを理解したのか悟に触れられた箇所が愛を求めて叫んでいるみたいだった。ほんとうに、痛いところがないくらい全身が痛い。







海外で所用を終えて日本に戻ってきた瞬間に思ったのは、「なまえに会いたい」だった。しばらくなまえと触れ合っていない気がする。そういえば日本を出る前に軽い喧嘩をしていた気がするが日本から離れていたせいか、それとも都合の悪いことは覚えていない自分の都合の良い頭のせいかどんな話題で言い合いになったのか思い出せない。なんか結婚がどうたら言ってたっけ?そういやしたな、お見合い。

出張する直前忙しい合間を縫ってわざわざ上層部の招集に応じてやった先に待っていたのはばっちりめかし込んだ若い女だった。呪術師たちがよく使う料亭の個室で、ニコニコ笑いながらちょこんと座っていた。なんだこれ。一瞬固まってしまったが女の隣でニヤニヤと嗤う腐ったみかんの顔に何となく悟った。あー、見合いかこれ。人がクソ忙しく働いてるっていうのにこんなクソどうでもいいイベントぶち込んでくるその脳みそどうなってんの?煽りに煽ってさっさと退席してやれば背後からしきりに結婚を進めるとかどーたら聞こえてくるが僕の了承もなしにそんなの進むはずないのに何言ってんの馬鹿なの?なんて思いながら「やれるもんならやってみなよ」と嘲笑を浮かべて立ち去った。その後も上層部からの嫌がらせで遠距離の任務が続き、ようやく帰ってこれた我が家で明日まではゆっくり休もうと思っていたのに、やけに機嫌の悪いなまえに突っかかられて心底うんざりした。結婚なんてするわけないのに僕を捲し立ててくるどころか別れるなんて構ってちゃんのようなことを言ってくるなまえにイラついて結局突き放してその日はホテルに泊まったんだっけか。……ちょっとひどいことを言ったかもしれない。長引くと面倒なだけだしサクッと謝っておこう、とフライト中電源を切っていたスマホの電源をつけた。

…やけに着信が多いな。知らない番号は無視、上層部も無視、硝子から『死ね』と一言入っているのが気になった。まあでも硝子から罵倒されるのは日常茶飯事なのでこれも無視。歌姫からも『死ね』と入っている。なんだ?僕に呪詛を吐くゲームでもしていたんだろうか。五条家の人間から多数の着信が入っていたのは後でかけなおそう。肝心のなまえからのメッセージは喧嘩をした日のメッセージだけで、あの日の苛立ちが再び脳裏によぎった気がして少しだけ嫌な予感がした。

メッセージアプリの通話機能は何度コールしても彼女に繋がることはなく、今どこにいる?というメッセージにもなかなか既読がつかない。仕方ないと連絡先の中から彼女の番号を呼びだしてみれば通話中の音が聞こえた。何だ。任務にでも呼び出されているのだろうか。仕方ない、家で帰ってくるのを待つしかないか、ついでにご機嫌とるためにケーキでも買っていこう。ガラガラとキャリーケースを引いて家路についた。


家に帰ると、ほんの少しだけ埃っぽさが気になった。まるで、しばらく誰も家に入っていないかのような空気感にまさかと玄関のシューズクロークを開ければ、なまえの靴がごっそりとなくなっていた。ここへ来てようやく、もしや今取り返しのつかない事態に発展しているのではと思い至り右手に持ったケーキの箱を玄関に放り投げてなまえのクローゼットを開け放つ、ー何も、ない。重要な書類なんかを入れていた引き出しを開けて彼女の持ち物を探すー、ない、洗面所においてあった彼女の化粧品は、ーない、ない、二人で買いに行った家具や調度品の一切は全てこの部屋に残っているのに、彼女個人が使っていたものが全てなくなっていた。まさか、出て行った?終わりだと言っていたのはこちらを試すためではなく本気で?
なまえの番号には、何度かけても通話中で繋がらず、メッセージは既読すらつかない。ようやくここでなまえが本気で自分と別れたがっていたことに気づいて血の気が引いていく。

慌てて僕に呪詛を送りつけてきた女に電話をかけた。あの呪詛はことの全容を知っているからこそ送ってきただろうことが想像できた。何コールかけても出ない電話を一度切って、以前飲みたいとぼやいていた酒の名前を何とか絞り出して通販サイトから女の住所へ送りつける。その明細をスクリーンショットして送信してやればすぐに折り返しの着信が入りワンコールでそれに出る。ため息をついた女が語った自分の身に起きている異常事態に僕は戦慄した。
なぜ自分の預かり知らないところで自分の結婚の話が進んでいるんだろう。あの見合いで結婚を了承したつもりは一切ないし、新居や式の日取りの話なんて以ての外。何で僕があんな得体の知れない女と結婚しなきゃなんないの。そういえば僕と結婚する権利はとうの昔に売却済みだった。この家を出て行ったなまえはそんなことももう忘れてしまったのだろうか。僕が日本を離れてる間に勝手に好き放題やらかしてくれた人間全てを地獄の底に落としてやらないと気が済まない。僕の都合のいい頭は「やれるもんならやってみな」なんて腐ったみかんに啖呵切っていたことなんてもちろんさっぱり忘れていた。







悟にあっけなく捨てられてから、二人で住んでいた家から自分の荷物をあらかた持ち出し、初めての一人暮らしが始まった。ボロ雑巾のようなメンタルをなんとか鼓舞してただただ無心で呪霊を祓う日々を送っていた。
悟があの日海外に向かってから彼の結婚話はどんどん具体性を増し、いよいよ式の日取りまで決定しているようで呪術界はばたばたとしていた。五条悟がたかが結婚するくらいでこうもお祭り騒ぎのように揺れ動くこの世界が滑稽でならない。こう強がってはいるが日々上書きされていく噂話に夜は枕を涙で濡らし、『五条悟に捨てられた女』のレッテルが貼られた自分に向けられる視線にどうにかなってしまいそうだった。同情哀れみ嘲笑、ほとんどがこの中のどれかでもはや私を心配してくれる言葉でさえ最近は鬱陶しくてたまらなかった。


「辞めようかな」


このまま呪術界に身を置くなら、五条悟という存在は意識しなくても目に耳に入ってくる。特に、これ以上悟の結婚話を聞いているのが苦痛でしかなかった。自分以外の女が彼の隣に平然と居座るのを黙って見届けられないほどまだ悟への熱を燻らせている自分自身が情けない。たかが恋人と別れたくらいで自分の使命とも思えていた仕事を投げ出そうとしているのだ。私の初恋というものはどうにも手に負えない化け物に膨れ上がっているようだった。
自分に誰かを助けられる力があるならと懸命に頑張ってきた仕事だったけれど、もう辛い思いをしてまでそれに縋り付かなくてもいいのではないだろうか。高専を卒業してから悟とすぐに同棲をしていたおかげで家賃光熱費食費の全てが悟もちだったこともあって私の預金通帳にはしばらく遊んで暮らせるくらいの蓄えがあった。冥冥さんに資産運用について教えを乞うのもいいかもしれない。
丁度いい。任務の報告に来たついでに夜蛾学長に挨拶して、今予定されてる任務が終わったら辞めさせてくださいって言おう。苦い顔をしながら私の報告書を受け取った補助監督に内心補助監督にまで哀れまれてることにショックを受けながらも次の任務の資料をもらって学長がちくちく針仕事をしている部屋に向かって歩を運ぼうと方向転換した時だった。急に背後から何者かに抱きつかれ、全身に悪寒が走る。高専内だからと完全に油断していた。慌てて反撃しようとしたのに、首周りに回る腕の感触、仄かに香る香水の匂い、肩口に広がる白髪が見覚えのあるもので驚きのあまり手に持っていた資料を滑らせてしまい、バサバサバサと紙が落ちていく音が遠くに聞こえる。


「ごめん」


あんな風に私を捨てた男に抱きしめられていることへの困惑、拒絶心でいっぱいなはずなのに、心の中の片隅でどうしようもない嬉しさが広がっているせいで、優しく首に回る腕を跳ね除けることができなかった。ずっとこうしてほしかった、でも別の女と結婚するこの男を受け入れるということのこれからの泥沼にしか思えない将来にどうすべきか逡巡している間に開口一番、いつも不遜げで自信満々で他者への配慮に欠けているはずの男の、弱々しい声が頭に響いて困惑を隠しきれない。

抱きしめられる感覚も、声も、匂いも全部が背後にいる男を悟だと判断しているのに、額を私の肩に押し付けながら甘えるように縋るように私に触れる男の手つきがまるで違う男のようだった。


「なまえ、怒ってる?」


相変わらず弱々しい問いが私に飛んできた。怒っているか、と聞かれれば、怒っている。
勝手に結婚を決めてしまった悟に、碌な説明もせずに忙しさを理由に私を蔑ろにした悟に、そして、昔に比べて私に対する態度が冷たくなった悟に、怒っていた。怒っている以上にそのどれもが辛くて、どうしようもなく悲しくて、もう消えてしまいたかった。それを言葉に出せば、きっと私は一生悟という泥沼から出られなくなることがわかってしまって怖くてたまらない。キラキラ輝いていた初恋を、人の道を外れた沼に沈み込ませたくなくて、無言を貫く。


「…なんで何も言ってくんないの。もう僕のこと嫌い?呆れた?冷めた?」
「……、」
「なあ、なんか言って。嫌いでもいいから死ねでもいいからなんか言って。久しぶりに家帰ったらなまえの荷物もなまえがいた空気感も全部無くなってんの、無理。僕のこと着拒してるよね?いやだ。絶対別れない。これからの人生なまえがいないなんて耐えられない。僕のこと捨てるの?いつか結婚しようっていったら笑ってくれたじゃん。もう笑ってくれないの?僕と結婚してくれないの?ねえ、なまえ、」
「ちょっと待って」
「!うん、何?」

後ろから抱きしめられていたはずなのにくるっと回転させられて向かい合うようになった悟がパァと褒められた犬のように頬を赤らめたことにも怪訝としてしまうがそれよりも、今なんて?『僕と結婚してくれないの?』は??何こいつ重婚するつもりなの?まさか五条家って未だに本妻とか側室とかの制度ある感じなの?

「私多妻の一人になるつもりはないんだけど」
「多妻???」
「……別の女と結婚する男とは付き合ってられないって言ったよね」
「…?……あ、そうか、その話してなかったね」


ごめん、へにゃりと眉を下げた男の、数日前からの変貌ぶりにこちらが狼狽える。一体何があったらあの不遜な態度がしおらしくなるのか。


「まずお見合いのことだけど、出張の前に上層部の人間に呼び出されて行った先がお見合いでね、怒ってすぐ出たんだけど何を勘違いしたのか勝手に話を進められてたみたいなんだよね。僕が海外出張行ってる間に外堀まで埋まってて流石に焦った。でも全部無かったことにしたし、そもそも婚姻届さえ書かなきゃ結婚はできないからね。仕組んだやつ全員にきついお灸据えてやったよ」
「…結婚、しないの?」
「訳のわかんない女とするわけないでしょ!逆になまえがいるのにすると思われてたことが心外なんだけど」
「……、私への説明は必要だったんじゃない」
「それは、僕的にはお見合いの時点で完全におじゃんにしたつもりだったから話す必要のないことっていうか…そもそもほとんど記憶から消え失せかけてたことだったし」
「それでもあの言い方はないよね。悟はいつも自分の中で情報を完結させちゃうから私に過程のことを話そうとしないし、いつも事後報告。だからこんなふうにすれ違うんだよ。しかも忙しいとか、イライラしてるとかですぐ態度に出るし私に当たってくるし、蔑ろだし冷たい。もう、愛されてないって、おもって、」
「!ちがう、ごめん。」
「、…」
「ごめん、泣かないで、ごめん。僕が馬鹿だった。子供だった。なまえなら何も言わなくてもわかってくれるって、伝わってるって、勘違いしてた。すき。愛してるよ。僕が結婚したいのは昔からなまえだけ」
「ばかじゃないの………」
「ごめん……っ」


違う人と結婚しないと言ってくれた悟に、愛してると言ってくれた悟に、目隠しせずに真剣に目を見て謝ってくれる悟に安心して、涙の調節機能が狂ったようにとめどなくこぼれ落ちていく。毎晩毎晩泣き腫らしていたのに、私の涙はまだ枯れるところを知らないらしい。私が泣いてるせいか、悟の綺麗な瞳まで潤んでいるような気がして、余計に胸がいっぱいになって広い胸板に頭を預ければぎゅうと力強く抱きしめられた。ずっと張り裂けるような痛みを感じていた体が安心して弛緩していくのがわかって、私はずっと体を強張らせていたことに気づく。


「悟、好き、ずっと、出会った時からずっと、今までもこれからもずっと、あなたのことが好き」
「………なまえ、僕と結婚してくれる?」
「…覚えてたんだね。忘れてると思ってたよ」
「ホントのこと言うとこの一件のことがあるまで結婚のこと考えてる余裕なくて忘れてた」
「……もう、」
「結婚するならなまえがいい。もう二度と僕の前から消えないで」
「うん、悟も、冷たくあたらないで、優しくして…」
「うん、約束する。家、帰ってきてくれる?」


こくん、と頷いた私の頬を優しく包んだ悟と触れ合うだけのキスを交わした。どうやら私の初恋はまだ散っていなかったらしい。これからどうなるかはわからないけれど、もしかすると私は前世でかなり徳を積んだ人間なのかもしれない。





「ふふ」
「何笑ってんの」
「ううん、人騒がせな二人だなって思われてるんだろうなって」
「硝子の顔見た?呆れてたね」
「違うよ、悟の新郎姿を想像して変な顔になっちゃったんだよ」
「はァ〜〜?僕ほどタキシード似合う日本人多分いないよ??」
「え、和装じゃないの」
「着物着飽きたからヤダ〜それになまえにドレス着せたまま夜しけこむって決めてるんだ〜〜」
「しけこむってきょうび言わないよね」
「さ、次は七海に渡しに行くよ〜」

悟の人差し指と中指の間にはさまれた純白の封筒は、窓から入る日差しを受けてキラキラと輝いていた。






柚月様、リク企画へのご参加ありがとうございました!
結婚前提の恋人がいるのに嫌々参加したお見合いの話が進み別れるけれど元サヤに戻るお話、ということでこのような話を書かせていただきました!かなり悩んでしまってボツ作品の嵐となってしまいましたが(笑)なんとか納得のいくものが書けました…!
ご期待に添えていたかガクブルですが楽しんでいただけると幸いです!今回は素敵なリクエストありがとうございました!


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