Act2-5

なまえの眠る寝室は朝になっても暗い。強い日差しが室内に入らないよう五条がかけた重厚なカーテンが朝日の侵入を防いでいた。ショートスリーパーな五条と眠れる時間のある時は眠れるだけ眠るタイプのなまえは、眠る瞬間は同じでも起きるタイミングが合うことはなく、大抵なまえが起きる前に五条はすでに起きていて、なまえの寝顔を眺めていたり朝の準備が終わっていたり、なんなら先に任務に向かっていたりで、なまえが起きる頃には隣に五条がいないということがほとんどだった。だからこそなまえは五条の寝顔を見た記憶というのは片手で数えられる程度しかなく、それこそ任務から帰ってきた時間が合わなかったときなどの場合でしかなかった。そのせいか、昨夜一緒に眠りについたはずの五条が、自分の隣で眠っているということを寝起きの脳で理解するのにしばし時間がかかってしまった。


「(寝てるとまつ毛の長さがより際立つなあ)」


カーテンのわずかな隙間から漏れ入る光で、五条の顔が青白く室内に浮かんでいる。白い髪の毛は無造作に枕の上に舞い、白いまつ毛は白い肌に落ち、五条の顔はどこもかしこも真っ白だなと五条の寝顔をなまえはじっくりと観察していた。
自分の腰に回る太い腕の脱力ぶりといい、顔の筋力の抜け具合といい、狸寝入りではない深い睡眠になまえは気配に敏感な五条を起こしてしまわないよう、細心の注意を払っていた。


「…ん、」
「!」


ぴくり、腰に回った五条の腕にわずかに力が入った。
すぐに長いまつ毛を携る奥行きのある瞼が寝起きとは思えないスピードで開かれた。


「なまえ?」
「ん?おはよ」
「珍しいね、びっくりした」
「私は悟の起き方にびっくりした」


急に全開なのすごくない??と笑うなまえに確かになまえのように寝起きに特有の緩慢さを感じたことがないなと五条は思った。


「反転術式のせいかな」
「うげぇ、疲れる生き方してる」
「うっせ」


顔を顰めながら失礼なことをいうなまえの額にぴん、とでこぴんをお見舞いする。痛くもないだろうに「いたあ」と笑うなまえの額にごめんねの意味を込めて唇を寄せておいた。





「憂太の訓練?うん、もちろんいいよ」


トーストを齧りながらなまえは五条から今日のスケジュールを確認され、空き時間に先月転入してきた乙骨の指導を依頼された。呪術どころかまだ体作りの段階だった乙骨は、なまえとやらせるには早すぎると普段の稽古は主に真希との呪具の打ち合い稽古が多い。なまえはそんな二人の呪具の扱い方をフォローすることが多かった。今日もそういうことなのだろう、と理解したなまえは問題ない旨を目の前の男に告げるが、五条は人差し指を左右に揺らして「チッチッチッ」とわざとらしくなまえを煽る。


「今日からなまえと体術してもらおうと思って」
「…え、早くない?」
「んー、でも憂太の成長スピードすごいでしょ?なまえとやったらもっと早く伸びそうだし。交流会までには仕上げときたいね」
「え、交流会出すつもりなの?」
「ん、二、三年人数少ないしね。それに呪術素人の憂太には術師との真剣勝負はいい経験になる」


前みたいに里香を出しちゃったら大変だからコントロールできるくらいの力は身につけてもらわないと。と言う五条になまえは確かに少し無理してでも力つけてもらわないとね、と新しいトーストにバターを塗りながら同調した。



「ーあ、それとさ。なまえって着物着たことある?」
「は?あるわけがない」
「だよね」
「……何考えてるか知らないけど絶対着ないよ?あんな『女はじっとしてろ』みたいな服絶対着ない」
「失礼な!日本の伝統ですよ!!」
「私のいた江戸はミニ丈の着物とか着てて可愛くて動きやすそうだったけどこっちの着物ってもうほんと動きにくそう」
「なあ、たまに出てくるその『江戸』のごちゃごちゃ感いつも気になるんだけどお前のいた世界ほんと何なの?」
「私地球人じゃないから知らなーい」
 

困った時の伝家の宝刀に五条はため息をついた。


「じゃあドレスでいっか」
「?」
「あ、そうそう一週間休み取れるならどこ行きたい?」
「は?!?!一週間?!?!そんな休み取れるわけないでしょ…」
「考えるだけ自由じゃん
「えー、なんだろ〜温泉とか行きたいかなあ」
「お、いいねいいね!なまえは日差しNGだからリゾートとかダメだしどこがいいかな〜ってずっと悩んでたんだよね」
「…ねえ、とれるかわかんない休みのこと考えて取れなかった時ショックになんないの??」
「絶対もぎ取るから心配しないで」


五条の据わった目になまえは伊地知の号泣する顔と夜蛾の激昂する顔までが想像できた。
あんまり周りに迷惑かけちゃダメだよ、と告げると五条のアホみたいな顔が返ってきてなまえは大きくため息をついた。






「今日から憂太、私と稽古ね」
「なまえ先生、よろしくお願いします…」


おずおず、とまだ慣れないのか隙だらけの様子で竹刀を構える乙骨から送られる視線になまえははて?と頭に疑問符を上げる。
私なんで生徒に心配されてるんだろうか。私は君のその構えの姿勢の方が不安だよ。となまえは内心呟いた。


「?どうしたの?心配事?」
「ーあっ、いえ、先生、かなり華奢に見えて…肌が太陽に弱いって聞いて…日傘?も差してますし…」


乙骨の竹刀を持つ手がかなり申し訳なさそうで躊躇いがちで、更には日傘を落とさせないように訓練するにはどうやって?とでも考えているのか自分を心配そうにチラチラ見てくる視線に、なまえは笑顔でピキ、と顔の血管を一本浮き上がらせる。
はっはーんなるほど?私、このもやしっ子に今舐められたのね?ー半殺しだな。なまえはそう決めた。今決めた。大人になったとはいえ、人間の本質は一朝一夕、いや数年、十数年経ってもなかなか変わりはしない。喧嘩っ早いなまえはこめかみに浮き上がらせた血管を隠すことすらせず珍しく準備運動を始めた。


「……あー、なんか久しぶりだなあ、この感じ」
「憂太死んだな」
「死んだな」
「明太子」
「エッ?!何!?僕なんか言っちゃいけないこと言っー」


いつもは生徒たちが攻撃してくるのを迎撃しつつ弱点を指摘しながらフォームや攻撃手法を指導していたなまえだったが、今日ばかりは、と先手を取って乙骨を吹っ飛ばした。
体勢を低くして鳩尾目掛けてかなり手加減しながら打撃を繰り出すと数メートル先まで吹っ飛んでいった乙骨。なまえは大腿部の筋肉をグッと強ばらせ乙骨が飛んでいったところまでジャンプすれば里香が乙骨を包むように守っているのを目視してハッと失笑を漏らした。里香の伸ばす手を無視し、体勢の整わない空中で乙骨の身体を掴んで地面に沈める。


「う゛っ!」
「ふふっ、真希より弱いのに私のこと心配してる場合?それに好きな女の子に守られてばっかで情けないねぇ!憂太。自分で何とかしてみな」
「!くぅっ!」


竹刀を地面に突き刺すことでなんとか元の体勢に戻ろうとする乙骨になまえは意地の悪い顔を浮かべた。ーざぁんねん、一つのことに意識が行きすぎて『敵』への注意力が散漫すぎるよ。背後に回って回し蹴りを食らわせればぐあっと胃液でも吐いてしまった様子の乙骨になまえは、あ、さすがにやりすぎたな、と慌てて乙骨の元へ駆け出した。ー瞬間、里香の手がなまえに向かって伸びてきた。

『ゆ゛うたを゛いじめるな゛ぁあ』
「いじめてないよ鍛えてるの。恋人は強いほうがいいでしょ」

ハエ叩きのように自身を吹っ飛ばそうとする手を弾くつもりで蹴り返すが、里香はノーダメージなのか微動だにしていなかった。呪具も使ってない攻撃なのでもちろん効かないとは思っていたが、顕現していない状態でこれとは想定してたより防御力が高い。なまえの口元はにんまりと弧を描いていた。


『ここ、こいびとォ゛』
「あは、里香照れてるの?かぁわいいなあ」


頬を染めている(ように見える)里香になまえがニコニコと笑えばしゅうと乙骨の背後に消えていく。
背後で「可愛い…?」「可愛いって何だっけ?」「昆布…」なんて呟いている失礼な三人組になまえは足元に転がる石ころを蹴り飛ばした。
地面に転がって砂まみれになってしまった乙骨が青ざめた表情でのそりと起き上がる。


「す、すみませんでした……」
「わかったならよし。見た目に騙されちゃ駄目だよ」
「じ、自分で言うんだ………」


なまえが乙骨と初めての稽古をしてからというものの、どれだけ乙骨が同級生やなまえから理不尽な扱いを受け、地面に沈めてられても里香が出てくることは無くなった。うん、やっぱり彼氏は強い方がいいよね、わかるわかる、とはなまえの言である。







△▼


季節は移り変わり、夏がやってきた。憂太は高専にもずいぶん慣れてきたようで、オドオドした態度も鳴りを潜め、少しだけ明るくなったように感じられる。まだコミュニケーションの取りにくい棘とは少し距離が感じられるが気の利くパンダやつっけんどんだが根は面倒見のいい真希とはうまくやっているようである。そして今日はそんな棘と憂太が二人で任務に向かった。棘は一年では珍しい二級だし、問題もないだろうと考えあえて二人にすることで距離が縮まればと引率しなかったが、伊地知からの連絡に肝を冷やした。


「棘!憂太!おかえー、」

一年の任務で問題が発生したと焦る伊地知から連絡を受け、すぐに向かおうとしていたところに軽症で戻ってきたと連絡が入り、胸を撫で下ろして高専で二人の帰宅を待っていた。血濡れな憂太と喉を酷使し、指を怪我して帰ってきた棘から微弱ながら感じた気配に、思わず顔を顰める。


「なまえ先生!ただいま戻りました」
「…棘、憂太、誰かと会った…?」
「??」
「…?いえ、特には…伊地知さんだけです」
「……そう、無事でよかった。硝子が医務室で待ってる。早く行ってきな」


不思議そうな表情で硝子の元へ行く二人を見届けて、車の前で冷や汗をかいている伊地知に二人の任務地を確認する。ここなら車より走った方が早いな、と呼び止める伊地知を無視して高専を飛び出した。
看板も何も掲げられていない無人の商店街。そこに残っていたのは想定した通りよく見知った人物の気配だった。
スマホの着信履歴の中から目当ての名前を探してタップする。


『なまえからかけてくるの珍しいね』
「うん、急用。…悟、夏油が接触してきた」
『ーは?』
「棘の任務。横槍入れてきた」
『すぐに行くよ』


文字通り、すぐに現れた悟は私同様商店街を一瞥して包帯をしている上からわかるほど眉を顰めていた。


「なんで今更生徒たちなんだろう」
「僕ら二人が教師やってんの聞きつけて見にきたとか?」
「……見にきただけじゃなくて手ェ出してんじゃん。夏油の目的は非術師殺すことでしょう?」
「うーん、何だろうね」
「それに、別れるとき言ってたもん。仲間が傷つくの見てられないって。もう私たちは夏油の仲間だと思われてないかもしれないけど、でも、非術師さえいなけりゃ術師が傷つかないとも言ってた。術師が傷つくの嫌で出てった奴がただの非術師ならまだしも好き好んで生徒殺そうとすると思えない」
「………それ、傑が言ってたの?」
「……?うん、そうだけど」


悟が驚いたように包帯で隠された目でじい、とこちらをまっすぐ見つめてきた。何も言い出そうとしない悟に、何?と尋ねれば途端に目頭を抑え出し、ククッ、と笑い出して更に解せない。


「ふふ、はあ、久しぶりにこんなに笑ったなあ」
「どうしたの」
「………いや、傑って相当なロマンチストだなって」
「……ロマンチスト、ね……夏油、昔から優しかったから」


そうだね、と笑う悟の顔がとても穏やかで、昔を懐かしんでいるのは明白で、きっと私には私の夏油との思い出があるように、悟には悟の、それこそ私なんかより遥かにたくさん積み重ねた思い出があるんだろうな、と思うと胸が締め付けられそうだった。
出会った頃から、悟と傑の間には入り込めない特有の空気感があったから。


「…行こうか。伊地知の話を聞くよ。学長に報告もしないとね」
「…そうだね」


懐かしい夏油の気配がありありと残る商店街を一度振り返る。


「非術師がいない世界なんて世界じゃないよ」
「僕もそう思うよ」


手を差し伸ばす悟の手を取れば、いつものように凄まじいスピードで空間が引き寄せられていく感覚に、目を閉じて身を委ねた。


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