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 ◇◇◇


 つねってもつねっても、目が覚めない。
 憧れの羽島先輩と初めて話したその日に、同じ班になって……映画を作れることになるなんて。
 これが夢なら、一生醒めないでほしい。

「前原?」
「うわ、はいっ!」
 息がかかるほど間近で、羽島先輩に顔を覗きこまれて、飛び上がる。
「この店見てみるか」
「は、はい」

 今日は、日曜日。
 羽島先輩と渋谷に買い物に来ている。
 昨日の今日で早速、衣装の下見だ。
 あの後、携帯で部室に呼び出されて、先輩にコンテを見せてもらった。
 映画の内容を聞くと……先輩は、アイデアの宝庫だった。天才ってこういう人のこというんだろうなあ、と。
 演じる生徒も何人か紹介してもらって、今、俺の頭はその人達のイメージに合う服を探してフル回転中だ。

 セレクトショップの棚を睨みながら、先輩が顎に手を当てている。
 先輩が着ている襟ぐりの開いたカットソーからは、きれいな鎖骨と、胸の稜線に続くなだらかなラインが覗いている。首筋が綺麗だなあ。
 ラフなパンツや、そのポケットに突っ込まれた財布は黒で統一されていて、大人っぽい。……俺には着たくても似合わない、男っぽい格好だ。
 先輩みたいに甘い雰囲気のある人なら、柄物のスーツも似合いそうだな……チェックとか、ベージュとか……着こなし難しいのもいけるかも……。
 先輩は、着せ替えがいがありそうで、妄想するのが楽しすぎる。
「……どした、この店気に入らない?」
「えっ」
 声をかけられて、俺は、入り口に立ちっぱなしだったことに気づいた。
 無意識に、少し離れたところに待機してしまってたみたいで。
「こっち来なよ」
「いや、あの、畏れ多いです……」
「は?」
「その……先輩のこと、遠くから見る方が慣れてるもんですから」
 しどろもどろと言うと、先輩が、は、と笑った。
「前原って面白いのな」
 先輩の笑いが止まらなくて、思わずすみません、と言う。
「あ、あの、思い当たる店があるんですけど――」
 誤魔化しも兼ねておずおず言うと、先輩が瞬きした。
 すぐにモードを切り替えてたように、早足で颯爽と歩み寄ってくるその姿に目眩がする。
「頼もしいなあ、優秀な後輩は」
 俺の肩をぎゅっと抱いて、先輩が言った。
 見上げると、その笑顔は楽しそうであどけなくて、ドキドキした。


 ※


「俺、前原に惚れそう」
「え……げほげほ!」
 オレンジジュースでむせたら、テーブルの向かいから先輩がハンカチを差し出しながら言った。
「俺の目に間違いはなかったな。前原、いい感性してる」

 あ、なんだ、そういう意味か……。
 俺は、少し肩すかしな気持ちになりながら、むせた涙目を借りたハンカチで拭った。

「前原に、頭の中覗かれた気分になったなー」
 思い当たるショップを紹介して回ったら、先輩は、立て続けにイメージに近い衣装を見つけられたみたいだ。
 機嫌も良くて、いつもの羽島スマイルが20%増量。くらくらしてしまう。
 先輩はいつも誰かに囲まれて笑っているけど、頭の端に常に冷静さを残してるみたいで、近寄り難い雰囲気を感じていた。
 でも、こうやって笑うのを間近で見ると、無邪気でかわいい人だと思う。
「前原は、学校じゃひかえめなのにな。普段着見たら印象変わった」
「え?」
 自分の姿を見下ろす。
「服飾とか勉強してるの」
 訊かれて、慌てて頭を振った。
「小さい頃から、姉ちゃんにいろんな格好させられてはいましたけど――」
 中学の頃、スカート履かされて、女の子のアイドルオーディションに写真を送られた話をする。「……しかも、一次通ったんです」
 先輩が吹き出す。
「慌てて辞退の連絡して――姉ちゃん、親父にすごい怒られてました。“おまえは、弟を妹にしたいのか!”って」
「はは! いや、確かに雰囲気あるな」
「やめてください……」
「見てみたかったなー、前原のスカート姿」
 先輩が、目を細めて俺を見る。
 照れくさくて、ジュルジュルとストローでオレンジジュースを吸った。
「学校でも、前髪上げたら」
「え、あ、これ……ですか」
 自分の頭を触る。
 今日は、長い前髪が邪魔だからピンで留めてきたんだ。女っぽくならないようにハズした感じにはしたけど。
「全然イメージ変わるよ、勿体ない。前原のかわいい顔が、普段隠れてるなんて」
「かっ、かわっ!?」
 ありえない。
 この人は正気で言ってるんだろうか。
「前原にも、役つけたいな……」
 頬杖ついたまま、先輩がぼそっと呟く。
 俺は、慌てて首を振った。
「だ、だめです! アップに耐えられません!」
「前原は、ほんと自己評価低いよな」
「あ、すみません……卑屈で……」
「画面栄えすると思うよ? 演技は後でついてくる場合もあるし」
 買い被りすぎです、と答えた声が小さくなってしまった。
 取柄がない俺を先輩は、褒めてくれる。
 でも、調子に乗っちゃだめだ。先輩は、優しいんだから。
「前原、もっと自信持ったら? ……俺から見ても、十分魅力的だよ」
 後半、少し低く抑えられた声に、どくん、と胸が鳴った。
 先輩の柔らかい眼差しに徐々に心拍数が上がってきて、困る。
「せ、先輩って、モテます、よね」
「ん?」
「俺が女子で、先輩にそんな風に言われたら……絶対好きになります……」
 恨みごとを込めて冗談混じりに言ったんだけど、一瞬、奇妙な間が訪れた。
 あれっと思って、ジュースから視線を上げる。
 迷うような先輩の表情。
「……俺、男とつきあったことはないなあ……」
「え? あ。た、例え話ですよ!?」
 慌てて言ったら、声が震えてしまった。
 先輩が、眉を上げて微笑む。
「なんだ。前原に告白されたかと思って、真剣に困ったのに」

 困った、か――。

 ずき、と胸が痛んで、えっと思う。
 ……なんで、ショック受けてるんだろう。
「前原」
「は、はい?」
 呼ばれて、笑顔を貼り付けて顔を上げた。
 先輩が静かに微笑みを浮かべて、小声で、でもはっきり言った。
「俺のこと、好きになっちゃダメだよ」
「え」
 また、ドクンと心臓が鳴る。今度は、少し違うドクンだった。
 どういう意味なのか訊き返す間もなく、先輩が伝票を取って立ち上がる。
「そろそろ行こうか。出られる?」
「あ、は、はい」
 カバンから財布を出そうとした俺の手に、軽く手を置きながら先輩が微笑んだ。
「後輩は、おごられとけ」
 それがまた画になってて、俺は、ますます羽島先輩がかっこいいと思ってしまった。


 別れ際、改札前で先輩が言う。
「今日はありがとな」
「いえ、こちらこそおごってもらって――」
 くしゃっ、と項(うなじ)からすくうように、髪の毛を撫でられる。先輩の手のひらが首筋を撫でた感触に、ぞくんとした。
「礼儀正しくて、いい子だな。前原は」
 先輩の親指が、ちょい、と俺の頬をつまんで離れた。
 それがすごく自然な触れ方だったから、普通に受け入れてしまった。……なんか、いちいちどきどきして女の子になった気分だ。
「また明日。学校で」
 笑顔で俺の肩を押して送り出す先輩を、名残惜しげに見てから改札に入る。
 振り向くと、まだ見送ってくれていた。俺、女の子じゃないのに……優しすぎる。
 本当にかっこいい人は、同性にも優しい。――1日先輩と一緒にいて、そう思った。
 丁度来ていた電車に乗った後、窓に映った渋谷の風景に胸がぎゅっとなる。
 さっきまであの道を、先輩と歩いてたんだ。俺。
 その時ふと、先輩の言葉が頭を過ぎった。

『好きになっちゃダメだよ』

「……どういう意味、かな」
 先輩の少し困ったような笑顔。小声の艶やかさ。
 何度も何度も、頭の中で繰り返してしまう。
 好きな映画を巻き戻して、繰り返し観るように。
 たった一度、ほんの数時間一緒に過ごしただけなのに、先輩はやっぱり輝いてて、思った通りの理想の人だ。
 ……また、今日みたいに2人で会いたい。
 そう思ってる自分に気づいて、不安になった。


 ◇◇◇


「前原ー」
 一緒に買物に行って以来、時々、先輩が教室に顔を出す。
 ほとんどが映画の為の打ち合わせなんだけど、それでも、学校の有名人が俺を訪ねて来てくれるのは嬉しいっていうか……なんとなく、誇らしくもあった。
 授業終わりに先輩が来た時は、そのまま一緒に部室に向かったりする。
 俺と先輩、っていう妙な取り合わせに、すれ違う生徒は大体丸い目をする。
 でも、そんな刺さるような視線も最近は気にならなくなってきた。
 先輩と一緒にいることの方が、何倍も俺にとっては重大で。夢心地で。
 先輩は相変わらず、かっこいい。何気なくポケットに手を突っ込んで歩く姿も。時々髪を掻き上げる仕草も、本当に嫌味がない。
 そして俺は、時々目を細めて話す羽島先輩に見とれる時間が、大好きだ。

「おまえさ」
 並んで歩きながら、ふいに先輩の視線を感じて、隣を見上げる。
「少しは俺に慣れてくれたのかわからないけど、よく目が合うようになったな」
 そう言って眉をハの字にして笑う先輩に、ハッとする。

 ……そうだ。
 俺、前より周りが見えるようになった。
 みんなの顔が見えるし。
 クラスメイトがみんな、どんな顔してたのかもわかるようになった。
 景色が、ワントーン、彩度が上がったような感じだ。
 先輩と一緒にいると、自分が自分じゃなくなってく。
 それはまるで、古い自分をゆっくりと脱いでいくような感覚だった。


 それである日、俺は、試してみたくなった。
 長い前髪の隙間からじゃない教室は、どういう風に見えるのかなって。

「あれ。顔見える」
 呼びに来た先輩が、少し驚いたように目を丸くする。「買い物ぶり? でも、あの時と留め方が少し違うな」
 言いながら、髪をワックスで跳ね上げるようにして耳の横にざっくり留めたピンの辺りを先輩が観察するように見ている。
「あ……と、変、ですか」
 不安になって、ピンを取ろうとすると、綺麗な指先がそっと俺の手にかかった。
「似合ってるよ。かっこいい」
「っ」
 呟くような声だったのに、その言葉が、俺の中で何倍にも膨れ上がる。
 胸がいっぱいになって、思わず泣きそうになってしまった。
「ほんと……前原って、素直だな」
 そう言って、苦笑しながら先輩が俺の頬を親指で触る。
 あんまりドキドキさせないで欲しい。あの日先輩は、「俺を好きになるな」って言ったんだから。

 この数日間で、クラスメイトの反応は、わかりやすく変化した。
 話しかけてくれるようになったし、バカにしてくる奴もいなくなった。
 ほんの少しの違いなのに。こんな簡単なことで、世界は変わってしまうんだ。




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