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ラブ・イズ・ブルー







 俺に友達はいない。

 休み時間は、自分の席で授業が始まるのをひたすら待つ。
 授業が始まると、学校での一日の終わりをひたすら待つ。
 それが、俺――前原冴(まえはら・さえる)の日常だ。
 何を期待したのか、両親は冴えない俺に真逆の名前をつけた。
 鬱蒼と長い前髪のせいで、陰で鬼太郎って呼ばれてるのを知ってる。
 勉強も運動も並み以下……なんのとりえもない人間だ。
 周りで誰が騒いでいようが、自分には関係のない世界。
 関係ない、はずだったのに。

「前原(まえはら)」

 名前を呼ばれた気がした。
 でも、学校で俺のことを呼ぶ人なんていないし、きっと空耳だ。
 思いながら顔を上げると、教室中の視線がこっちに集まっていた。
 なんだろうか?
 後ろから名前もわからないクラスメートに、肩を押される。
「……おい。なにやってんだよ呼ばれてるぞ」
「え? 誰が……誰に?」
「おまえが、羽島(はしま)先輩に、だよ」
「は、しま?」

 ”はしま”って、あの、羽島先輩?
 冗談。1年の教室に来るわけがないし。
 まして、先輩が俺を呼ぶなんて、ないない。
 羽島先輩は、俺の憧れの人なんだから。いや……きっとみんなにとっても憧れの――。

「前原」
 ……今、はっきり聞こえた。
 呼ばれたのは、間違いなく俺の苗字だった。
 恐る恐る顔を上げて、教室の前方のドアを見る。
 先輩が、立っている。
「え、あ、は、はい!」
 大慌てで立ち上がると、ざわっと教室がどよめいた。
 改めて。あの人は、羽島育美(はしま・いくみ)先輩。
 名前通り、すくすく美しく育ちましたって感じの一学年上の先輩だ。
 170半ばの身長は、小顔のせいかもっと高く見える。肩に付きそうな長さの茶髪は、大人っぽくて似合ってるし、目を細めるクセは、周りの空気を溶かすように色っぽい。快活さと退廃的な雰囲気が同居して、人を惹きつけるミステリアスなオーラを放っている。
 その存在感は、俺とは真逆。別次元だ。
 俺と同じシンプルなブレザーのはずなのに、先輩が着ると高級スーツに見えてくる。
 先輩は、うざいだけの俺のとは違う、長めの前髪を大雑把に掻き上げた。
「前原ー」
 先輩は、俺を見ながら間延びした調子でもう一度言うと、微笑んだ。
 ……まさかその笑顔、俺に向けられてる?
 指先で、来い来い、されて、信じられない気持ちで一歩踏み出す。教室中の生徒の視線が刺さってきて痛い。歩く足元が、ぐらぐらした。
 先輩にどれぐらい近づけばわからなくて、とりあえず教壇の辺りに立つ。
 俺を見た先輩は、一瞬呆けてから、小さく吹き出した。
「前原。遠い。もっとこっち」
 言いながら俺を指先で呼ぶ。呼ばれるままに、また、ふらふらと。
「前原、さ」
 相槌打つのを忘れて、先輩を凝視してる俺に、少し首を傾げながら先輩が続けた。「前原ー?」
「えっ、あ、はい!すみません……」
 慌てて返事する。
 気持ち悪い、とか思われてたらどうしよう。
 今度は、先輩をまともに見られなくなった。
 先輩が、前髪を掻き上げたままでいた手をふらりと落とす。滑るように揺れ落ちる髪先に見惚れた。

「前原。俺のところに来て」

 ……言葉がすぐに頭に入ってこなくて、また、先輩を凝視してしまう。
「前原、聞いてる?」
「えっ、は、はい、その……俺の、ところって……?」
「映研の班だよ」
 念押しするように言われて、あんぐりと口を開けてしまった。

 映研とは、自主制作映画研究部の通称。文字通り、映画を撮る部活だ。
 社交性ゼロの俺が唯一、自主的に参加している場所。
 その理由はひとつ。羽島先輩が部長だからだ。

 入学式の翌日、生徒が集められた講堂で一本の映画が上映された。
 タイトルは、『ラブ・イズ・ブルー』。
 海岸の場面から始まる、青味がかったの短編映画で、学生カップルの未熟な恋を描いた作品だった。
 出てくる男も女も、本当にどうしようもないんだけど……でも、それが妙にリアルで胸に突き刺さった。
 そして上映後、マイクを持ってステージに出てきたのが、羽島先輩だった。
 自分と1歳しか違わない先輩が撮った映画だって聞いて、よけい興奮した。
 『ラブ・イズ・ブルー』で、映画協会が主催する短編部門の新人監督賞とかっていうのに最年少で選ばれたらしくて、それだけで既に只者ではなかったんだけど……加えて舞台上の先輩は常人離れしたオーラを放っていた。

 俺は、その日の内に映研に入部した。
 もしそれが映研じゃなくて、『羽島教』っていう宗教だったとしても、入っていたと思う。

 それから羽島先輩は、俺にとって雲の上の人だ。
 切なくて甘くて冷たい、映画の空気そのままを纏って――何もかもかっこ良く感じた。俺の理想なんだ。
 でも、大所帯の映研では、違う班の羽島先輩とほとんど顔を合わせることがないまま、半年が経っていた。

 ――だから今、俺は、この急展開についていけてない。
「前原、眠い?」
「え、あ、はいっ……いや、違います! すっごく目ぇ冴えてます」
「俺の班、衣装に欠員出てさ。前原の班の作品見て、頼もうと思ったんだけど」
「……あの……うちの班のって、みんなにボロクソ言われたやつ、ですか……?」
 恐る恐る言うと、先輩も困ったように笑った。
 俺が入ってたチームが作った5分足らずの映画の出来は、最悪だった。
 チームワークはバラバラ。そりの合わないメンバーがしょっちゅう喧嘩をして、険悪なムードの撮影。
 結局、監督の生徒が退部して、班は、この前空中分解したところだ。
 上映会では、部のみんなが困った顔で黙ってたのをよく覚えてる。
 俺は、(みんな、俺を見るクラスメイトと同じ顔だ……)と思いながら部室の隅で小さくなっていた。
「衣装、前原だったろ」
「あ、はい」
「監督の意図を汲もうとしてたのが伝わってきた。センスもいいし」

 ……今、褒められた?
 羽島先輩に……?

 卒倒しそうになって、必死にその場でふんばる。
「い、いいんですか……?」
 先輩が、ん? って顔をする。
「その――先輩は、次の作品を大きな賞に出すって聞いてますし、そんな大事な時に……俺なんか関わっていいんでしょうか」
 先輩は、一瞬呆気にとられた後、静かに言った。
「なんか、って言うなよ」
「え」
「俺、卑屈な奴は嫌い。めんどくさいから」
 ぐさあっと胸を巨大な槍が貫いた。血の気が引く。
 先輩が、俺を見て小さく笑いながら言った。
「でも、素直な奴は好きだよ。そうやって正直に真っ青になっちゃうところもさ、俺の言葉が砂に染みるみたいに入っていってるのが、よーくわかる」
 形の良い唇から滑り出てくる言葉は、先輩から見た俺で埋め尽くされていた。
「前原は、俺の嫌いなものと好きなもの、両方持ってるから……興味ある」
 ”嫌いなものと、好きなもの”?
 ……先輩の言葉は、難しい。
「で、前原は、俺の所に来てくれるの」
 俺は、反射的に頷いていた。
 先輩が、そう、と微笑んで、携帯を取り出す。
「番号とアドレス教えて。連絡取りやすくしたいから」
 俺は、転がるように席に走って、学校では滅多に触らない携帯をカバンから取り出した。

 先輩と番号を交換している間、教室のみんなの息を潜めた視線が背中に刺さっていた。
 観察されているのを感じて、小さくなる。
 あ。先輩の携帯、赤いんだ……意外かも。てっきり青かな、とか。
 先輩の片手に収まって、長い指で自由自在に操られている携帯が、ふと、羨ましくなった。
「……いった?」
「あ……はい。きました」
 画面に赤外線受信の表示が出て、俺は、ほっと一息吐き出した。
「後で俺の方にメール頂戴」
「わかりました」
 同時に、チャイムが鳴って、先輩が手慣れた動作で携帯をポケットにしまいこむ。
「よかった。内心、断られたらどうしようかと思ってた」
 そんな畏れ多いこと――言いかけて、うまく言葉にならなかったから代わりに首を振った。
 先輩が小さく笑って、踵を返す。
 俺は、さっきから定まらない足を騙し騙し立っていたわけなんだけど、とうとう力が抜けてしゃがみ込んだ。

 ……世界が突然、俺に繋がりを持とうとしてきてる。
 憧れていた、キラキラした世界が。
 嬉しさと戸惑いと、怖いもの見たさと不安を抱えながら、俺は、ミステリアスな羽島先輩の背中を見送った。




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