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「葵。永田先生からお電話があったわよ」
 居間で向き合って早めの夕飯を食べながら、母さんが渋い顔をして言った。「今日の授業、お休みにしてほしいって言ったんですって?」
 ……いちいち自宅に電話して確認するなんて、なんて都合の悪いことをしてくれるんだ、永田さんは。
「どういうこと? 説明しなさい」
「……予定があるんだよ」
「何の予定よ」
「なんでもいいじゃん」
 夕飯もそこそこに立ち上がる。
「ちょっと、葵」
「1日休むだけだろ」
 階段を駆け上がる。
 母さんの声が追いかけてきたけど、部屋に飛び込んでドアを閉めた。

 時計を見上げると、7時前だった。
 いつもなら、そろそろ永田さんが来る時間だ。

 ……会いたくない。今は、絶対に会いたくないんだ。
 どんな顔をしたらいいのかわからない。
 気持ちの整理がつかない。
 母さんが考えている以上に、今、俺には、いろんな事情が押し寄せているんだから。

 永田さんに、高校生の彼女がいること。
 それにショックを受けて、八つ当たりするように出てきてしまったこと。
 そして……永田さんを好きなんだって、わかってしまったこと。男の人を好きになってしまった事実。

 どれも、いっぺんに受け取るには複雑過ぎて、気持ちが追いついていかない。
 だから、どんな顔したらいいのかわからない。

 居ても立ってもいられなくて、財布と上着を掴む。
 一晩、どこかに逃げよう。どこでもいい、1人になれるところに。

 そう思って、ドアノブに手をかけた時だった。
『あら、先生!』
 階下から聞こえた母さんの声に、慌ててドアノブを離す。
「な」

 なんで?

『葵!永田先生がみえてるわよ』
 母さんの声が階段の下から聞こえる。
「なんで来るんだよ……」

 会えないよ。会えるわけない。

 返事をしないで、部屋をうろうろした。
 どうしよう。どうやって逃げよう。
『わかりました。少し話してみます』
 階段を上がってくる永田さんの声が聞こえる。
 窓を開けて、逃げられないか考えてみた。2階は思った以上に高い。
 ――コンコン。
 ノックの音に、びくっとする。
『日野? 入っていいか』

 よくない。絶対。

 俺は、慌ててドアに飛びついて鍵をかけようとした。
 その前に、ドアが開いて。
 ゴンっ!
「いっ!」
 額を押さえて後ずさる。
「あ、悪い」
「〜……っ」
 部屋に入ってきた永田さんが、へたり込もうとした俺の腕を掴んで支える。

 なんで、来たんだよ……。

 涙目で見上げると、永田さんは、小さくため息をしてドアを閉めた。
 俺をベッドに座らせて、自分も隣にゆっくりと座りながら、顔を覗き込んでくる。
「大丈夫か? 見せてみろ」
 顎を持たれて、その手から逃げる。
「いい……大丈夫、ですから」
「何があったんだよ」
 ……珍しく心配そうな顔。

 プライベートな話、しないんだろ?
 会社規則で、勉強に関係ない話はしないんだろ?

 黒い言葉が、喉の奥でぐるぐる渦巻く。
「……今日、休みにしてくださいって言ったじゃないですか」
「はい、なんて聞けるか。様子が変なのに」
 永田さんは、大人だからわかるんだよな。
 俺みたいな子どものことなんか手にとるようにわかる。
 なら、察してくれてもいいじゃないか。そっとしておいてくれてもいいじゃないか。 
「俺が何か言ったら、永田さんは何かしてくれるんですか」
 永田さんが、瞬きをする。
 口が止まらない。
「家庭教師の永田さんは、会社規則破って俺に何かしてくれるんですか……!?」
 言ってしまってから、慌てて口を手でふさぐ。

 しまった。こんなつもりじゃない。
 こんなの、ただの八つ当たりだ。
 俺が勝手に永田さんを好きなだけなのに。

 深呼吸をして、すみません、と頭を下げた。
「……俺、どうかしてるみたい、かも」
「何でもするよ」
 ぽつりと呟かれた声に、目を上げる。
「え?」
「今日は授業休みだろ。家庭教師として来てるんじゃないんだ」
 真っ直ぐ見つめられて、声が喉に引っかかる。
「どういう――?」
「あんな風に逃げられたら心配になる」
 あ。俺が塾を飛び出したこと、気にしてるのかな。
 だったら心配なんていらない。だって、俺が永田さんを好きなことが問題なんだから。
 でもたぶん、そんなこと永田さんに言ってもわからない。
 俺は、どうにか笑って言った。
「ほんと、何でもないんです。あの時は……ちょっと、いろいろ混乱してただけで」
「無理して笑うな」
 言われて、言葉に詰まる。
「……聞いたよ、彼女じゃないって」
 急に言われて、本当に一瞬混乱した。
「沢野辺さん、だっけ。ついて来てもらっただけだって言ってた」
「あ――」
「からかって悪かった」
 素直に謝られて、うろたえる。
「そんなの、いちいち謝ることじゃないですから」
 ふと、永田さんの目が真剣なのに気づいて言葉を飲み込んだ。
「……永田さん?」
「おまえの気持ち考えたら、あんなこと言っちゃいけなかったよな」
「え」
 小さくベッドが鳴って、大きな手が俺の顎を捕まえる。
 柔らかく引き寄せられた。
 とん、と唇が、柔らかいクッションに触れたような感触に包まれる。
 それは、すぐに離れていったけど、俺は、何が起こったのかしばらくわからなくて呆然としていた。
 永田さんの目をまじまじと見てしまう。
「罰、ゲーム……?」
 ふと、口から言葉が零れた。
 永田さんが、一瞬、眉をひそめる。
「いや、だってこの間……永田さん、途中でやめたから――」

 それの、続き?

「あの時は、やめなきゃしょうがなかっただろ。しかもあれは、罰じゃなくてご褒美だって」
 どっちでも、変わらないよ。
 気持ちが入ってなければ、俺にとってはどっちも一緒だ。
 ぼろっと、涙が転がる。
 自分の気持ちがぐちゃぐちゃで、永田さんの行動が理解できなくて。
 心の中で処理ができなくて、涙になって溢れてしまった。
「日野――」
「なんで、こんなことするんですか……」

 ひどいよ。




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