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「こんにちはー」
 自動ドアが開くと、明るい声が受付に響く。

 一夜明けて、俺は結局、沢野辺と一緒に、個人塾『アドバンス・ワン』に来ていた。

 手前に受付。奥には、いくつか仕切りが設けられていて、ぼそぼそと授業の声が聞こえてくる。
「あれ? 体験授業、2人だったっけ……?」
「俺は違います」
 受付のお姉さんに、慌てて首を振った。

 流れで一緒に来てしまったけど、どうするか無計画だ。
 とりあえず、『俺みたいにできない子』がどんな子なのか――それだけ見たら、永田さんに気づかれない内にさっさと帰ろう。
 
「沢野辺さん。このアンケート、記入してもらえますか」
「あ、はい」
 沢野辺は、昨日、俺の返事を待たずにさっさと体験授業の予約を済ませた。
 しかも、永田さんを指名したみたいで、こういう時の女子の行動力はすごいと思う。
「せっかくだから君も授業受けていかない?」
「いや、俺はもう習ってるんで」
 アンケートを差し出されて、苦笑いした。
「じゃあ、つき添いで来たのね」
「はあ、まあ」
 そう会話しながら、アンケートだけはしっかり渡された。
 ……タイミングを見て、遠目に永田さんの授業を確認したらすぐに帰るんだぞ。
 そう自分に確認して、名前欄に『日野葵』と記入した。
 と、手元に影が落ちる。

「驚いた。来てたの」

 この、いい声は。

 弾かれたように見上げると、見慣れたきれいな顔。
 テーブルに手をついて、俺の顔を覗き込むみたいに永田さんが立っていた。
 ふいうちに思いっきりうろたえてしまう。 
「どうした、何か急ぎの用事?」
 首を傾げて目を細めた永田さんに見つめられて、頭が真っ白になる。
 外で会うのは、考えればこれが初めてで、調子が狂う。
 な、何か言わないと――。
「え、っと……」
「こんにちは!」
 俺が狼狽えてると、沢野辺が俺の向かいの席から挨拶をした。
 永田さんが、その声に顔を上げて一瞬何か考えた顔をする。
「沢野辺です」
「ああ、聞いてるよ。体験授業の子だよね」
 ふわっ、と永田さんがいつもの柔らかい笑みを浮かべた。
 沢野辺の目は、完全にハートマークになっている。

 ……永田さん、俺の時と全然違うじゃん。すごい優しそう。

 ふてくされていると、永田さんが囁いてきた。
「彼女について来てあげたってわけ?」
 え、と顔を上げる。
「いるなんて全然気づかなかったな。大人だねー……日野は」
 意地悪そうに甘く囁かれて、どくっと心臓が跳ねる。
「ちっ――」
 違う……って思いっきり否定したら、沢野辺に失礼かな。
 うろうろ悩んでいる間に、永田さんの後ろから誰かがやって来る気配がした。
「尊人(みこと)」

 え?

 涼やかな、女の子の声が響く。
 俺は、沢野辺と一緒に目を丸くしてその子に見入ってしまった。
 肩までのストレートの黒髪。正統派美人のセーラー服の女の子が立っていた。
 あれ?
 今、この美人は、永田さんのことを。
 呼び捨て、した?

「ああ、おつかれ」
 美人を振り返った永田さんが笑む。
 そのセーラーの子は、俺と沢野辺を一瞥すると、永田さんを見て言った。
「今日の授業、いつ終わるの?」
「あと2コマ」
「待ってるには長いなー」
 言いながら、さらっと髪を揺らして続ける。「じゃあ、買い物は週末つきあってくれる?」
「いいけど、課題やっとけよ。じゃないとまた補講だからな」
「できたらね」
 くすりと笑って、その子が俺の横を通り過ぎる。
 甘い、いい香りがした。
 受付で何か受け取って、一度永田さんに目配せすると自動ドアから出て行った。
「……仲、いいー……」
 俺の隣で沢野辺がぼそりと言った。
 体が強張る。そう見えたの、俺だけじゃなかったんだ。
 沢野辺が、暗い顔で続けた。
「もしかして、彼女だったりして」
「う、ん……そう、かもな」

 ……週末に、買い物ってさ。完璧に、そうじゃん。

 じわりと、インクを零したように胸の中に苦味が広がる。
「じゃあ、沢野辺さん?」
「あ、はい!」
 テキストを持って戻ってきた永田さんの声に、沢野辺が立ち上がる。
「2番の仕切りの席に座って」
 沢野辺が緊張している様子で歩いて行く。
「……で、日野は?」
 永田さんに、いつもの意地悪な笑顔で訊かれて、俺は、首を振って立ち上がった。
「沢野辺について来ただけだから」
「用事があったんじゃないの」
「何もないです」
 言って、カバンとアンケートを掴む。

 ……女の子は、得だ。
 かわいい格好して、いい香りをさせて、目をハートマークにしながら堂々と永田さんと話せる。
 女の子ってことを、武器にできる。

 やり場のない感情が胸の中を引っ掻き回して、広がったインクが、どす黒く濁っていくようだった。
「日野?」
「……次のカテキョ、来なくていいです」
 口から滑り出た。
 え、と永田さんが呟く。
「それ言いに来ただけですから」
 永田さんの雰囲気が、何か言いかけた。
 俺は、それを振り切って出口に向かった。自動ドアが開くのを待てなくて、ガラスに右肩をぶつけてしまった。

 車の通りが多い道路を足早に歩く。
 ぶつけた肩がジンジンと痛い。
 嫌な予感はしてた。なのに見に来た俺が悪いんだ。
 はあっ、と腹の底からため息を吐く。

 なんだよ、俺。
 こんな態度、すげえ感じ悪いじゃんか。
 女の子にも八つ当たりみたいに思って。

 歩調を緩めて、足元を見つめながら歩く。

 ……高校生は子どもだって言ってたくせに。

「うそつき、だ」

 彼女がいるのは、どっちだよ。
 いじわるだけじゃなくて、うそつきで最低だ。

 じわっ、とアスファルトが滲む。

 ……なんだ、今頃気づいた。


 俺、永田さんが好きだったんだ。





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