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 30分後。
「……」
 解答用紙を見て、永田さんが、絶句している。
 どうやら、俺の本気は、ハンパなかったらしい。
 ざまあみろ。
 いや、ほんとのこと言うと……解いてみたら、前に高校の講習で解いたことのある問題だったんだ。
 一応、後ろめたいので、その事実を告げる。
「なーんだ。一瞬、もう教える必要ないなーって思ったよ。でもよく覚えてたな」
「気合いで思い出しましたから」
 ぐっとこぶしを握って見せると、永田さんが苦笑した。
「そんなに俺とキスしたかったの」
「え? いや違っ」
 耳まで熱くなる。

 そういうつもりじゃない、見返してやりたかったから、俺は!
 ……でも、これって、その……どうなんだろう。
 どうすんのかな、永田さん。

「約束は約束だからな――」
 冗談で笑って済まされてしまうかと思ったけど、永田さんは、口元に手をやって、何か考えている風で。
「するのはいいけど……教師としてどうなんだ、って話」
 困ってる永田さんって、新鮮だ。
 優位に立つのって快感だな……なるほど、永田さんの気持ちがわかったかもしれない。
「濃いーのって言いましたよ」
「言ってたな」
 形勢逆転。いつもいじめられてる仕返しをチクチクしてやる。
 もっと困ればいいんだ。
「男相手にキスするのなんて、嫌なんじゃないですか? 永田さんは」
「それはまあ、女の子だと思えばいいし」

 ……。
 うわ。
 また、グサッ、って。
 胸、痛っ。
 ……そんな無理してまで、キス、しなくていいのに。

「……やめましょうか」
 言ってみたら、思った以上に、しょぼんとした声が出て、しまったと思った。
 でも、もう遅い。永田さんが、にやっとして言う。
「あれ、怖気づいた?」
 負けてたまるか、反論しないと。
「だって、永田さんが嫌そうだから!」
「俺が心配してるのは、そういうことじゃないんだよ」
「へ?」
「ま、案ずるより生むが易しとも言うし。その時はその時だよな」
 床に手をついて、永田さんの体が近づく。
 長い指に、くっと顎を掴まれた。
「わ」
「……虐めはするけど、約束は破らないんだよ? 俺は」
 ふ、と微笑んで、真っ直ぐその目が俺を見る。

 ほ、ほんとに?
 ほんとにする?

 心臓が、バクバクしてきた。
「あ、あの、永田さ……」
「黙って」
 囁かれて、目のやり場に困る。
 指が、頬を辿って俺の耳の後ろに添えられて、ぞくっとした。
 ドキドキ、胸がうるさい――。

 ――コンコン。

「!」
 弾かれるみたいに体を離した。
『先生、お時間大丈夫ですか?』
 扉の向こうで、母さんの声がする。
 時計を見たら、授業が終わる時間を30分も過ぎている。
 心臓が肋骨を叩いて、ドクドクいっている。
「すみません、丁度終わるところですから」
 言いながら、永田さんが俺を見て、困ったように笑った。
 ぎゅっと胸が掴まれるようだった。
 ノックがなかったら俺は、あのまま――思い出したら、顔が熱くなってくる。
「課題、忘れずにやっとけよ」
 何事もなかったように声をかけられて、拍子抜けする。
「あ、え、う、うん――」
「こら。うん、じゃないでしょ」
「は、はい」
 永田さんが、立ち上がりながら思い出したように言う。
「それと、悪いけど次回の授業1日ずらしてもらえるかな」
「なんで?」
「例の、塾。補講が入ったもんだから」
 スーツの上着に袖を通す永田さんを見上げていたら、あの、意地悪そうな甘い視線が降ってきた。
「塾にも、日野みたいにできない子がいるんだよ」
「なっ!」
「いや、今日はよくできたもんな……ご褒美、あげそこなっちゃったけど」
「っ!」
 たぶん、俺は、真っ赤になってたと思う。
 永田さんが、ふっと柔らかく笑った。
 俺は、この笑顔に弱い。何も言えなくなってしまう。
 永田さんは、きっちりとスーツを着ると鞄を持って、俺の頭に、ぽんと手を置いた。
「それじゃ」
 部屋を出て行く背中。
 いつもなら、玄関まで見送るんだけど。
 俺は、まだ半分夢の中にいるみたいに、地に足がつかなかった。
 ……危なかった。
 なんの抵抗も感じなかった。
 ただただ、甘い雰囲気に流されるみたいに目をつぶってた。
 でも。
 なぜか、胸の奥が、ざわざわしていた。


 ***


「え?」
 長い睫毛が、しばしばっと瞬く。
「個人塾、どこなのかな」
「ああ、永田さんの! えっとね――」

 教室で俺が声をかけると、塾の情報をくれた女子の一人――沢野辺さんが、指定カバンのポケットを探り始めた。

「あ……ったあった、ここだよ」
 差し出されたのは、リーフレット。
「『アドバンス・ワン<家庭教師・個人塾>』……ほんとだ、個人塾って書いてある」
「裏に教室が書いてあるの。その中の、四ツ谷校」
「四ツ谷――」
 遠くない。行こうと思えば、ここから歩いて行ける距離だ。
「行ってみる?」
 小首を傾げて、沢野辺が言った。
「え?」
「四ツ谷校、行ってみない? 教室見学したいんですって言えば入れてくれるみたいだよ」

 どうしようか。
 第一、俺は、家に教えに来てもらってるし。
 ……引っかかってると言えば、ただひとつ。

『日野みたいに、できない子がいる』

 そう言った、永田さんの表情。
 遠くを見るように、その子のことを思い浮かべているような、そんな表情だった。
 一昨日のあの顔が、ずっと目の前をちらついている。
 ふざけてされそうになったキスと一緒に、頭の中をぐるぐるしていて妙な焦りみたいな不快感が、ずっと胸の中にある。
 その原因を確かめたい。

「私も一度見に行きたいなって思ってたんだー」
「え、沢野辺、通ってないの」
「うん、噂だけ。ほんとは友達と体験授業に行くつもりだったんだけど、友達、もう塾決まっちゃったみたいで」
「そ、そっか」
「ねえ、お願い! 永田さんのことよく知ってるんだったら一緒に行ってくれない? 一人だと緊張しちゃう」
 沢野辺が、上目遣いに可愛く頼んでくる。
 普通なら、かわいいな、なんて、ぐっときてるところだと思うんだけど。
 今の俺は、沢野辺の可愛さに妙な焦りを掻き立てられるだけだった。




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