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「日野(ひの)!」
期末の成績が発表になって早速、にやにや笑って席に来たのは小菅だ。
「英語と数学、名前出てるぞ。おまえ、こんな頭良かったっけ?」
「……ううん」
3ヶ月前まで、俺の偏差値は、52だった。
それがたった2ヶ月で5も上がったのは、明らかに永田さんのおかげだとは思う。
「家庭教師に絞られてるから――」
酷使した腕の筋肉が、ビキッと悲鳴をあげる。
……本当にやらせるんだもんな、30回。
「えっ、おまえ家庭教師いんの!? 言えよぉ、な、美人?胸は?」
「エロ小菅」
「てめえ」
仕返しとばかりに、ヘッドロックをキメられた時だった。
「日野くん」
声をかけられて振り向くと、女子が2人、目をきらきらさせていた。
「家庭教師いるんだって?」
「あ、うん……?」
女子が、お互いに目配せして、意を決したように言う。
「それって、永田さんでしょ」
俺は、あんまり驚いて目を見開いてしまった。
「なんで知ってんの?」
「きゃー、やっぱり!」
「この前、永田さんが日野くんの家から出てくるの見たの! だから、もしかしたらって」
今度は俺が、小菅と顔を見合わせた。
「永田さん、近くの個人塾で教えてるんだよ。大人気って噂なの」
全然知らなかった。しかも、大人気?
永田さんは、ほんとに何にもかも秘密なんだ。
「おまえのカテキョ、男なのかよー」
心底がっかりしている小菅の隣で、女子が、うっとりしながら言う。
「優しくてかっこよくて頭もいいんだもん。最高だよね〜」
……優しい?
なにかの間違いじゃないのかな。
「永田さん、謎だよね。きっちり会社規則守っててみんな隙がないって言ってるんだ」
「日野くん、永田さんの事なにか知らない?」
期待に応えてなにか言わなきゃいけないんだろうか。
全然優しくなんかないですって?
意地悪で、ドSで、見かけ天使の中身は悪魔、だって?
……そんなこと言ったら、可愛い女子を泣かせてしまうかもしれない。
俺は、しばらくうんうん唸って、苦し紛れに言った。
「ひとつ、だけなら――」
なになに?って、またきらきらの目が見つめてきて、気が引ける。
「永田さん……20代、だって」
***
「恥かいたって、俺に言われてもな」
ぽつりと言ったのは、ドSの永田さんだ。
今日は、数学。
時間は、夜8時を回った頃。
俺の部屋の真ん中に置いた、丸テーブルの前、毛足の長いカーペットに並んで座っている。
横目で窺うと、永田さんは、ベッドに背をもたれて手元のテキストを見ていた。
普段、勉強机で教えてもらう時は俺の少し後ろで椅子に座っているから、すぐ傍で胡坐をかいている姿は新鮮だ。
スーツの上着を脱いで、シャツにネクタイの格好。いつもきっちりしてるだけに、ちょっと着崩しているだけで、目のやり場に困ってしまう。
「……なんでそんなに年齢隠したがるんですか」
「規則だからね」
パタリ、とテキストを閉じるのと一緒に、永田さんが目を上げる。
「実際、俺の年を人に話しちゃおうとする奴がここにいるし?」
うっ。墓穴を掘った。
「息抜きおしまい。問4やって」
「永田さん、塾講師やってるってほんと?」
いつもの呆れたような表情で、永田さんがため息をする。
「……ムダ口終わりって言ったろ」
「個人塾で教えてるんですよね」
「おまえ、人の話聞いてないな……まあ、やってても別におかしくないだろ。うちの会社、個人塾も経営してるんだよ」
「永田さん、モテモテだって」
「女子高生にモテてもな」
永田さんが、複雑そうな顔をする。
「嬉しくないんですか」
「子どもに興味ない」
……。
なんだこれ、グサッ、っていったぞ。
胸、痛い。
「……どうせ子どもですよ」
「何か言ったか?」
いいえ別に、とやけくそ気味に首を振った。
そんな俺を見て、永田さんが小さくため息をして言う。
「日野も、俺くらいの年になって塾講やれば女子高生にモテるんじゃない」
「そんな不純な動機じゃモテませんよ」
俺がぶーたれて言うと、ふっ、と笑った気配がした。
「どうして?」
「目ぇギラギラした奴、モテるわけない。永田さんみたいに、興味ないねー、みたいな人だからモテるんであって――」
「ふーん?」
頬杖して、永田さんが目を細めている。
「……あ」
こぶしを握って力説してる自分に気づいて妙に恥ずかしくなった。
「な、なんですか」
「大人だね、日野は」
呟かれて、どきっ、と心臓が跳ねる。
そんな目で。そんな柔らかい口調で言ったら……反則だ。
「ムダ口終わり。次やって」
あっという間に笑みを消して、永田さんが講師の顔に戻る。
俺は、ドキドキが治まらないまま、問4に目をやって、固まった。
「これ、京大の問題……!」
「できるできる」
「簡単に言わないでくださいよ!」
「やってみなきゃわからないだろ」
だって、これ、できなかったらまた何かやらされるんじゃ……?
訴えるように永田さんを見ると、目が合った。
「ははあー……罰ゲームが、嫌?」
「あれは、ゲームじゃなくて、懲罰って言うんじゃないんですか」
じっとり睨んだら、永田さんが小さく笑った。
「人聞き悪いな。手取り足取り優しくしてるでしょ?」
「ど、どこが」
「俺に可愛がられてるの、感じないんだ」
ふっと、あの甘い笑顔で見つめられて、ぎくっと固まる。
か、顔が熱い……。なんか振り回されてる気がする。大人って、すごく厄介だ。
渋々、問4に視線を逃がす。
大きな手が、お茶の入ったグラスをとる気配がして目を上げた。グラスに触れる永田さんの唇に自然と目がいく。
柔らか、そう、かも。
キスしたら、どんな感じなんだろ――。
ぼおっと見入ってた次の瞬間。ごくりと鳴った、大人の男の喉。
思わず俺まで、こくりと喉が鳴った。
と、ばちっと目が合って、びくっとする。
「こら、よそ見しない」
「人が苦しんでるのに……横で美味そうにお茶なんか飲まないでください」
「そういうの何ていうか知ってるか? 八つ当たりって言うんだよ」
頭をこつんと小突かれる。
ほとんど痛くもないその感触が、甘く感じて、不安になった。
永田さんのペースに乗っちゃダメだ。
なんたってこの人は、いじわる大魔王で、どんな揚げ足を取ってくるかわからない。
「そうだなー……じゃあ、今回は、解けたらご褒美あげるよ」
「え?」
意外な提案に、驚いて顔を上げた。
「ご褒美なら頑張れるよな?」
グラスを持った手の甲で口元を拭いながら、永田さんが言う。
「何くれるんですか?」
「なにがいい?」
まさか、選択権もらえると思ってなかった。
「急に言われても――」
「早くしないと、俺が決めちゃうよ」
永田さんが、言いながらネクタイを指先で引いて緩める。
その仕草に、ドキッとする。
ほ、翻弄されるな。
ここは、女子たちのためにも、汚名返上のためにも確実に情報をゲットしなければ。
「……じゃあ、年、教えてください」
「ダメ。就業規則に反する」
「じゃあ、好きな音楽とか」
「ブブーっ、プライベートな話題は就業規則に――」
規則に引っかかるのは全部ダメかよ!
じゃあ、何訊けばいいんだ?
1時間数学で酷使した頭が、うまく回らない。とりあえずいろいろ言ってみるけど、それもダメ。
「ほとんどダメじゃん!」
「情報聞き出そうとしてもムリだね。こういうのは駆け引きだろ。もっと大人っぽく要求できないわけ?」
「大人っぽいってなんだよもー……! じゃあキスとかしてくれるわけっ?」
一瞬、空気が止まった。
あれ?
……あれあれ?
今、俺、なに言った?
するっと、まさに口が滑ったって感じで。
心臓がどくどく言い始める。
頭の中で、なに言っちまったんだーって、ちっさい俺がゴロゴロしてて。
……永田さんがお茶飲むところなんか見たせいだ。て、訂正しなきゃ。
「いや、あの、思わずっていうか、その――」
「大人っぽい、って聞くとそういう発想になるわけか。やらしーな日野は」
「だ、だから今のは……!」
「いいよ。完答したらね」
……は?
しれっと言われて、眉を寄せる。
「就業規則に、キスするなってのはないから」
そう言って、永田さんがにこりと微笑む。
その笑顔が意地悪そうで、はっとした。
「……永田さん、絶対俺が問題解けないと思ってますよね」
「そんなことないよ」
「顔が笑ってる」
「解けたら、濃い〜のしてあげるよ。腰砕けちゃうくらい、大人のキスな」
そう言って、立てた片膝に肘をかけて笑っている。その表情が、絶対解けないよって言ってた。
からかってる、完全に。
むかむかむかっと来て、キッと睨んで言ってやる。
「見てろよ……!」
俺は、おかしそうに笑う永田さんを横目に、テーブルにかじりついた。
……でも、この気軽さって?
永田さんが、全然俺のことを眼中にない証拠だ、よな。
すうっと、熱が引いていくようで。
……あれ?
また、胸が、痛い――?