静かで、甘い声。
伏せられた睫毛。
仕草。
眼差し。
傍にいたくて、見ていたくて、話していたくて。
気がついたら必死になってる。
こんなのちょっと変かもしれない。
……でも俺は、この人にただ一つだけ、苦手で嫌いなところがある。
それは。
いじわる
「……おーい、寝ぼけてんのか」
「いてっ」
シャーペンで頭を小突かれた。
「ここの訳、おかしいだろ」
年上のスーツ姿のその人は、男っぽい手で長い前髪を掻き上げながら横目で叱ってきた。
ゆるやかに波打つ柔らかい色の髪が、大人っぽくて優し気な雰囲気によく似合ってる。
「これ、どっちが接続詞」
言葉に詰まる俺にすかさず顔が寄ってきて、心臓が悲鳴を上げた。
頭良し、見た目良し、性格良さげ、な好青年。
文句のつけ所のなさそうなこの人は、永田尊人(ながたみこと)さんだ。
「う、単語わかんなかったから」
「そういう時は、どうするんだっけ?」
「……接頭辞で推測、します」
「じゃあ早く推測して。dis-は?」
永田さんは、俺の家庭教師だ。バイト学生ではなくて、プロの。
高3の英語と数学を教えてくれる。
2ヶ月前から週に2回うちに来て、宿題の解法と受験のポイントを叩きこんでくれているのだ。
けど、教えてくれないことの方が多い。
年齢は勿論、プライベートな話は一切ダメ。
会社規則で、生徒との勉強に関係ないユル〜イ会話は全面的に禁止されてるらしい。
たぶん、推定――。
「26?」
「あ、ほ」
また、ピシッとシャーペンで小突かれた。
「いたい……」
「日野。集中しなさい」
言い忘れたけど、俺の名前は日野葵(ひの・あおい)。
高3の崖っぷち受験生だったりする。
「永田さんの年が気になっちゃって」
呆れ顔の永田さんに、苦笑いして言いわけしてみる。
「じゃあもう26でいいよ」
「じゃあ、って……」
「この問題解けたら十の位教えてやる」
「えー……一の位教えて下さいよ」
「はいー、さっさとやって。制限時間3分」
永田さんは京大の教育学部出身っていうのはわかってるんだけど、なんでまたプロの家庭教師になったのかは謎だ。
「手が動いてない。1分経過」
「あ、ま、待って」
俺が焦って辞書に手を伸ばすと、すいっと取り上げられた。
「本番は、辞書見れないでしょ」
「うわ、意地悪ぃ」
「虐められたくなければ、さっさと解いて」
……実は、この人には、大きな問題がひとつあるのだ。
「今回は、解けなかったら腕立て10回、にしようか」
「そ、そんなあ」
悲鳴をあげると、あの色っぽい目でじろりと睨んできた。
「反抗的だな。20回に増やされたいの」
「嘘!やります!」
涙目で、その不敵な顔を睨む。
「なにか、不満でも?」
「……ない、です」
永田さんが、ゆっくりと腕組みをして、柔らかい笑顔を浮かべた。
……口撃が始まる合図だ。
「日野くんは、この間の模試の英語、偏差値いくつだった?」
ゆったりとした速度で、いい声が言う。
思わず、ぶるっと身震いした。
「……ご、57、です」
「志望校に10も足りないなあ」
「う」
「日野葵くんは、今、一番誰の言う事を聞かなきゃいけないんだっけ?」
「……永田さん、です」
「永田、さん?」
「う……永田、先生――」
「よくできました」
にこりと、永田さんが柔らかく微笑む。
さあ、問題続けて、と肩を叩かれた。
「間違えたら、腕立て30回、な」
「ひっ」
そう。
永田さんは、いじわるなのだ。