※
「歩様。おはようございます」
月曜の朝。青野はきっかり7時に歩の寝室をノックした。
週末の眠りが浅かった歩のことなど知らない顔で、いつも通りに冷えた鉄の表情で立っていた。
歩を学校に送り出すまでの一連の務めも、呆気ないほど普段通りだ。
送迎車に乗り込んだ歩は、狐につままれたような気分だった。金曜の夜のことが本当に現実だったのか、よくわからなくなってくる。
青野は、メイドのさつきと並んで邸の前に立ち、歩が乗った送迎車を見送ろうとしている。
一分の隙もなく着込まれた三つ揃いのスーツ。
その下に隠れているはずの――。
歩は急に背筋が寒くなって、運転手の出発を制止した。後部座席のウィンドウを下げる。
「透真さん」
歩の呼びかけに、青野が見送りのために下げていた頭を上げた。
「今日は、どこにも行かないよね」
青野は一瞬思案して、怪訝な色を浮かべた。「ええ。ご用がありますか」
「いや……いってきます」
出してください、と運転手に合図して、歩は後部座席のシートに体を預けた。
――わかってる。
歩がいくら心配したところで、青野を守ることができるわけでもない。歩にはそんな力はない。
それでも歩は、今日一日、青野が無事でいられることを願わずにはいられなかった。
「浮かない顔だなー」
親友の洋祐が、自席で頬杖ついている歩の顔を覗き込んできた。
大型連休をひかえて、心なしか教室中が浮足立っている。洋祐も例外なく、にやけ顔が隠せていない。
「……洋祐、どっか行くの」
「芸能事務所のパーティに呼ばれてさー。楽しみで仕方ないっつーの」
「へー」
「歩は芸能に興味ないよな。まあ、好きな男に四六時中かしづかれてたら興味も出ないか」
洋祐が言うことも、あながち間違ってはいない。
歩はずっと青野に夢中だったから、他人が目に入らなかった。
元々、テレビを見る習慣もない。良く仕立てられたスーツに身を包む美しい執事が傍にいる生活は、充分に満たされていた。
それほどに心を奪われている相手に憎悪されている今の状況は、歩には苦しくて仕方がない。
「金曜の夜のこと気になってたんだけど。メッセ送っても返事ねーし」洋祐が気だるそうに言った。
「あ、ごめん……帰ってすぐに熱出して寝込んでたから」
「え。大丈夫かよ」
「うん」
「眼鏡執事となんかあったのか」
急に声をひそめた洋祐を、歩が複雑な表情で見た。なぜわかったのだろう。
洋祐が眉を上げる。「……あれま。マジで?」
歩は、視線を机に落とした。
青野の仕事ぶりは以前と変わらず完璧だ。ただ、輪をかけて人間らしさが消えた気がする。まったく機械のようで、一切の感情を感じない。憎しみを湛えた冷ややかささえもが影を潜めて、まるで人形と話しているような気になる。
――以前はもう少し、表情があった気がするのに。
「……嫌われてるのが、確定した」歩がぽつりと言った。
「前にもそんなこと言ってたよなあ」洋祐が、意気消沈の様子の歩に鼻を鳴らす。「……嫌いな奴をあんな顔で迎えに来ないだろ」
ぼそっと言った洋祐に、歩が顔を上げる。「あんな顔って、なに」
洋祐は、胡乱な目で歩を見た。「独占欲なんじゃねーの」
「え?」
「虫一匹寄せつけねーぞ、って感じ。俺もバシバシに牽制されたけど」
歩は肩を落として、洋祐を見つめた。
洋祐は勘違いをしている。青野はそういう男なのだ。
個人的な感情を切り離して、従順な従者として振る舞える。歩を守る素振りは従者としての振る舞いのひとつであって、独占欲だなんて人間らしい感情の発露ではない。
「透真さんは仕事できる人だから」
「仕事、ね。男の顔だったと思うけどなあれは」
「俺を迎えに来なきゃいけなかった不機嫌が顔に出ただけだよ」
「あのさあ。なんでそこまで頑なに嫌われてるって思うわけ」洋祐が呆れた顔で歩を見てくる。
(――洋祐にはわからないよ)
歩は、雨夜の青野を思い出して、深い溜め息をした。
嫌いなら、まだいい。復讐に利用しようとされているのだから救いがない。
青野だって、そんな想いを抱えながら歩の面倒を見るのは本当は嫌なはずだ。
――せめて、透真さんを葛城家から解放できればいいんだけど……。
ふと、歩に考えが浮かんだ。「あのさ」
洋祐が、歩の声に目を上げる。
「……透真さんがうちの執事やめたら、洋祐のところで雇ってくれたりするかな」
「はあ……?」真剣な面持ちの歩に、洋祐が戸惑う。「まあ、優秀な人材だろうから歓迎はするけど――」
何の気なしに思いついたことだったが、歩は一筋の光を見た気持ちになった。
今すぐにでも、洋祐の家で雇ってもらえればいい。
洋祐の家業のエンターテイメント事業は、国内外の大資本家や政治家と付き合いのある葛城グループの事業に比べれば圧倒的にクリーンだ。
「洋祐、透真さんのこと今すぐ雇ってよ」
「は?」
「透真さん、すごい優秀だから。俺が保証する」歩の言葉が、ついつい熱を帯びる。
「いやいや、鉄仮面はおまえの親父のお気に入りなんだろ……うちに来られるわけねえし」
「ダメかな」
「うちの事業の一部、葛城グループの商業施設が絡んでるからさ。機嫌損ねるわけにはいかないだろ」
歩は、熱が引くように冷静になった。
自分の親友の事業にまで、父親の影響があるとは。背筋が寒くなった。
「……なあ、なんかあったの、マジで」洋祐が声をひそめた。
――話したい。
青野に明かされた話はあまりにも重くて、歩は、誰かに相談にのってほしくてたまらなかった。
洋祐なら親身になって聞いてくれるかもしれない。だけど。
表沙汰になったら、青野の身に何が起こるかわからない。洋祐も巻き込んでしまう。
歩は、これはひとりで抱えなければいけないことだ、と思った。
いずれ青野の手で、この体もろとも消されてしまうかもしれない、重苦しい秘密だ。
「……うちで働かない方が、透真さんのためにいいかなと思っただけだよ」
「なんで」
「なんとなく」
洋祐の目が、憐れみの混じった複雑な色を浮かべた。「……おまえってさ――」
洋祐がなにか言いかけたのを遮るように、始業ベルが鳴る。
歩は、席に戻っていく洋祐の背中を見送った。
高校から帰宅した歩を出迎えたのは、さつきだった。
青野の姿が見当たらずに、胃の底がひやりとする。
「透真さんは?」
「所用で出ておりますが、まもなく戻ります」
さつきの言葉にほっとしながらも、歩は焦っていた。
青野の姿が、見えないのは不安だ。
「透真さんが戻ったら、部屋に来るように伝えてもらえますか」
「かしこまりました」
歩は、落ち着かない足取りで階段を上がった。
この気持ちはなんだろう。
あの日、青野の肌に貼り付いた禍々しい痕が鮮烈に頭に焼きついている。
(――これ以上、誰も透真さんに触ってほしくない。触らせたくない)
でも、怖い。青野といると、いつも体が緊張している。
自分の中に息づいている青野への感情は複雑で、よくわからなかった。
「失礼いたします」
自室に入ってほどなく、ドアの外からかかった声で歩の体に緊張が走る。
歩が慌ててドアを開けると、いつも通りの執事姿の青野が立っていた。
「ご用でしょうか」
訊かれて、歩は頭が真っ白になった。用事を用意していなかった。
「ええと……お願いがあって」
「お願い、ですか」
歩は一瞬躊躇してから、意を決して口を開いた。
「透真さんが父と仕事で出かける時は、教えてほしいんです」
青野が、じっと歩を見つめている。
「別に、透真さんの行動を監視しようとか、そういうことじゃなくて――」
しどろもどろの歩に、青野が吐息した。「お部屋に入ってもよろしいですか」
歩は、数歩下がって執事を迎え入れた。
部屋へ入ってきた青野が、ケースごと体温計を歩へ差し出す。
「念の為、測ってください」
歩は、青野の白手袋の手から体温計を受け取った。変な緊張で心臓が妙な鼓動をしている。
「その後、体調はいかがですか」
「……大丈夫、だと思う」
「さつきから、食欲がないご様子だと聞いておりますが」
「それは……まあ、そうかも」
「お夕食には消化の良いものを作らせます」青野が眼鏡を指先で押し上げた。
「私がお父様の仕事に同行する時は、歩様にお知らせすればよろしいのですね」
急に切り出されて、歩は一瞬、思考に間を取られた。
――本当にそれで、安心できるのか?
父親と一緒でなくても、青野だけが接待で行かされる可能性もある。
「……それだけじゃ嫌かも」
「はい?」
「父の仕事の関係で出かける時には……透真さん一人でも教えてほしいです」
青野の無表情に、緊張で心臓が鳴った。うんと、言ってもらえるだろうか。
「かしこまりました」
呆気なく返ってきた了承に、歩は拍子抜けした。
「食事の用意ができましたらお呼びいたします」そう言い残して、青野が部屋を出て行く。
歩は、詰めていた息をどっと吐き出した。
これで少なくとも、歩が知らない内に青野が酷い目に遭っている、という事態は避けられそうだ。
(でも、教えてもらうのはいいけど……その後、どうやって透真さんを守ったらいいのかな――)
歩はまた悶々と思考に入りながら、制服のタイを解いた。シャツのボタンを4つ外して体温計を脇に挟む。
出窓の枠に肩をもたれると、傾きかけた陽光に照らされる眼下の庭に視線を落とした。
青く茂り始めた葉が揺れている。生き生きとした生命の気配が眩しいほど、自分の心の陰が強く迫ってくるみたいだ。
(透真さんは、どういうつもりなんだろう)
いつ、どうやって歩を復讐に使うつもりなのか。
青野の心の内が見えたのは雨夜の一時だけで、今はもう鉄の扉に閉ざされていてわからない。
不意に、唇が疼いた。
冷たい雨に打たれながら熱くて荒々しい唇の感触と乱れた息に苛まれた感覚が蘇って、ぎゅっと腹の底が締めつけられる。
――苦しい。
身が引き裂かれそうだ。
この想いは、一体何だろう。復讐の道具にしようというほど憎まれているのはわかっているのに。
殺意のこもった目で見られる度、震え上がるほど恐ろしいのに。
「……透真さん」
口の中で名前を味わってから、頭を振る。
まだ、青野のことが好きだ。
以前よりももっと、好きで、苦しくて、溺れているみたいな感じがする。
刺さるような殺意の気配さえ引っくるめて、青野透真という男を好きになってしまっている。
歩は、頭を抱えた。
青野はきっと、歩からの好意なんて反吐が出る思いだろう。
それに青野のことを考えれば、彼は一刻も早くこの葛城家から離れた方がいい。
憎まれ、離れるべき相手を好きでいるのは、ひたすら苦しい。
歩は重い重いため息を吐いた。
窓枠にもたせた体にまだ熱がくすぶっている感じがする。
飛ぶ鳥の影が窓を横切った。視線を上げかけて、凍りつく。
夕闇迫る窓ガラスに、男が映っている。
青野だ。
いつの間にか開いたドアの外に音もなく佇んで、歩を見ている。
どくどくどくと、激しく鼓動が鳴って、歩は振り向けないでいた。
あの静けさで近づかれたら、ひとたまりもない。気づかない内に捕らえられ、組み敷かれて――。歩は、いつかの妄想のように青野の手の中で息絶えるしかない。
電子音が響いて、歩の体がびくりとする。震える手で脇から体温計を抜き取った。
白手袋が肩越しに伸びて、歩の手から体温計を取り上げる。
歩は、やっと振り返ることができた。
青野の眼差しは、体温計に注がれている。
「熱はありませんね。不快な症状はございませんか」
歩は、首を振った。
「何度かお声をおかけしましたがお返事がなかったので入室いたしました。お許しください」
「う、ん……」
自分はいつも、青野を許してしまう。そして、この手を待ってしまう。
それがたとえ、どんな意志を持っていたとしても。
野菜スープと鮭の雑炊が目の前に置かれた。宣言通り、歩の体調を気遣った夕食だ。
広いダイニングに青野と二人きりで、息が詰まりそうになる。
歩は、青野の美しい給仕を見ている内に、ストイックにぴたりと閉じられた唇に目がいった。
あの唇に触れたなんて、今でも信じられない。
「――お父様にお伝え頂いてもいいのですが」
突然言われて、歩は息を詰めた。「……なにを?」
「私があなたに乱暴をはたらいたことをです」
あのキスのことを言っているのだろうか。
そうか――青野にとってあれは、キスじゃなかった。
(殴る代わりに、キスしたんだ)
歩は納得がいった。そして、ひやりとしたものが体を巡り、冷静になった。
歩とキスをすることなど、青野にとっては復讐のひとつでしかない。
青野に懸想する歩を軽蔑し、傷つけるためにやったのだ。
青野の中は、憎悪で満ち満ちている。どうやって歩を利用し、復讐を果たすか。その冷たい表情の下で画策している。
歩は、白手袋がメインの皿を置き、給仕を終えるのを見ていた。
(――父に言ったら、透真さんはどうなるかな)
やめさせられるだけならいい。葛城家から離れることができて、むしろ幸運だ。
青野が受けている屈辱的な仕打ちを思うと、彼はなにかしらの懲罰を受けるのだろう。
歩は想像するのも嫌になって眉を寄せた。
「……父には、言いません」
表情のない執事が、黙って歩を見つめてくる。眼鏡越しの目は冷たい。
「そうですか」
青野の鉄の扉は、冷たく閉じている。
青野はどういうつもりで、こうやって歩を試すようなことを言うのだろう。
歩の何もかもが青野には響かない。決して、心を開いてくれることはない。
歩は、雑炊に手をつけた。
目礼した青野がダイニングを出て行くのを見送った歩は、深い諦めと、途方も無い虚しさを噛み締めた。