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 男子高生が4人、校舎の中庭に面したテラスでテーブルを囲んでいる。明日から始まる連休の話題でもちきりだ。
「九州旅行してー、後は芸能事務所のパーティに行く予定」洋祐がバーガーを頬張りながら言った。
「九州かー。まだ行ったことないんだよな」
「なんだよ、芸能事務所のパーティって」
 珍しく級友の江川と飯田がいる。ふたりとも事業家の息子で、洋祐とは幼稚舎からの付き合いだ。
「芸能事務所の新人のお披露目会ってところかなー」
「なあ、ナナミちゃんいる?」
「ナナミってどこの所属? 俺が行くのはデイ商事のパーティだけど」
「じゃあいないわ……ついて行こうと思ったのに」
「歩はどこ行くんだよ」
 江川に話を振られて、歩はサンドイッチにかぶりつくのを中断した。
「特に予定はないけど」
「嘘だろ」「7日間もあるのに?」江川と飯田に詰め寄られる。
「そういう二人はどうするの」
「長野の別荘ー」
「俺は友達とバーベキュー」
 歩は、そういえば葛城家はレジャーをしたことがないな、と思った。小さな頃から友達は皆、連休や夏休みの旅行経験などを話してくれたが、歩は話せるような家族イベントがなかった。
「葛城、俺の別荘来る?」飯田が弁当を食べながら言った。
「んー、行きたいけど……」
「俺も何度も誘ってるけどさあ、こいつの予定ぎっちぎちに詰まってんの」洋祐が不満げに言った。
「なんの予定で?」
「家庭教師つきっきりの夏期講習」
 飯田と江川が、ぐえーっと潰されたカエルのような声を出す。
「葛城グループのお坊ちゃんなら、モテまくり遊びまくりの生活なのかと思ったら」
「連休も勉強とか……かわいそうだなー葛城」
 同情たっぷりに肩を叩かれて、歩が苦笑いする。
 歩にしてみれば、連休の過ごし方に不満はなかった。
 幼い頃は確かに寂しさや不満もあったが、青野が葛城家の執事になってからは連休は休み返上で勉強を教えてくれる。むしろ登校を気にせずに青野と過ごせるのは、歩にとっては嬉しいことだった。
 けれど、葛城家に来たことが、青野の地獄の始まりだったと知った今は違う。
 例年通り、習い事や勉強の予定は詰まっているものの今年はどうなるんだろうと、歩は頭が重かった。


 ※


「歩様、スペルミスが2箇所あります」
 歩は手を止めて、ノートから目を上げた。
 ソファの隣には青野が座り、歩が解いた課題プリントに目を落としている。
 オーダーメイドなのだろう3つ揃いの黒いスーツは、体格のいい青野のスタイルの良さを際立たせている。
 白手袋を外している今は、元々の超然とした雰囲気のせいで傍目には執事に見えないだろうな、と歩は思った。
「英訳問題は済みましたか」
「もう少し」
 歩が最後の単語を書き終えてペンを置くと、青野がノートを手にとった。数分の間、目を走らせて口を開く。
「文法のミスは少ないですね。英語は物理と違って安心です」
 以前なら、歩は憎まれ口を返していた。けれど、今はとてもそんな気になれない。
 一体、青野はどんな気持ちで勉強を見てくれているのだろう。
「今日は終わりにいたしましょう」机の上を片付けながら、青野が言う。「明日からの連休のご予定ですが」
 切り出した青野に、歩が顔を上げた。
「初日から代行の教師が参ります。ご用命はメイドへお申し付けを。夜は、さつきがいます」
 歩は、ぎゅっと心臓が掴まれた気がした。「透真さんは……?」
「お父様が海外から戻られますので、お迎えと会合、食事会へのお供で数日不在にいたします」
 歩の体を嫌な震えが走った。青野が立ち上がるのを引き止める。
「会合……? 食事会ってなに」
「取引先の接待ですが」
 さっと血の気が引く。
 歩の希望通り、青野は父親との仕事の予定を教えてくれた。こういう面は本当に誠実に対応をしてくれる。
 ――それを知った自分は、どうする?
 歩の頭の中が、くるくると回転し始めた。
 片付けを終えた青野が腕時計を見る。
「21時を過ぎましたので、本日は失礼いたします」
 歩はとっさに青野の腕を掴んだ。「行かなきゃダメなの、それ」
「仕事ですので」
 また酷い目に遭うかもしれないのに――と、歩は口に出すのを躊躇った。
 口ごもる歩を尻目に、青野が、引き止めている歩の手にちらと視線をやる。
「他にご用がありますか」
 歩は焦った。
 当然のように、青野はまた父親と仕事に行くと言っている。
 ――どうして。
 痛々しい痣、首に絡みついた縄の痕。当事者でない歩でさえ、思い出しただけでゾッとするのに。
「……会っても、大丈夫な人なの」
 青野は黙っている。その目に冷たい気配が宿っている。
 否定を、してくれない。
「透真さ――」
「ご用がなければ、これで」
 青野が立ち上がりかけて、歩の焦りが極まった。袖を掴んだ手に力が入る。
「行かないで」
 青野が歩を見た。
 歩は、冷たく刺してくる目を必死に見つめ返した。
「行ったらダメだよ、断って」
「無茶を仰る――」
「どんな目に遭わされるかわかってるのに、どうして行くの」
 青野の表情が、あからさまに冷える。
 歩はハッとして青野の腕を離した。
 ――踏み込んだことを言った。
 あの雨の夜の恐怖心が蘇る。
 青野が、ゆったりとソファに座り直す。
 凍るような無感情の眼差しに、歩の手先がみるみる冷えた。
「”あの話”を蒸し返すとは……勇気がおありなんですね。今、あなたは私と二人きりだというのに」
 殺意が乗った言葉に、歩の息が震える。青野の逆鱗に触れてしまったのだろうか。割れたガラスを手に握らされた時の切迫感を思い出す。
 ソファの背にわざとゆっくり置かれた男の手を見て、歩の心臓は激しく鳴り始めた。
「あなたはここのところずっと、物欲しそうな目で私を見ていますね」
「そ……っ」
 そんなわけない、と、言い切れなかった。
 青野を好きなのは本当だし、態度にも出ているかもしれない。でも、物欲しそうだなんて。
 歩は、眼鏡越しの冷たい視線に唇をなぞられて、うろたえた。
「本日の業務は済みましたし……時間が許す限りあなたに奉仕することもできますが」
 ぎく、と歩が震える。「なに、それ」
「あなたは私に何でもさせることができると、以前申し上げたはずです」
 青野の慣れた空気。
「あなたのセクシュアリティについて定かではありませんが……私のことが好きだと仰るくらいです、男に興味はあるのでしょう」
 青野が歩の体にゆっくりと目を滑らせる。性的な含みのない冷静な視線運びが、余計に歩を戸惑わせた。
 青野は、歩の下腹部で視線を止めると目を上げ、歩の顔を見た。
「物欲しそうな目が潤んでいますよ」
 歩は、ぐっと喉が詰まって眉根を寄せた。「冗談を……言わないでください」
「命令しないのですか」
 毒を含んだ牙で咬んで歩を動けなくするように、青野の目が蠱惑的に細められた。
 時計の針の音がやけに大きく聞こえる。ソファの上で身じろぐと、ハリ感のある生地が軋む音をたてる。
 二人きりの部屋で、歩は無言で命令を待つ青野の気配に圧倒されていた。
「……いかがいたしますか、ご主人様」
 ぎくっと、歩の体がこわばった。
 熱っぽく感じ始めていた体が、急に冷える。
 青野に自らを、ご主人様、と呼ばせた人間もいたのだろうか。
 給仕を要求するように、セックスを要求して。
 青野の体を支配した知らない誰かへの黒い感情が、歩の胸底に湧いてくる。
「……透真さん」
「はい」
「あなたに余計な仕事をさせるなって、父に言います」
 青野が一瞬眉を上げる。目を細めると、どこか興味がそそられたような眼差しで歩を見た。
「なんと仰るつもりですか」
「……業務内容にないことを強いるのはやめろ、って」
「お父様があなたの訴えを聞かれると、本気でお考えですか」
「言ってみないとわからないよ」歩は、憤りを呼吸に乗せて大きく息を吐き出した。「使用人を不当に扱うのをやめろと言うのは、おかしな訴えではないでしょ」
「私を助けようというわけですか」
「偽善扱いしないで、俺が嫌なだけだから」
「やはりお坊ちゃんだ……見通しが甘いですね」
 青野は自分が持ち込んでいた机上の教材の本を持つと、ソファを立った。
 部屋のドアへ向かう執事の背中を、歩がとっさに追う。
「透真さん、なにが言いたいの。俺の何が甘いって」
 青野はドアの前で足を止め、肩越しに歩を見た。
「あなたは、父親に愛されていると思っていますか」
「え……」
「私は、事業家のお父様の手札のひとつなのですよ。それを捨てろと言われたお父様はどうなさるでしょうか」
 歩は、ぎくりとした。
 何よりも仕事を優先する父親が、急に歩の訴えを聞くようになるわけがない。
「そう。あなたの訴えは無視されるでしょうね。それにとどまらず、面倒なことを言うあなたを事業から遠ざけるかもしれない。あなたの訴えは何の効力もないどころか、息子としての影響力を失うことになるのです」
 歩は、愕然とした。
 父に関心を持たれていないことは薄々わかっていたけれど、こんな形で執事から自分の存在の希薄さを指摘されると思っていなかった。
「でも、こんなに勉強させてるのは……俺を跡取りとして考えているからで」
「跡取り候補の一人、というだけです。私はあなたの他に数人、有力な人物を知っています」
 歩は、足元が頼りなく揺れるのを感じた。
「俺ってそんなに……立場がないの」
 青野が、わざとらしく哀れそうな表情を浮かべる。「残念ながら」
 ドアのノブに手をかけた青野を、それでも歩は思わず引き留めた。
「だからって……! またあんな目に遭ったらどうするんですか」
「そもそも、私も楽しんでいる節があるとは思いませんか」
 機械的な青野の声に、歩が戸惑う。
「時には美女も美男も、性技に長けた人間もいます。あなたの相手をするよりもよほど興奮する相手が」
 歩は、ぐさりと胸を貫かれた気がした。
 青野のことがわからない。
 目の前の、鉄の執事の表情からは、苦しみも怒りもなにも感じ取れない。
(――俺、余計な世話を焼いてるのかな)
 勝手に心配して、青野の仕事を邪魔しているのだろうか。
 あんなに殺気と恨みを放っていた男が、現状を楽しんでいると言う。
 歩は、わからなくなってきた。
 歩が困惑していると、白手袋の指先で顎を捉えられ上向かされる。
「……あなただって私と寝たいでしょうに。欲望に忠実なだけ、変態どもの方が素直だ」
 歩の瞳が揺れる。
 傷ついてしまったのを隠そうと、青野の顔から視線を逸らした。
「あなたもいずれ彼らと同じ蛇になります。実際、私を助けると言いながら、結局は言いなりにしたいだけでしょうから」
 降ってきた青野の言葉に、歩が目を見開いた。
(それは、違う――)
 歩は、言葉を呑み込んだ。
 青野が言うように、彼が仕事と割り切っているのなら歩には口を出す権利はない。あれほど体を傷つけられようと、青野が納得しているのなら。
「いい顔ですね」
 歩が、ぽつりと降ってきた言葉を見上げると、青野が口元に昏い微笑みを浮かべた。
「あなたはそうやって、見ず知らずの人間に玩具にされている私を想って苦しんでいればいい」
「あ……」
 歩は、一瞬で悟った。
 ――透真さんは、望んでない。
 望んだ仕事をする人間が、こんな呪詛めいた言葉を口にするわけがない。
「それでは、失礼いたします」
 歩が止める間もなく踵を返した青野が、歩の目の前で静かにドアを閉じる。
 若き主は、黙ったドアの前で力なくその場に崩れ落ちた。




 つづく
 21/08/25




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