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「起きてください」
 声をかけられて目を開ける。
 歩は、ソファの上で誰かの胸にしがみついていた。
 顔を上げると、無表情な青野の顔が目の前にあって、面食らって体を起こす。
 テーブルには物理の教科書やノートが乗っていた。
 視線を戻すと、青野が腕時計を見ている。
「只今、夜の11時です」呆れ混じりの冷たい目が歩を見る。
 歩は、懐かしい想いに駆られて涙が出た。
「透真さん……」
「なんですか」
「好きでした、ずっと」
 青野が、歩を黙って見つめている。
 痺れを切らした歩が呟く。「……穢らわしいって、言わないの」
「いいえ」青野が目を細める。
「お気持ちは、嬉しいですよ」
 その一言で、歩にはこれが夢だとわかった。




 朝の日差し。コロンの匂い。
 重い色のカーテンは開け放たれていて、大窓のベランダからベッドルームに光が入っている。
 歩は、寝乱れたバスローブを肩にかけ直して、ベッドに体を起こした。
 体は軽い。熱も下がっているみたいだ。
 優しくて酷(むご)い夢を見てしまったせいで、気が重い。
 ベッドサイドには、7時をさしている置き時計と、整然と畳まれた服が置かれている。
 広げてみると、長袖とスウェットパンツだ。下着はパッケージに入った新品。
「……透真さんのかな」
 ここに置いてあるということは、着ていいということだろうか。
 遠慮がちに腕を通すとほのかに青野のコロンが香って、胸が軋む。
 ずいぶん余った丈を折り込んでいると、寝室の扉がノックされた。
「はい」歩が応えると、すぐにドアが開いた。
 髪を乱れなく後ろに撫でつけた、白シャツと黒のスラックス姿。普段の三つ揃いのスーツでないということ以外は、いつもの執事然とした青野だった。
「起きられますか」
 歩は思わず頷いてから、はっとした。「ベッド……借りてごめんなさい」
「いいえ。私も隣で眠りましたから」
 歩は、え、と呟いてからみるみる赤くなった。
 歩が言葉を失っているのに構わず、青野が一礼する。「朝食をお持ちします」
 そう簡潔に言って、青野がベッドルームを出ていく。
 残された歩は、呆気にとられていた。
「なんで、いつも通りなんだろう……」
 青野は殺したいほど歩を憎んでいるはずだ。歩は昨夜、殺されてもおかしくはなかった。
 なのに、このきめ細やかな執事らしい気遣いはどういうことだろう。
 どうすればいいのか、わからない――歩は混乱して、しばらくベッドから動けなかった。
 とにかく、青野の住まいにいるのだから朝食を持って来てもらうのは違うと思った。
 迷った末にダイニングに出て行く。
 キッチンで手際よく働いていた青野は、歩に気づくとテーブルの席に促した。
 まもなく、だし巻き卵とつけあわせが添えられたおかゆ、小鉢にカットフルーツが盛り合わせられた病後に最適な朝食が、トレイに乗せられてやってきた。
 歩が困惑混じりに青野を見上げる。
「食欲ございませんか」青野が即座に尋ねてきた。
「……ううん、ありがと……」
 湯気をたてるおかゆを木のスプーンですくう。ほどよい塩気がきいていて、食が進んだ。
 もし自分が青野の立場だったら、憎んでいる相手にこんなに気遣いに満ちた朝食が出せるだろうか。
 歩は、清潔なシャツの下で傷ついているはずの青野の背中を見ながら、葡萄を口に含んだ。


 曇りなく磨かれた革靴を履く姿。
 歩は、器用に動いて靴紐を結ぶ青野の手を見つめていた。
 スーツのジャケットを手に持ち直して顔を上げた青野に、歩がぽつりと言う。
「本当に、いいの」
「なにがですか」
 青野の冷たい声の響きに、歩が目を伏せた。
(このまま、俺を家に帰していいのかな――)
 昨夜の青野は、復讐のために歩を利用すると言っていた。今は、そのチャンスじゃないのかと思う。
「歩様」
 呼ばれて歩が顔を上げると、青野の冷たい目と目が合った。
「そう諦めた顔をされると、何もしたくなくなるものです」
「でも……復讐するんじゃないの」
「私がどういうつもりか、歩様には関係のないことです」
 鉄の扉は、今日もきっちり閉じている。
 歩は、自分の中に息づいている青野への好意を、そっと心の奥に押し込んだ。


 歩たちが葛城邸に入ると、慌てた様子でメイドのさつきが出てきた。30代半ばの落ち着いた婦人だ。
「体温は36度8分。食欲はおありです、昼は消化のよいものを。入浴もご希望があれば用意して差し上げてください。制服はクリーニングに出してあります、受け取りは私が」
 青野の淡々とした申し送りを受けて、さつきが頷く。「承知いたしました」
「それでは、私はこれで」
 歩は、会釈して邸を出ていこうとする青野を思わず引き止めた。
「どこに行くの」
「自宅へ戻ります」
「今日はもう、仕事はしない?」
「ええ」
 歩の念押しに、青野が簡潔に返答する。
 歩は、青野を引き止めていた手を渋々と離した。
 青野と離れるのが、たまらなく不安だ。
 父親がいつまた青野を蛇の巣窟へ投げ込むかわからない。
 歩の知らない内に、青野が危ない目に遭うのではないかと嫌な想像が渦巻いてしまう。
(……なんか俺、変かな)
 青野に、いつ殺されるのかわからないのに。離れるのが不安だなんて。
「他には、よろしいですか」
「あ……うん、ごめんなさい」
「……歩様。使用人相手にすぐに謝るのは、あなたの悪いクセです」
 声を抑えた青野の言葉に、歩はぎくりと体を揺らした。
 昨夜も、何度も謝罪した。冷たい目の男に唇を貪られながら、何度も。
 歩は、居たたまれない気持ちになって俯いた。
 そんな歩の気も知らずに、青野は表情ひとつ変えることなく玄関を出ていく。
 その背中を、歩はまだ熱の気だるさが残る眼差しで見送った。




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