ずっと名前を呼んでいた気がする。
意識も体温も不確かだった。
厚い胸や背中にすがって、痛々しい色を唇でなぞっていたのは覚えている。
――早く癒えるように。
自分にそんな力はないと、わかっていたけれど。
極上執事の毒
05 秘密
「ん……」
一瞬、この世かあの世かわからなかった。
頼りない明かりが空間を照らしている。
歩は、クイーンサイズのベッドに、ひとりで横になっていた。
息を、している。
(あれ……生きてる)
右の壁一面にカーテンがひかれている。左を向けばクローゼットの扉だ。
微かな雨音に満たされている寝室らしいこの部屋に、物は少ない。
薄っすらと開いたドアの隙間から、話し声が漏れてくる。
「……ええ。落ち着かれたらお邸にお連れします」
(――……透真さんの声だ)
汗でぐっしょりと濡れたシャツが肌にまとわりついて、寒気がした。
声が途切れて間もなく、青野がドアを押して部屋へ入ってきた。手には洗面器とタオル、バスローブを持っている。ベッドサイドまで来て、歩が目を覚ましていることに気がつくと眼鏡越しの目を細めた。ベッドの端に腰かけて、慣れたように歩の腕をとる。
「ご気分はいかがですか」
――どうだろう。よく、わからない。
脇の間に差し入れられた体温計を、歩が力の入らない腕で挟む。
「何時……?」
「夜中の2時です」
――ああ、この声。
歩が好きな、夜の青野の声だ。
ぼんやりと視線の定まらない歩をちらと見て、青野がタオルを持つ。
「キスの最中に倒れたのですよ」
こともなげに言われて、歩は唇が痺れた気がした。なにも覚えていない。
電子音が鳴って、青野が体温計を抜き取る。「7度9分です」
低く静かな青野の声。
歩は、穏やかな海に体が沈んでいくような感覚になった。
「明日、熱が下がりましたら、邸へお連れします」
「俺……帰れるの」
青野が黙る。
歩は、失言だったと唇を噛んだ。
「汗をかかれましたので着替えましょう」そう言って、青野が掛け布団をよける。
慣れた手つきでシャツの前を開けられて、歩の胸は発熱とは違う仕組みで強く鳴り始めた。
絞られた温タオルが肌を拭っていく。
躊躇も遠慮もない適切な力加減で、手際よく、そして優しかった。
こんなことで泣きそうになる。
黙々と手を動かす青野を、歩は夢うつつに見つめていた。
青野に看病をしてもらうのは初めてだ。
歩は幼い頃はよく熱を出していたが、青野が葛城家に来る前のことだ。
病人の世話をする青野の姿は歩には想像つかなかったが、こうしていざ面倒をみられると看病に手慣れていることがわかる。
(なんでもできるんだな……)
歩の体を拭う青野のはだけたシャツの胸元に、ちらちらとあの紫色がのぞく。照度の低い間接照明の中で見ても、痛々しい。
こうして間近で見ると、痣に混じってきつく噛まれたような痕もついている。
歩は、胸が絞られるように痛んだ。
(はやく、消えてほしい)
この忌々しい痕。
美しい青野の体に塗りたくられた醜悪な痕跡の向こうに、欲望に塗れた姿がちらついてしまう。物言わぬ従順な青野を、屈辱的に扱う権力を持った人間たち。
(透真さんを……この人を守らなきゃ――)
熱が上がってきているのか、ぼんやりとした視界がままならない。
ずれた枕を正そうとした青野の手が、歩の枕元に伸びる。
歩は、目の前に近づいた青野の胸に吸い寄せられるように手のひらで触れた。紫色の下で規則正しく鼓動する心臓の拍動が伝わってくる。
胸にも腹にも、肩にも。美身に貼り付いた、傷と痕。
「……消したい、これ全部……」
青野の喉に浮いたうっ血した縄の痕を指で辿ったら、視界が滲んだ。
こんな恐ろしいことが起きなければ、歩と青野との関係は今頃、違っていたのかもしれない。
毎日がもっと静かで、穏やかで。
青野の執事としての美しい振る舞いを、なんの気兼ねもなく安心して見ていられたのかもしれない。
歩は、熱で弱っているせいか、感情が制御できなかった。
あふれた涙が不本意にこめかみを転がる。
「うぅ……っ、く……っ」
――悔しい。くやしい。
何もできない自分が、くやしい。
好きな人を守れなかった自分が、悔しい――。
青野はいつのまにか動きを止めて、青野の肌の上で頼りなく震える歩の手を見ていた。
涙が止まらない歩の顔を見て、その頬にタオルを押し当てる。嗚咽に震える喉、震える肩から不規則に上下する白い胸へとタオルを滑らせていく。
歩は、柔らかに拭われる感触と一緒に押し寄せる眠気と瞼の重さに抗えなくなった。
青野にシャツを脱がされるのを遠く感じる。
そして、泥のような意識に沈んでいった。