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 背中を預けたピアノのカバーが、制服と擦れてシーツみたいな音をたてる。
 腰を抱く手は冷たい気配の割にいつも優しいから、残酷だな、と思った。
 先輩に血を提供するのは、"契約"した時から数えて、今日で4回目だ。そろそろ慣れてもいいのに、首筋に吐息を感じるとどうしても心臓が早鐘のように打ってしまう。
「んっ」
 肌を突き破られる瞬間の甘い痛みに眉が寄った。でもそれも、幾重にも重なったオブラートの向こうで起きているみたいに曖昧だ。
(……熱い……っ)
 先輩の唾液は本当に、肌の感覚を変えてしまう。目の前の肩にしがみつきたくなるのを目を閉じて耐える。寄りかかったピアノの上で強く拳を握った。
 ――はやく、慣れてしまいたい。
 この後ろめたくて虚ろな時間が、黒海先輩が思うのと同じように、俺の中でただの作業になればいいのに。
 肌の上で啜る音がし始める。
 後はもう、快楽に耐えるだけだ。
「は……」
 不意に、耳元で息継ぎされて背中がざわつく。
 意識が融けかかって、息が上がった。シャツ越しの黒海先輩の体温が妙に甘い。
(――……あんな夢、見たせいだ)
 覆いかぶさった先輩の体が自分の上で動いて濡れた音を立てているのが、すごく、淫靡で。
 腰に回された腕で引き寄せられると、切なくて、仕方がなくて。
 胸の奥がぎゅうっと絞られる。
 ――あ、やばい。
 キそう。
 初めて血を飲まれた時の、追い詰められる快感が。
 あんな醜態は二度と晒したくない。黒海先輩は、興奮した人間をきっと疎ましく思う。
「せんぱ……黒海先輩、ま、だ……?」上がる息の合間に訴えてみる。
 没頭しているらしいのは啜り方でもわかる。まだ切り上げてくれそうにない。
 俺は諦めて、さらに我慢を重ねるためにきつく唇を噛んだ。
「っ……」
 ひと筋、血が胸に伝う感覚に身震いする。
 シャツが濡れる――とっさに心配するくらいの理性は残っていた。
 ボタンがもうひとつ外されて、黒髪が鎖骨を撫でた。
「え……」
 先輩の唇が、流れた血を追って降りていく。
(それ、ダメだ)
 唇で触れられるのに慣れてない胸元の肌が、無防備な快感の悲鳴を上げる。激しい鼓動に気づかれてしまいそうで気が気じゃない。
「せんぱ……先輩っ」
 伏せられていた目が俺を見た。赤い瞳が濡れて、恍惚としている。
 ひどい色気に当てられて、腰から力が抜けた。
 先輩が、俺の血がついた指を舐めるのを見たら、自分のが熱く脈打ってしまって腰を引く。
 もう、限界――黒海先輩の体が離れたタイミングを言い訳にして、はだけていたシャツの前を掻き合わせる。
「もう、いいですよね」
 声が震えてしまった。興奮したのを知られたくない。
(はやく、先輩から離れないと――)
 逃げようとしたところで、肩を掴まれた。
 驚いて顔を上げると、シャツの首を引かれて肩まで剥かれる。
「え……!?」
 肩先に唇が這ってくる。胸で背中を押されて、ピアノにうつむけに縋った。
「ちょっ……と、待っ――」
 首の後ろに唇が這って、背中にぞくぞくが駆け上る。荒っぽい息遣いが肌をくすぐって、体が熱くなった。
(先輩、止まらなくなってる――?)
 そうわかった瞬間、冷たい花の香りが強くなった気がした。
 先輩の手が、俺の腰に回る。全身でのしかかられて、体の奥に花の香りを呑み込んだ。
「ん、ぅ……っ」頭の芯がとろけそうになって仕方ないのを、唇を強く噛んで耐える。口の中に微かに血の味が広がった。
 うなじに、乱暴に牙が滑る。
(ダメだ、また、咬まれたら――)
 今度こそ、意識がとんでしまう。
「……っ、もう、だめですって……っ!」
 強く押し返すと、俺に覆いかぶさっていた体が退く。
 黒海先輩が、我に返った表情を一瞬浮かべた。でもすぐにいつもの冷えた空気を纏って唇を拭っている。
 俺は、ピアノの椅子に座り込んだまま鍵盤の蓋にぐったりと体を預けた。体がジンジン疼いて、心臓が走っている。熱くなって始末のつかない体を先輩の目から隠したくて、膝を擦り合わせた。
 まだ赤い色を混じらせた先輩の瞳が、俺を見つめている。血を飲んだ後、更に牙を立てる場所を探るように肌を見るのは先輩の癖みたいだ。
 そんな些細な視線の動きにさえ官能を煽られるから、すごく困る。
「毎回、我慢させて悪いな」
「……そういうの、言わないでください」睨む目にも力が入らない。
 先輩が瞬きする毎に瞳から赤い光が消えて、黒に戻っていく様子に少しほっとする。
 なんとか今日も、契約通りにできた。俺の理性が飛んでしまうこともなく、無事に血を飲んでもらえた。
 ぴりっと唇が痛む。噛み締めすぎて切れたみたいだった。
 じっと俺を見ていた先輩の指が、俺の顎に滑る。
「え」
 あまりにも簡単に近づいた舌先が、俺の唇を拭って離れた。
「な……っ」
「早く治るだろ」
 冷静に言われて、決まり悪くうつむく。
 人同士なら意味が生まれるような触れ合いも、黒海先輩との間では何の意味も生まれない。少なくとも、先輩の中では。
 だから俺も、何も感じなかったように振る舞う。そういう契約だから。
「……先に行ってください」
 置いて行ってもらった方がいい。しばらくすれば体も落ち着くはずだし。
 黒海先輩ももう要領を得ていて、カバンを拾いに行った足で第二音楽室の扉に向かう。俺に視線をくれる最低限の気遣いを見せてから、呆気なく教室を出て行った。
 俺は、先輩の気配が遠ざかるまで、息を潜めていた。
 ずるずると床にずり落ちて、ピアノの椅子を枕にうずくまる。
「はあ……」
 火照った体から、なかなか熱が引かない。
 6月が見えてきた音楽室には、湿気と一緒に、まだ花の香りが残っている気がする。
(いつまで続くんだろう……)
 自分から言い出したことではあるけど、身も心も持たなそうで困った。
 人間を好きにならないヴァンパイアに、まかり間違って片想いするなんて。心を奪われてはいけない、っていう、おばあちゃんの言葉の理由が少しわかった気がする。
(――絶対に好きになってくれない人を好きになるのは、辛いなあ)
 美しい花に誘われて群がる虫と同じように、特殊なフェロモンに影響されているのかもしれない。廊下でみんなが先輩に酔っていたのと同じように、俺も酔っ払ってるだけなのかも。
 だとしたら、これは薄っぺらい恋だ。
 きっとこれから数多あるだろう、叶いもしない片想いのひとつにすぎない。
 だから、触れ合いに意味を探さなくてもいい。はやくこの行為に慣れて、何も思わなくなればいい。
 ……なのに、夢にまで見て、黒海先輩に恋い焦がれてどうしようもない自分に苛まれる。
 腰を抱く優しい手の感触に特別な意味を探してしまうのだ。
「……ダメだ、全然」
 自分の心も体も、すべてが、思うようにならない。
 体ばかりが気持ちよくなって。
 黒海先輩の心は、ここにないのに。





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