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◇◇◇




 6月に入ってすぐ、5月の抜けるような晴れ模様は終わった。
 連日の小雨で、肌に水の膜をまとっているみたいだ。
 机に突っ伏したまま、窓ガラスを伝う雨の軌跡を眺める。教室のざわめきが遠い。
 ……一体俺は、どうしてしまったんだろう。
 ずっと首筋が熱い。微熱が続いているように気だるいのが、甘く疼いて苦しい。
 最後に黒海先輩に会ってから、1週間が過ぎた。そろそろ喉が渇いているんじゃないかと思うのに、音沙汰がない。毎日のように下駄箱の前で身構えては気が抜けて、を繰り返している。
(ヴァンパイアって、どれぐらいの期間、血を飲まないでいられるものなんだろう――)
 俺の血に飽きて、他の誰かからもらっているのかもしれない。
 ――けど、そうじゃなかったら?
 また、どこかで一人で倒れてしまうかもしれない。
 黒海先輩の様子を見に教室に訪ねて行こうかと思ったけど、できなかった。
 ――疎ましいと思われたら、嫌なんだ。
(……これじゃ、まるで飲まれたがっているみたいだよな)
「朝陽ぃ。昼だぞー」国尾が嬉しそうな顔で俺を見下ろしている。
 教室を見回してみると、みんな財布や弁当を持ってざわついていた。
「おーい、財布」
 席を離れかけたところで国尾に言われて、俺はカバンを探った。
「おまえ、最近変だな?」国尾が、後に続いて教室を出た俺に目を細める。「上の空っていうかさ。悩みでもあんの?」
 ……悩み、か。
 たしかに、今までの俺なら何でも国尾に相談していた。
 でも、こんなことは。
 黒海先輩がヴァンパイアで、俺が血を提供していることなんて。
 ……そんな先輩を、好きになったなんて。
 絶対に、言えない。
「何もないよ」
 がしっと肩を組まれた。この体格差だと捕まえられて、って言った方が正確かもしれない。
「ひとりで抱えないで、なんでも相談しろよ?」
 そう言った国尾が、俺の頬を片手で掴んでたこ口にする。
「わ、わはったっ……わはったから離してって」
 国尾が、にっと笑って体を引いた。その大きな背中を見ながら階段を降りる。
 ――なんでも、か。
 黒海先輩に血を提供する契約をしたなんて言ったら、国尾はどんな顔をするだろう。それだけでは済まず、黒海先輩を好きで苦しい、なんて。
 俺の、うわべだけは平穏な世界まで、変わってしまいそうでゾッとする。
 食堂に向かいながら、すれ違う学生たちに目を泳がせた。暗くて冷たい空気をまとった姿はない。
 ――会いたいな……。
 容赦なく肌を突き破ってくる牙の感触とか、逃げようのない力の強さとか。あの赤い瞳も、全然慣れない。思い出しても身震いするほど怖い。
 なのに、会いたい。
 渇いた喉が水を欲しがるみたいに、黒海先輩の気配だけでも感じたい。
 先輩にとっての俺は、並んだたくさんのボタンのひとつで、押せば呆気なくコップに注がれるドリンク同然だというのに。
 重苦しい胸を撫でる。
「……この辺が、ぐちゃぐちゃだ……」
 食堂に続く渡り廊下を歩きながら、未練がましく第二音楽室の窓を見上げてみた。
 期待した姿は、そこになかった。




 食堂は相変わらず賑わっていて、早速、国尾とはぐれた。
 人波の中に先輩の姿を探す癖がついてしまったのを、我ながら恐ろしいなと思う。
 販売口の列に並ぶ気力が湧かずに作り置きのパンの棚に視線を向けると、金髪の派手な雰囲気の男子生徒が食堂に入ってくるのが見えた。
 見覚えがある。人を寄せつけない黒海先輩が、よく一緒にいる人だ。
 あの人は、俺が黒海先輩に挨拶するとき必ず口端にからかいの笑いを浮かべる。だから、なんとなく苦手だ。
 でも……あの人なら黒海先輩の近況を知っているかもしれない。
(声、かけてみようかな――)
 思った瞬間、その目がこの混雑の中でいきなり俺を捉えた。
「えっ」思わずうろたえる。
 二重のはっきりした目を細めて、厚めの唇が薄く笑った。俺を挑発的な目で見てから、ひと気の少ない食堂の裏口へ歩いて行ってしまう。
 俺は慌てて人波を掻き分けて、裏口から出ようとしていた背中を追いかけた。
「あの……すみません!」
 声をかけると、金髪の人は悠然と俺に向き直った。
 肩にかかりそうな長さの毛先が派手に遊んでいる。染めているのか自毛なのかは、はっきりした目鼻立ちからは判断できない。国際科があるこの高校には、外国籍の生徒もいるから金髪も珍しくないし、教員もいちいち咎めたりしないんだ。
 静かな黒池先輩とは対照的な豪奢さ、というか。西洋絵画の英雄のような容貌が、俺の中でなにかと重なる。
(――……黒海先輩と……似てる……?)
 全然似てないのに、すごく似ている。
 人を惹きつけるように計算されているみたいに、そこに存在する雰囲気が。
 目にかかった波打つ金髪を無造作に掻き上げて、その人は口端をにっと上げた。
「へえ、見たことある顔だ」
 芝居がかった軽妙な言い方が、雰囲気によく似合っている。
 俺は警戒して、その顔を見つめ返した。「黒海先輩の……お友達ですよね」
「お友達、ね」意味深に呟いて、鼻で哂う。「おまえ、一夜に惚れてる2年だろ」
「惚れ……っ」
 絶句した俺を、おかしそうに見つめてくる。「悪い悪い、オブラートに包んでやんないとな。一夜を"慕ってる"後輩、な」
 俺は、否定も肯定もできずに顎を引いた。なんだかやりにくい人だ。「……黒海先輩とは、今日は一緒じゃないんですか」
「四六時中一緒にいるかよ。どっかで飯食ってんじゃねーの」
 先輩は、学校には来てるらしい。飯、って……食べ物なのか、血なのか。どっちだろう。急に気持ちがざわつく。
「一夜に用?」
「いえ……元気ならいいんです」
 しつこくして煙たがれるのは本意じゃないんだ。
 黒海先輩が無事だとわかったから、安心できた。連絡があるまで先輩のことは忘れておこう。お互いの為にそれがいい。
「ふーん……なるほど」はっきりとした二重のタレ目が俺を見つめてくる。「志田、だっけ。下の名前は?」
「……朝陽です」
「あさひくん、ね。俺、赤岩秀二(あかいわ・しゅうじ)っての」
「あ」
 校内で、よく聞く名前だ。
 何人も同時につき合ってる、とか、夜遊びが激しくてトラブルを起こしているとか。これだけ目立つ人だったら噂話の1つや2つあるだろうけど。
「なに。あ、って」
「いえ、何も」
「俺の悪い噂でも知ってるのかな?」
 図星をつかれて反応に困っていると、赤岩さんが口端を上げて笑った。俺をじっと見下ろして、観察するような目をしている。
 さすがに居心地が悪くて、俺はあからさまに表情をしかめてみた。「……なんですか?」
「何ともないんだ?」
 急に言われても、意味がわからない。
「ほら……なにか感じないの」
 念を押すように言われて、思わず周囲を見回す。
 特に何も……ない、と思うけど。
「へえ、面白ぇ。もう少し……強めてみるか……」
 ――何言ってるんだ、この人?
 そう思って見ていたら、背後に気配を感じた。振り返って見ると、食堂の中でトレイを持った女子が立ち止まってこっちを見ている。すると、また一人、もう一人と足を止めて、遠巻きにこっちを見ている。
「んーまだダメか。じゃあ……もっと強くしてみよっか」
 赤岩さんがそう言った途端、ガシャーン、と食器が落ちる音がした。
 女の子が床に座り込んでしまって、周りが慌てて声をかけている。
「え……?」
 集まってきた男子学生も次々に立ち止まって、こっちを見ている。
 この異様な空気、身に覚えがある。
(2年の廊下に、黒海先輩がいた時と同じだ)
 百合の香りが鼻先を掠めた気がして、頭の端に黄色信号が点る。赤岩さんが吹き出したのが聞こえて、俺は振り返った。
「これでもダメぇ? すげえな。不感症か?」
 この人、もしかして――。
「おまえ、一夜相手でも耐えるらしいね。褒めてやるよ……"人間"のクセに」
 その言い方に、ひやっとする。黄信号が、赤に変わった。
「あさひクンは、一夜にどこまで聞いたのかな」
 俺は、舌が凍ったみたいに返事をためらった。下手なことを言ってはいけない気がした。この人には、気を許しちゃいけない気がする。「どこまでって……何も」
「ふーん……まあいいや。立ち話もなんだし、俺ともっと話そうよ」そう言って、赤岩さんが微笑む。「いろいろ教えてあげるよ。いろいろ、ね」
 軽妙なペースに巻き込まれてしまわないように、俺は黙っていた。もしこの人が、黒海先輩と同じようにヴァンパイアだったら、二人きりになるのは危ない気がする。
「毛が逆立った猫みてえ」赤岩さんが鼻で哂う。「こいつアホなのかなーと思ってたけど。意外と警戒心あるんだな」
 いきなりアホ呼ばわりされてさすがにムッときた。心外を隠さずにいると、赤岩さんがさらに口を開く。
「おまえ見るたびに、哀れだなあって思ってたんだよ」
「……俺が、なんで哀れなんですか」
「一夜は、人間を好きにならねえよ?」
 言葉に詰まった。
(……知ってる。本人の口から聞いてる)
 今更どうとも思わない。少なくとも頭では理解しているし、わかってる。
 赤岩さんが、目を細めてどこか楽しそうに俺を見た。「傷ついちゃった?」
「……何に、ですか」
「しらばっくれてもわかるよー」赤岩さんがひとつため息する。「一夜の正体、知ってるでしょ」
 どくっと心臓が不穏に揺れる。俺は、すんでのところで黙っていた。下手なことを口にすればつけ入られる気がする。黒海先輩にも迷惑がかかるかもしれない。
「一夜に気に入られてるのかも、なんて間違った期待を持たないように教えとこうかと思って」
「期待なんてしてないです」自分で言っておいて、胸が締めつけられた。
 本当に何も思わずにいられたら楽だけど。先輩に逢う度に、どうしても――。
「そうかなあ……なにか勘違いしかけてんじゃないかなあと思ってたんだけど」
 この人は、どこまで知っているんだろう。俺が、黒海先輩に血を提供してることを知っているんだろうか。
「面白いなー、目が泳いでるよ後輩クン」赤岩さんがサディスティックに喉の奥で笑っている。「一夜にとっては、あさひクンは大勢の内の一人ってだけだから」
(……なんでこの人、こんなに楽しそうなんだろう)
 快活で明るそうに見えるのに、言葉の底に暗いものを感じる。
 人をいたぶる趣味があるのかな。
 赤岩さんは、黙っている俺をつまらなそうに一瞥すると、片手をポケットに突っ込みながら顎を撫でた。
「んー……もっと違う顔がみたいんだけど。じゃあ、これなんてどう?」口笛でも吹き出しそうな口調で。
「一夜には、本命がいるんだよ」




 11/01/29 初出
 20/09/01 追加修正





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