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◇◇◇




 1日の内で、この時が一番緊張する。
 無表情を装って下足箱を覗き、息を詰めた。
 2つに折られたルーズリーフの切れ端が靴の下に挟んである。手にとって周りを窺ってから開いた。
『15時』
 走り書きの文字は、そっけない。
 スマホで時間を確認すると、あと30分だ。
「……ごめん、国尾(くにお)。先帰ってて」
「え?」
 俺の後ろで靴を履き替えていた国尾が呆けた顔をする。
 国尾と俺は、同じ中学出身でお互いの初恋の人まで知っている気の置けない友達だ。水泳部の猛練習で鍛えられた逆三角形の体は、まだ夏前なのに黒々としている。
「図書室で借りた本、今日期限だったの思い出したから」言いながら、思わず視線が泳ぐ。
「つき合おうか?」
「また借りるし……時間かかるよ。ごめんな、新しい牛丼屋に一緒に行けなくて」
「いーよ、誘ったの急だったから。また今度な」
 俺の肩を叩いて、たくましい背中が玄関を出て行くのを見て胸が痛んだ。
(……何も、悪いことはしてない)
 血を飲まないと生きていけない人に血を提供するのは、食べ物がない人に食べ物を提供するのと変わりないはずなんだ。
 なのに俺は、親友に嘘をついて先輩に逢いに行く。
 なぜ隠すんだろう。
 なんでこんなに、後ろめたいんだろう。




 旧校舎の1階へ続く人気のない渡り廊下に、樹木の影が落ちていた。校庭を横切るように打たれた白いコンクリートの床を、ざわついた心境で歩く。
 緊張しているような気が引けるような、でも、浮かれてもいるような感じだ。黒海先輩に会えるのは正直に言って嬉しい。
 でも、素直に喜べない。
 湿気を含んだ風に首筋を撫でられて、ぞくっとする。
 もう数十分後には、黒海先輩の唇が俺の首筋に――そう考えたら、めまいがした。
「黒海先輩!」
 耳に飛び込んできた名前に動揺して、辺りを見回す。後方に人影が見えて、とっさに柱の陰に隠れた。
 首を出して様子を窺うと、渡り廊下の入り口で男子生徒に引き止められている黒海先輩が見えて、心臓が跳ねる。
(誰だろう――)
 男子生徒は、意志の強そうな大きな目が印象的だ。どこかで見たことがある気がする。俺と同学年かもしれない。
「返事もらえませんか」
 ここまで届くはっきりとした口調に、ドキッとした。黒海先輩相手に物怖じしない様子は自信に満ちて見える。たしかに、華があって人目を惹く雰囲気があった。
 立ち聞きするつもりはなかった。でも、タイミングが掴めなくて動けない。
 構わずに歩き出そうとする黒海先輩の前に、男子生徒が回り込む。
「返事って、なんの」先輩の冷たい声に、こっちが身震いした。
「先輩のことが好きなんです。つき合って欲しいって言いましたよね」
 心臓が強く鳴り始めて、息を殺した。
「もうひと月は待ってますよ。そろそろ返事ください」
 詰め寄られた黒海先輩は、男子生徒を一瞥して歩き出した。
「ちょっと待って、黒海せんぱ――」
「興味ない」
 体の芯まで凍るような声と気配が耳に痛くて、それ以上聞いていられなくなった。黒海先輩の態度にほっとしているのに、怯えてもいる。
 ……あの男子生徒は、未来の俺だ。
 黒海先輩が向ける冷たい目は、いつかきっと俺にも同じように注がれる。
 あの冷ややかさを向けられたら、俺ならどうなるだろう。
 男子生徒が黒海先輩の肩を掴む。そして、少し伸び上がった。
「あ」思わず声が漏れて自分の口を、慌てて塞いだ。
 キス、してる。
 黒海先輩の陰でよく見えないけど、慣れた空気だ。二人の間では初めてじゃないのかもしれない。
 時間が長く感じて、自分の心が沈んでいくのがわかる。
「……気が済んだか」冷たく言い放った黒海先輩が、再びこっちに歩き出した。
「じゃあ、なんで俺と寝たんですかっ」
 一瞬、息が止まる。
「おまえが俺と寝たがったからだろ」
「先輩もそうだと思ってたのに……なんで急に誘いに乗ってくれなくなったんですか」
 生々しい会話だ。鳴りすぎる胸が痛い。
 黒海先輩が、鼻で哂う気配がした。「他の相手探したら」
「な……っ」
 先輩の足音が近づいてくる。
 俺は今更出て行くわけにもいかなくて、柱の陰に身を寄せた。
 どんな顔をして会えばいいのかわからなかったから、見つからないように、ひたすら身を小さくして無機質な床を見つめた。
 足音が真横まで来たとき、一瞬、その歩調が緩んだのがわかった。
 顔を上げられなかった。あの冷たい目で見下ろされたらと思うと、怖かった。
 黒海先輩は、何も言わずに通り過ぎて行った。
(見つからなかったのかな……)
 足音少なく廊下を歩いていく背中を、恐る恐る見た。冷気をまとっているようで身震いする。
 柱の陰から後ろを覗くと、もう男子生徒の姿はなかった。
 ……二人は、関係があったみたいだ。
 先輩の空気は冷たかった。本当に、ただの食事なんだろうか。
 きっと、俺も同じだ。黒海先輩から見れば、ただの――。
「……待ち合わせに、行かないと」




「ふー……っ」
 ほんの少し開いている第二音楽室の扉のノブに手をかけて、深呼吸をする。さっきの場面に居合わせた気まずさが消えるまで、少し時間がかかった。
 ……大丈夫。大丈夫だ。
 今日も俺は何事もなく、自分が言い出した役割を果たせる――。
 目を閉じて、頭を真っ白にして。たった数分間のことだ。
 防音扉の隙間から教室を覗くと、窓際で外を眺めている黒海先輩の姿が見えた。
 風もないのに黒髪が揺れて見えるのは、長いまつ毛のゆっくりとした瞬きのせいみたいだ。表情も、少し穏やかに見える。
 ……ここでずっと、見ていたい気持ちになった。
 気づかれないまま、空気のように。
 風に吹かれている花を、静かに見つめるみたいに。
 いちいちこんなに胸を苦しくさせているのは、ダメだ――小さくため息をすると、強い目が不意にこっちを向いた。さっきの冷たい先輩が頭をちらついて、足が逃げかかったのをギリギリでこらえる。
 黒海先輩が、こっちに歩いてくる。
 俺は観念して、隙間から滑るように教室に入り、防音扉を背中で閉めた。
「いるなら言えよ」
 静かな声を遠慮がちに見上げると、既に赤を滲ませた黒い瞳が俺を見下ろしていた。
 それだけで、背中にじりっとしたものが走る。
 心なしか、先輩の顔色が白い。
「体……平気ですか」
 一瞬、黒海先輩が眉を寄せた。俺は慌てて、説明のために口を開く。
「あんまり顔色良くないな、って――体が辛いんじゃないですか」
 小さいため息の後に、形の美しい長い指が俺の頬に滑った。「それは、俺のセリフだけど」
 滑って降りた指先が、俺の詰め襟を軽く引く。留め具が外れた音がした。
 強い花の香りが溢れ始める。先輩が俺の血を欲しがっているんだと思ったら膝が震えた。怖いのか嬉しいのか、よくわからない。
『先輩のことが好きなんです』
 さっきの男子生徒のセリフと、冷たい先輩を急に思い出して、息を詰める。
 ……速くなる鼓動に気づかれたらダメだ。俺はなんでもない顔をして、この時間を過ごすんだ。
 絶対に何も欲しがらないって、契約をしたんだから。




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